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《虚蝉》漆






 萌黄は勢いで外に飛び出したが、行く当てもなく、土塀を挟んで通りに面した主庭の池の傍で涙を堪えていた。


 彩り豊かな錦鯉達は、何食わぬ顔で鰭を振り尾を振り優雅に泳ぐ。さながら、我が子に関心のない粧した母のようであり、世間の人々のようでもあった。萌黄の中の重大な事件や悲しみは、世の中では取るに足らない砂粒と変わらない。それが悔しくて、泣くもんかと思った。


 背後で玉砂利の擦れる音がして振り返ると、イヨが心配そうに声をかけるべきか否か考えあぐねていた。手には何やら風呂敷を抱え、外から帰ってきた様子だった。


 萌黄が考えた案とこれまでの一部始終をイヨに話すと、イヨは何かを決意したのか、こう言った。


「お姫様(ヒイサマ)!蔵に行きましょう!確かあそこには若様の古くなった着物や袴、それに殿様の昔の学生帽が仕舞われていたはずです!」


 萌黄の無茶に、いつも諫めきれず渋々付き合っていたというのに、珍しく協力的だった。


 実はこの時、イヨは一日暇を貰って帝国大学へ行っていたのだ。勿論、萌黄の為である。何とかして澄愛に話を聞けないかと、労を取っていたのだった。結局会えずじまいで帰って来たところに、萌黄を見かけて声をかけた次第である。


 そんなことを知らない萌黄は、イヨの心の変わりように思わず耳を疑ったが、何にしても彼女が味方であると改めて確信した。


 鍵を管理していた使用人に、探し物があると、萌黄が直接掛け合ったのは、イヨに災いが及ばぬようにと考えてのことだった。イヨのような権限の低い使用人が、主の許可なく蔵に入ったとなると、あらぬ疑いがかかるだろうと判断したのだ。


 イヨにはイヨの立場があるのだ。目的を見据えて強く気を張れば、萌黄の視界は明瞭になるようだった。


 鍵を管理しているのは古くから仕える男だった。姫君の突然の申し出に驚いた男は、幼い頃からその跳ね返りっぷりを見ていた所為もあって、また良からぬことでも考えてはしまいかと疑ったが、娘のように思ってきた愛らしい瞳が懇願すると、お手上げだった。


 黴臭く埃っぽい蔵の中を探すのには苦労した。いくらお転婆に育ったとは言え、萌黄はれっきとした令嬢である。重たい物を持つ機会は殆ど無かったし、このような薄汚れた仄暗い場所に居ることは酷く苦痛に感じた。


 探し物は案外早く見つかり、萌黄は内心ほっとした。蔵を出た頃には、すっかり日は暮れていたが、汚れた顔は一仕事終えたように満足げだった。今ならどんな事でも成し遂げられるような気さえした。








 計画らしい計画は無かった。


 男装をして大学に忍び込むというだけで、萌黄とイヨにとっては大罪と同等の重みがある。三好に色々と訊いて内情を探ってはみたが、構内もさっぱり分からない。そんな不安定な状況でも、萌黄は後に引けなかった。


 きっと上手くいく。根拠も無しに自分に言い聞かせて、意を決して帝大に向かった。戦地に赴く武士の風情すら漂わせて。


 流石に男装して家を出るわけにはいかず、途中の寂れた宿で着替えた。イヨが丈を詰めた袴は丁度良かった。いつの間にか撓わに育った胸も晒しで抑えて、髪も学帽の中にすっぽり収めて目深に被ると、一見少年のように見えたが、それでも澄愛が言っていたように、“女らしい体の線”は隠しきれていなかった。


 それでも、傍に寄りさえしなければ、少年で通せるだろう。背の低い男は大勢居る。他人との接触を避ければ、問題はないはずだ。


 イヨは宿で待たせることにして、萌黄はいよいよ乗り込んだ。


 一人でこんな所に来ることでさえ初めてなのに、よもや自分がこれ程まで大胆な行動を取れるとは思っていなかった。澄愛はそこまで萌黄の心を動かすのだ。それだけで、萌黄にとって澄愛がどれだけ大きな存在かを示していた。


