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《虚蝉》陸




 父は何か知っているのだろうか?


 帝大に通う住み込み書生の三好の部屋へ向かう萌黄は、昨晩のことを考えていた。


 澄愛は妹のように可愛がってくれていると思っていたが、本当は萌黄を疎ましく思っていたのだろうか?そして、父はそれに気づいていたのか?


 流石に黙っていられなかった萌黄は、その訳を訊いたが、父から返ってきたのは尤もらしく取り繕われたものだった。


「妹同然のお前を、今更一人の女として考えられないだろう。お前も兄のように思ってきたのだろう?それに、澄愛君程の人を周囲が放っておかないよ。きっと彼にも良い縁談があるに違いない。」


 澄愛が萌黄とは夫婦になれないと言うのなら、それは仕方のないことだ。そこまで思わせる魅力が足りなかったということなのだから。余所に好い人が居るのなら、諦めなければならない。けれど、何故だか納得できなかった。納得したくなかった。


 自分一人で思い悩んでいる時は、落ち込むばかりだったが、そこに他者が介在した途端、萌黄は意固地になった。


 どうしても澄愛に会わねばならない。萌黄はそう思った。会って、此度の振る舞いについて、話を聞かなければ……そして……。


 問題はどのようにして会うかだ。


 久松家へ突然押し掛けても、きっと澄愛は上手くかわしてしまうだろうし、久松家にも迷惑をかけてしまう。


 人知れず、こっそりと会えないかと考えた。


 そういえば、と萌黄は思い返す。最近では職業婦人と呼ばれる、男同様に働く女が徐々に増えていた。記者になる者も居るのを知っている。記者に扮して、取材と嘯いて会えないかと考えたが、萌黄は女記者を見たことがなかったし、その格好、仕事についてもよく知らなかった。


 何に扮するべきか考えていると、女学生の頃を思い出した。卒業前に学校で行ったお芝居のことを。


 萌黄は主役の将校の妻の役だった。そして、男装をして将校役を務めたのは、紡績会社の令嬢、東辰子(アズマタツコ)だった。


 辰子は細身で背が高く、少し男顔の美人で、軍服を着ると本当の男のように見えた。あんな軍人が居たら、誰もが一目で惚れてしまうだろう。


 普段から誰とも連まなかった辰子は成績も優秀で、密かに『青鞜(セイトウ)』を読んでいたので、当然職業婦人になるのだと思っていた。しかし、卒業と同時に親の決めた相手と結婚し、去年離縁して出戻ったと噂で聞いた。彼女もこの世の大きな渦から抜け出せなかった一人なのだ。


 萌黄は将校役がやりたかったのだと澄愛に打ち明けると、澄愛は「君は体の線がとても女らしいから無理だろう」と笑った。どういう意味かと訊ねると、「男になるには、君は可愛すぎるということだ」と、からかわれたこともついでに思い出した。


 そこで、萌黄は男に扮して学内に潜り込もうと思い立った。書生の三好に着物と学帽を借りて、イヨに(サラシ)を買いに行かせれば良い。なるほど、これは良い案だと浮かれた萌黄は、昨夜とは打って変わって軽い足取りで庭を横切った。


「三好、居る?」


 小さな離れには三好の他に数人の使用人が住んでいる。昔からここは行ってはいけない場所の一つだった。真面目な三好は今もそれが当たり前で、よもや姫様が訪ねてくるとは思っていなかったのだろう。目を見開いて、狼狽しながら襖を開けた。


