《虚蝉》伍
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萌黄には訳が分からなかった。
ついさっきまで、優しく触れていた手が突然地の果てまで遠くに離れてしまったのだ。
当然ながら、萌黄は訳を訊ねた。
「君は何処かに嫁がなければいけない。誰かのものになるんだ。」
そんな言い方をされたのは初めてだった。
それから数日、萌黄は毎日赤門まで足を運んだ。しかし、一度たりとも澄愛は姿を現さなかった。
久松家へ電話もかけたが、いつかけても本人は不在だと使用人に言われ、繋いでもらえなかった。
文も出したが、案の定返事など来なかった。
明らかな拒絶。
萌黄は自分に何か非があったのではないかと思い悩んだ。見知らぬ男に触れられたり、付け文をされたことを怒っているのだろうか。それとも、子供のような自分に嫌気が差したのだろうか。
浮かんでは消え、消えては浮かんだが、どれも小さなことばかりで、何一つこれといった理由は思い浮かばなかった。
日に日に元気をなくす萌黄を見て、イヨは毎日声をかけ、庭へ散歩に出ようと誘った。
萌黄の落胆には家族も気づき、ある夕餉で父が言った。
「やはり彼も気に入らないのかね。」
父が言う彼とは、以前届いた見合いの写真の人物だろう。事情を知らない家族は、皆的を見事に外していたのだ。
勿論、結婚を急かされることにも、ほとほと疲れていたのだが、今はそんなことすらどうでも良かった。
理由を説明する気にはなれず、父の話に合わせて今度も見合いを断った。
食後、珍しく父が星を見ようと萌黄を誘った。
洋館から広い中庭に出た。こちらの庭は、洋館に合わせて洋式に誂えてあった。薔薇の蔓が絡んだ鉄のアーチ、赤煉瓦の踏み石に花壇。春になれば色とりどりの花が咲き誇る。
赤煉瓦の上を、それと似つかわしくない二つの下駄の音が響いた。
父は気紛れで、洋装だったり、着流しだったりする。今日は山葵色の縮を召している。幾つになっても、窶すことを忘れない人だった。
「嫁ぐのは嫌かね。」
ふと足を止めた父は、空を見上げて言った。月は雲に半分隠れて、曖昧な月光がその横顔に影を作っていた。
「……そういう訳ではありませんが、まだ私には妻となり母となることがよく分からないのでございます。」
「そうだろうね。」と少し自嘲的に笑って、父が言う。「君がこの家を離れたくないほど好きだとは思えなかったからね。」
萌黄は何と答えれば良いのか分からなかった。
確かに、見合いを断ったのは、この家から離れたくないという理由ではない。しかし、生まれ育った家に愛着がないとは言えない。我が子に興味が無くても、華やかな母を誰かに誉められるのを自慢に思ったこともある。意地の悪いことを言われても、心根は優しい弟を可愛く思う。
それに、父は……何を考えているのか分からなかったが、萌黄を愛してくれていた。
ただ、その愛の多くは別のところに向いていることを、この家の誰もが知っていた。父には妾が居たのだ。それも、邸宅近くに住まわせていた。
それを知ったのは数年前だった。まだ萌黄が女学生の頃、偶然見知らぬ女と歩く父を伊時と一緒に見てしまった。伊時は既に知っていたようで、驚くこともなく、寧ろ軽蔑したような言い方で萌黄に教えた。毎晩のように夕食後に散歩に出かけていた父が、いつも何処に向かっていたのかを知ってしまったのだ。
父だけは自分に愛情を与えてくれる人だと思っていた。けれど、その愛も誰かの二番煎じだった。家族ですらない女の次に与えられるものだったのだ。
その女のことを思うと、胸が苦しくなった。その女が自分の家庭を壊したのだと。あの女さえ居なければと、思ったこともあった。
反面、辻褄が合うような気がした。父がふらふらと水草のように生き揺らいでいる姿に、不思議と合点がいったのである。傍に居るのに、いつも何処か遠くに居るような父だったが、それはあの女へ情の多くを注いでいたからなのであった。
そんな父だからこそ、母も家庭に対する期待を捨ててしまったに違いない。夫を愛する、延いては我が子を、家族を愛することから逃げてしまったのだろう。亡くなった祖母が健在の頃は、今ほど派手な交遊は控えていたが、抑圧が無くなると、一層家庭から逃げるように交友関係を広げた。
そう考えると、母が不憫な女で、父がどうしようもない男にさえ思えた。
家庭を築くことがそれほどまでに大変なことなのだろうかと、疑心暗鬼になってしまった萌黄には、嫁ぐということが幸せだとは考えられなくなっていた。
「君は誰か好いた人が居るのかね。」
「……好いた……人……」
その言葉で一番に思い浮かんだのは、澄愛の眼鏡の奥の優しい眼差しだった。その時、萌黄は思った。隣に居るのが澄愛であれば、温かい家庭を築けるのではないかと。夫と仲睦まじく、子供を愛し、育て、幸せな家族を作れるのではないかと。
それが恋と言うものなのかどうかは定かでなかったが、恋であろうとなかろうと、その想像は素晴らしいものに思えた。
「す……澄兄様でしたら……その……」
萌黄は思い切って言葉にした。途端、顔は火を噴くように熱く、赤くなり、動悸が激しくなった。
「澄愛君……君は彼が好きなのか。」
幼い頃から兄妹同然だったのだ。好きか嫌いかと訊かれたら、好きに決まっている。しかし、父が訊いているのは、男として惚れているのか、ということだ。
萌黄にはよく分からなかった。小説の中の登場人物達の恋に、胸を躍らせたり、想いを推し量ったりはしていたが、自分の気持ちとなると忽ち靄がかかるのだ。
「……好きです。」
どっちにしろ、澄愛を好いていることには変わりない。そう思って口にした。そして、言いつつ、今更ながら澄愛との現状を思い出して、落胆した。澄愛に嫌われてしまった今となっては、自分の想いなどどうにもならないのだと。
その様子を別の意図として捉えたのか、父は悲しげに柳眉を垂らした。
「萌黄、我々はね、こんな時代のこんな家に生まれついた。だからこそ、君には君が慕う人と幸せになって欲しい。君に好いた人が居るなら、その人と一緒にさせてやりたい。」
父の優しい言葉に顔を綻ばせたのも束の間、次に紡がれた言葉は萌黄を奈落へ突き落とした。
「けれど、澄愛君は駄目だ。彼だけは絶対に。」
「それはどうしてですか?」とは訊けなかった。皆、萌黄に何かを突きつけておいて、その理由を説明してくれない。 きっとまた、曖昧にはぐらかされるに決まっている。
飲み込んだ言葉は表情に出ていたようで、父は言った。
「酷なことを言うけれど、おそらく澄愛君は君の想いを受け入れてはくれないよ。」