 敷地内は思っていた以上に広大に感じた。様々な建物が並び建ち、その中のどれに澄愛が居るのか皆目見当もつかない。


 ちらほらと見かける学生に訊ねようと思っても、ばれてしまうのではないかと思うと、声をかけることが出来なかった。それどころか、今も皆が自分の姿を怪しんで、じろじろと見てはいないか、警察に突き出されやしないかと気が気でない。


 笑って友人同士でお喋りする学生達は皆、自分を嘲っているように見えた。若い男達が、自分の足を、腕を、顔を、好色の目で見ている。女の分際でおかしな格好をして気でも狂ったかと、蔑視している。一度そう思いこめば、底なし沼に嵌まったような恐ろしさが込み上げた。


「あの……」


 背後からの突然の声に身を竦ませて、萌黄は、気づかれた、と思った。


 慌てて走る。振り返りすらせずに、萌黄は咄嗟に逃げた。


 息も絶え絶え、身を隠すために入ったのは赤い煉瓦の建物。広い閲覧室と書棚の様子から、図書館と思われる。閲覧室では勉学に励む学生がまばらに席についていた。


 高い天井と柱のない造りで見通しがよく、身を隠せないと考えた萌黄は息が詰まりそうになり、階段を駆け上がった。急いで、書棚の裏に座り込み、乱れた息を整えた。


 心臓がばくばくと早鐘を打ち続けている。晒しがきつくて、息が苦しい。


 思わずのたうち回りそうになるのを抑えて、自身を抱くようにしてうずくまった。それでも、胸の苦しみは治まらず、目に涙が浮かぶ。


 やっぱり私は浅はかだ。何の計画も無しに動いてしまうなんてと、ここに来て萌黄は後悔した。他にも方法はあったかもしれないと。


 ふいに意識が遠退いて、闇の中に澄愛を見た気がした。


 優しい腕の中に包まれて、澄愛の笑顔を仰ぎ見る。澄愛は、やはり君には男の格好は似合わない、と笑っている。けれど、僕の為にこんな事までしてくれてありがとう、と頬を撫でる。自分はその言葉が欲しかったのだろうと気づく。その大きく滑らかな手が気持ち良くて、萌黄も笑みが漏れる。


「会いたかったの……」


「……も、会いたかった。」


 柔らかく温かい声が聞こえて、胸の苦しみから解放された。視界が白んで次第に鮮明になった。視界を支配していたのは見知らぬ男の顔。しかし、萌黄はぼんやりと、この眼に馴染みがある気がした。宝石のように美しい眼。青だとばかり思っていたが、瞳孔に近づくにつれて、黄色みがかっている。まるで、花が咲いているようだった。


「おい、おい。しっかりしろ。」


 男が言って、はっと意識がはっきりした。気づけば、男に抱きかかえられている。


 萌黄は小さく悲鳴を上げて、思わず男を突き飛ばすように押し退け、男の膝から転がり落ちた。


「痛っ……」


 男は背後の書棚に頭をぶつけたようで、後頭部をさすりながら萌黄を軽く睨んだ。その男は以前赤門の前でぶつかった異人だった。


「あ、あ、貴方……」


 状況を把握できていない萌黄は、何か言わなければと思うが、言葉が見つからない。


「自分で巻いたのか?」


 戸惑う萌黄を余所に、男が言った。今更気づいたが、男は日本語を話している。この異人は日本語が解るのだ。


 それにしても唐突で、何の話か分からない萌黄は眉根を寄せて首を傾げた。


「きつく巻き過ぎだ。少し緩めろ。また意識を失うぞ。」


 不躾に胸の辺りを指差され、隠すように両手で覆った。晒しのことを言っているのだ。この男は萌黄が女だと気づいている。


 途端に、萌黄は不安で押し潰されそうになった。この後はどうなる?警察に突き出される?それとも、これをネタに脅されるかもしれない。そう思うと、目の前の男が急に恐ろしくなった。