「お姫様(ヒイサマ)!ど、どげしたんですか?こがいな場所に……大殿様に知れたら、大変ですけん。」


 三好はいつも沖澤家では東京の言葉で話そうとするが、伊予の訛りと混ぜこぜだった。


「入っても良い?」


「い、いかんぞな!御用は庭で訊きますけん!」


「直ぐに済むわよ。」


 萌黄は慌てふためく三好を押しのけて強引に中に入った。誰かに見られたら困るのか、三好は廊下をきょろきょろと見回してから、襖を閉めた。


「何かあったがですか?」


 眉をひそめて、深刻な面持ちの三好。それがなんだか可笑しくて、それに応えるようにわざと萌黄も真剣な顔をした。


「実はね、お前の着物と学帽を借りたいのよ。理由は訊かないで。」


 良からぬ何かを察知したのか、三好は頭を下げて断った。それでも、今の萌黄は打ち萎れることを知らず、しつこく食い下がった。


 実は女学校のお芝居で出来なかった男装を、どうしてもしてみたいのだ、と呆れるような嘘を吐いた。勿論、三好は何故今頃になってそんなことを考えるのかと訊いた。これに対して、適当な答えを持たなかった萌黄は、突然したくなったのだから仕方がない、と無理矢理答えた。


「今ここで着物の上から羽織るぐらいは良いでしょう?」


 何を言っても部屋から出ていきそうにない萌黄に疲れて、三好は渋々着ていない着物を出した。元々裕福でない三好は、擦り切れた着物を数着しか持っていなかった。小さくなった物は、(サト)の兄弟に送ったと言う。


 羽織ってみたが、流石に萌黄には大きかった。何とか着たとしても、これでは余りに不格好だ。学帽も大きすぎて、風で簡単に飛ばされそうだった。それにまず、学帽は一つしかないので、休みの日以外は借りれそうになかった。


 名案だと思っていたのに、こうもあっさり打ち砕かれ、萌黄は気落ちして自室に戻った。その途中、伊時の部屋の前を通り過ぎ、ふと思った。男にしては背が低く、撫で肩気味の伊時の物であれば、まだ着られるのではないかと。


 だが、きっと伊時は貸してくれないだろう。理由を根掘り葉掘り訊かれるに決まっている。少しでもおかしなところがあれば、絶対に聞き入れてはくれない。それを解っていたから、最初に三好に頼んだのだった。


「時さん?いらっしゃる?」


 恐る恐る襖の向こうへ声をかけてみる。返事がない。どうやら出かけているようだ。朝食の際、「今日は田沼の家へ行って参ります」と言っていたのを思い出した。


 好機だ。今しかない。こっそり借りて、後でイヨに頼んで洗濯物へ紛れさせれば良い。


 ゆっくりと襖を引いて、中へ入った。


 驚くほどきちんと片付いた部屋だった。伊時は自室の掃除は誰にもさせていなかったはずだ。自分でここまで綺麗にしているというのだろうか。何かに触れれば、直ぐに気づかれてしまうのではないかというくらいに、全てが整っている。


 他の一切に触れないようにして、余り着ていないであろう着物と、予備の学帽を取り出した。普段から洋装や詰襟の学生服が多い伊時だったので、着ていない着物は沢山あった。


 一つ取り出して、念の為に羽織ってみる。流石に身丈は少し長かったが、(ユキ)はそれ程違和感なく着れそうだ。帽子も風で飛ぶ程ではない。結び上げた髪を入れ込めば、丁度良いだろう。


 満足して自室に戻ろうとしたその時。


「何をしている。」


 振り返ったそこには、睨み据えた伊時が腕を組んで立っていた。


「と、時さん!その、これは……」


「脱げ!」


 声を荒らげた伊時に、剥ぐように着物を取り上げられた。


「こんなこそ泥のような真似をして……一体何を企んでるんや!」


「企むだなんてそんな……」


「出ていけ!今度勝手に入ったら、お前を何処かに早よ嫁がせるべきやと、今回のことと一緒に、お祖父様に進言するからな!」


 きつい言い方に、涙が出そうになって、萌黄は急いで部屋を出た。少しくらい話を聞いてくれても良かっただろうに。どうして伊時はいつも自分に敵対するのだろうか。この家に味方はイヨ以外居ないのだと、改めて思い知った。


 部屋に残った伊時は、残り香のする着物に顔を埋めて、「くそう!」と声を上げた。

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