「おい、聞いているのか?」


 男の手がふいに伸びて、萌黄は肩をびくりと震わせ、顔を背けて目を瞑った。怯えていることに気づいたのか、伸びた手は萌黄に触れることなく気配を消した。


 恐る恐る目を開くと、男の視線は下を向いていた。何処となく淋しげに見えたのは気のせいだろうか。


「あ、あの……」


 悪い男ではなかったかもしれない。気が動転していたとは言え、酷い態度だったかもしれないと、萌黄は歩み寄ろうとしたが、男は何でもなかったように言った。


「女がそんな格好で何をしている。」


 責めるような訊き方だった。萌黄はやはり距離を取ったまま、少し考えて答えた。


「貴方こそ、何を言っているのだ。ぼ、僕は男だ。」


 暫しの沈黙は異常に長く感じた。男は白けた目を向けている。


「じゃあ、何の為に晒しを巻いているんだ?」


「あ、貴方に話す必要はない。」


「えらく高い声だ。それに……」


 言いながら、男は萌黄が被っていた帽子を奪い取った。入れ込んでいた髪が、はらはらと背に流れた。


「その髪の長さはなんだ。いまだに侍気取りか?」


 隠せもしないのに、萌黄は慌てて頭を抱えた。


「か、返して!返してちょうだい!」


 俯いたまま萌黄は訴えたが、「あまり騒ぐと他の奴が来るぞ」と男に脅され、消え入るような声で続けた。


「お願いよ……返して……私……」


 声が震えて上擦っているのは自分でも分かった。誰か助けてと、胸の内で叫んでいた。そこに当然のように浮かぶのは、澄愛の名だった。


「澄兄様……」


 つい漏れてしまったその名に応えるように、優しい声が耳を撫でた。


「そのぐらいにしてくれないか。その()は僕の大事な人なんだ。あんまり苛めないでくれ。」


 そこに居たのは、まさしく澄愛だった。久しく待ち焦がれていたその人だった。


 萌黄は帽子のことも忘れて、澄愛の方へ駆け寄り、そのままの勢いで胸にしがみついた。


「澄兄様!」


「おやおや……」


 澄愛は優しかった。そっと片腕で抱き寄せ、もう片方の手で萌黄の頭を撫でた。まるで親が幼子をあやすように、愛おしそうに。


 この手だ。私が求めていたのはこの手の温もりだ。萌黄は実感した。彼の傍が良い、と。


「君は池元(イケモト)病院の若さんかな?」


 萌黄を離さない澄愛は、青い目の男に訊ねた。


「だったら、何だ。」


「会うのは初めてだね。よく君の話を耳にするよ。最近は特に。」


「そういうアンタは、見目麗しい優秀な助教授様だろう?俺の耳にもよく届く。近頃頻繁にな。」


 二人は互いに知っているのかいないのか、微妙な空気を醸す。萌黄は子供のように澄愛に縋りつきながら、ちらりと男を見やった。


 彫りの深い目元に、すっと伸びた鼻は形良く、やはり日本人のそれとは違うが、何故だか、英吉利(イギリス)亜米利加(アメリカ)の異人とも少し違うように見えた。それよりは、馴染みのある面差しだった。


 歳は澄愛と同じか少し若いくらいだろう。清潔感のある白いシャツに、亜麻色のスラックスをサスペンダーで留めているが、相変わらず洋装がよく似合う。だらしなく緩めたネクタイでさえも、 活動写真の俳優のように様になっていた。


 二人は暫く互いに見合ったまま、何も話さなかった。まるで目だけで会話しているようだった。


「久松先生!ここに少年が来ませんでしたか?落とし物を拾ったのですが、声をかけたら逃げられてしまいまして……」


 そこへ、生真面目で真っ直ぐな声が飛び込んだ。萌黄はその声に覚えがある。


「あれ?その少年は……あれ?少……年?」


「おや、三好君。」


 澄愛の胸に深く顔を埋める萌黄は震えていた。


 三好に知られてしまった。きっと、お祖父様に言いつけられる、と瞬時に思ったのだ。


 澄愛はそれに気づいているのか、大丈夫だ、と宥めるように更に強く胸の中に引き込んだ。とくんとくんと、優しい澄愛の心音が耳を通って、萌黄の胸にも響いていた。不思議と、何も案ずることはないのだと思えてきた。


「落とし物とは何だい?」


 おそらく澄愛はいつも通りの動揺のない微笑みで訊ねている。萌黄は顔を隠しながら、周囲の様子を想像していた。


「あ……いや、ハンケチなんですけど……これって……」


 萌黄ははっとした。つい、いつものハンケチを持ってきてしまったのだと。レエスで縁取られた淡い桃色のハンケチ。アルファベットの『M』と刺繍されている物。明らかに女物だ。


「それは……」


「俺のだ。」


 澄愛が言うが早いか、青い目の青年が言った。


「え……でも、これは……」


「拾ってくれて礼を言う。」


 萌黄の傍を微かに風が立ち、青年が横切ったのが分かった。どうやら三好からハンケチを奪い取ったらしかった。


「三好君、まだ何か用があるのかい?」


 穏やかに、しかし畳み掛けるように澄愛が訊ねる。


「落とし物は持ち主の手に戻った。ここは図書館の二階で、特別閲覧室と教官閲覧室となっているね。卒業生でも院生でも、ましてや教授でもない君にはまだ必要のない場所だと思うのだけれど。」


 その声は柔和な響きでありながら、抑えつけるような重たさを持っていた。


 三好はおそらく萌黄のハンケチに見覚えがあったのだろう。この状況にまだ懐疑しているらしいが、それでも、澄愛の圧する態度に腰が引けて、階下に下った。


 なんだか三好には悪いことをした気がして申し訳なく思ったが、同時に萌黄は胸を撫で下ろした。


「さてと……まずは、池元君。この娘の物を返してくれるかな。」


 その言葉を聞いて、ようやく萌黄は澄愛から離れた。ただ、その手は堅く、彼のチョッキを掴んだままだった。


 促されて、池元と呼ばれた青年は学帽を投げて寄越し、澄愛は丁寧に萌黄の髪を帽子の中に収めて被せた。


 彼に髪を触れられるのが心地良い。萌黄は澄愛の長い指が好きだった。


 陶然とする萌黄とは対照的に、澄愛は何か気に食わないように、池元を見据えている。


「“それ”も、返して貰おうか。」


「“何”のことだ。拝借したものは返しただろう。」


 池元のふてぶてしい態度を、澄愛は暫く見つめて、言った。


「……そうだね。確かに。“それ”の持ち主は君だ。“ここにはそんな女物を持つ人間は他に居ない”、ということで良いね。」


 池元は何も言わなかった。だが、二人の間で会話は成立していたようだった。


 それから萌黄は澄愛に手を引かれて、構内の別棟の一室に連れて来られた。その間、澄愛は一言も言葉を発しなかった。萌黄には、それがとてつもなく恐ろしかった。きっと澄愛は怒っている。こんな真似をして忍び込んで、挙げ句、二人の目撃者を出してしまった。それより何より、あの優しい澄愛を怒らせてしまったのだということが、一番悲しかった。今度こそ嫌われてしまう、と。


 着いた部屋は縦長窓のついた洋室で、洋風の書斎机と大きな書棚が所狭しと並んでいる。本の背表紙はどれも異国の文字で記され、萌黄は一つも理解出来ない。


「ここは僕の研究室だよ。幸いなことに今は誰も居ないね。」


 やっと話してくれた澄愛の表情は読めず、萌黄は、ここは裁判所で、自分は判決を待つ被告人であるような錯覚を起こした。


「座りなさい。」


 澄愛が一つ椅子を勧めて、声もでないまま、言われるがまま腰をかけた。萌黄は俯いている。澄愛と目を合わせるのが恐かった。


「さて……どうしてこんなことを?」


 知っているが敢えて、という風な落ち着いた訊き方だった。


「……ごめんなさい。」


「萌、僕はどうしてと訊いているのだよ?謝って欲しいんじゃない。」


 その声は想像とは裏腹に、優しかった。しかし、優しいからこそ、妙な畏怖が感ぜられ、どうしても顔を上げられない。


「だって……澄兄様にお会いしたかったんだもの。澄兄様ったら、私を避けていらっしゃったでしょう。だから……私……何か悪いことをしたのなら謝りたくて……」


「どうしてそう思ったんだい?」


「その……私が澄兄様に心配ばかりかけているから?」


 澄愛は黙ってしまう。明らかに視線を感じるのに、ただ沈黙だけが与えられる。不思議な心地になる。沙汰を待つ恐怖と、静けさの中に二人きりという緊張。彼に全てを支配されている。そんな眩暈にも似た何か。


 沈黙に堪えきれず、萌黄は思わず澄愛を見た。互いの目が出逢うと澄愛は、親が我が子愛しさのあまり吐き出すような嘆息を漏らして、少し哀しげに微笑んで、「君は本当にまだ何も解ってないのだね、本当に無垢だ」と言った。


 それが咎めなのか呆れなのか分からず、目に熱いものがこみ上げてくる。零れ落ちないように堪えると、僅かに身体が震えた。椅子に座ったまま長身の澄愛を見上げる。


「ねえ、澄兄様……教えて。」


「え?」


 萌黄は震えた声で懇願する。


「私は何を解っていないの?どうしたら許して下さるの?教えて、お兄様。」


 ほんの僅かな時間、澄愛は惚けるように、或いは驚いた様子で萌黄を見つめていた。しかし、逃れるようにすぐに目を逸らし、今度は溜息とは違った、調子を整えるような、落ち着きを取り戻すような息を吐いた。


「僕は怒ってなんかいないんだよ、萌黄」と言いながら、澄愛はゆっくりと眼鏡を外す。「でも……そうだね。こんなに大胆なことをして、僕の肝を冷やしたんだ。お仕置きは必要かもしれない。」


 眼鏡をしていても整った顔は崩れなかったが、外すと更にその品の良さ、美麗さは際立つ。そして、眼鏡であやふやに誤魔化されていた艶が匂い立つ。


 萌黄はこの素顔を見るといつも思う。この顔が好きだ、と。彼になら何をされても良いと思わせるのだ。


「目を瞑って、萌黄。罰として実験を手伝ってもらうよ。」


「実験……?」


「そう。催眠法だよ。」


 おとなしく萌黄は目を閉じる。目を閉じていると、他の感覚が鋭敏になる気がした。


 耳と身体が彼の気配を、動きを感じる。鼻が、彼の匂いを感じる。暗闇の中、ただ澄愛の気配だけを感じる。彼はゆるゆると萌黄の周囲を歩いている。そのゆったりとした優雅さは、かつての殿上人の血が流れている証とでも言うように。


「お兄様……?」


 なんだかそわそわと落ち着かなくなって声をかけるが、黙ったまま歩き続ける澄愛。萌黄の不安はより色濃くなる。


「何をしていらっしゃるの?まだ開けてはいけないの?」


「駄目だよ」と声が背後から聞こえたかと思えば、左耳に息がかかった。「そのまま。良い子だね。」


 どくんと心臓が跳ねた。澄愛の声がすぐ耳元で聞こえて、なんだかくすぐったかった。


 澄愛が左に立っている。身体の神経が、全て左側に移動してしまったように、ただ彼だけを感じる。学帽をそっと脱がされ、さらりと髪が流れ落ちた。


 それから澄愛はまた動いて、正面に立つ。ふいに髪を一束取られた。


「澄……兄様?これは何の実験ですの?」


「しっ……黙って。」


 今度は右耳に囁かれ、身体がびくんと反応した。次第に鼓動が早くなる。警報のような耳鳴りがする。


 髪を撫でていた手が頬に移り、指先で感触を味わうように触れる。指がじわりじわりと顎に迫り、たどり着くと、その手はおもむろに顎を持ち上げた。


 思わず澄愛の名を呼ぼうとしたが、上を向いた喉から声が上手く出ず、唇が微かに震えた。


 そして、萌黄は唇に何か柔らかい感触と、湿った息を感じた。


 驚いたが、嫌悪感は無かった。寧ろ、途中から自分自身はこれを期待していたのではないかとさえ思われた。


 心臓は壊れてしまいそうな程、激しく鼓動していた。離れなければ、と思った。だが、離れたくなかった。このまま一つに溶けてしまえたら。 ただ彼と一つに。

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