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《虚蝉》肆


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 まるで光の君だ。イヨは、カフェーの一席で珈琲を啜りながら、遠目に見る澄愛を改めてそう思った。


 イヨは東京の田舎村で生まれた。貧乏子沢山で、九歳の頃にまた一人弟が産まれて、ついに丁稚奉公に出された。


 しかし、仲介人とのやり取りが上手くいっていなかったのか、品川の商家に着いて「こんな子供は役に立たん」と追い返された。


 それでも、妹や弟を飢えさせるわけにはいかず、他で働くところはないかと泣き縋った。それを偶然知った沖澤直幸(オキサワナオユキ)が、沖澤家の女中として雇った。沖澤家現当主であり、沖澤萌黄の父である。


 イヨはこれに恩義を感じ、生涯忘れまいと心に決めたのだった。


 沖澤家には、イヨより一つ年上の娘が居た。娘はイヨを大変気に入り、何をするにも連れてまわろうとばかりした。イヨも仕事の合間に娘の相手をしていた。


 お姫様の萌黄は、幼い頃は今よりも更にお転婆で、イヨは随分と苦労した。萌黄が転んだり、女児らしからぬことをすれば、いつも女中頭(ジョチュウガシラ)に叱られるのはイヨだった。


 それでも、明朗な萌黄が好きだった。一緒に居るのがとても楽しかった。


 萌黄は身分違いの自分を友と言ってくれた。学校に行けないイヨに、読み書きや学校で習ったことを教えてくれたり、本を貸してくれた。 それ以来、読書はイヨの一部となった。


 中でも、萌黄が教えてくれた『源氏物語』は、イヨの胸を大いにときめかせたものだ。


 高貴な絶世の美男子で、女に対して何処までも優しく、恥ずかしげもなく甘い言葉を囁く……そんな夢のような男は存在しないであろうと思えばこそ、益々憧れてしまう。反面、冷酷な部分も併せ持ち、傲慢な部分もあるが、それらは汚点とはならず、寧ろ影の魅力の一つだと思えた。


 何故だろうか。久松伯爵家の若様は、昔から光の君のように見えた。


 勿論、旧公卿の血筋で、長身で手足が長く、美しい瓜実顔(ウリザネガオ)という生まれや容姿もそうなのだが、彼の雰囲気全体からそう思えたのだ。常に穏やかで、朗笑を絶やさない彼に、光源氏のような影があるというのだろうか。あの眼鏡の奥の瞳には、闇が潜んでいるのだろうか。


 澄愛はイヨに対しても分け隔てなく親切で、カフェーに入った際も気遣ってくれた。


 赤門で出会った澄愛は休憩に出ると言って、萌黄とイヨを連れてカフェーに入った。萌黄は当然のようにイヨを同席させようとしたが、イヨにとっては気軽なものではない。使用人の自分が、姫様と席をともにするなど出来なかった。


 イヨは当然辞退して、外で待っていると申し出たのだが、萌黄はなかなか聞き分けてくれなかった。困っていたところ、澄愛はあっさりと萌黄を説き伏せてしまったのだ。


「萌の気持ちは解るけれどね、イヨにも立場があるんだよ。君は良かれと思っていても、本人にとっては良くないこともある。」


 そう言って、イヨには近くの席で待つようにと座らせた。


 イヨの心労はそれだけではない。こうして、嫁入り前の娘が逢い引きのように男と二人きりになることにも、過敏に周囲の目を気にした。澄愛は萌黄の幼なじみでもあるし、兄妹のように育ってきたので、実際そこまで警戒する必要もなかったのだろうが、最近の縁談の増加から、萌黄に変な噂が立たないようにと考えていたのだ。イヨにはそういった心配し過ぎる節があった。


 はしたないことだとは解っていたが、イヨは二人の会話に聞き耳を立てた。


「さっきはどうして、あんな事を仰ったの?」


「さっき?」と澄愛は少しとぼけてみせる。「ああ……学生達にかい?ああいった人達にはね、下手に否定する方が却って騒がせてしまうものなんだよ。」


「よく解らないわ。澄兄様は誤解されてもよろしいの?」


 萌黄は喜んでいるのかいないのか、怒っているのか拗ねているのか、複雑な表情で訊ねた。すると、澄愛はそれをさらりと身を翻すように質問で返して微笑した。


「萌は誤解されたくないの?」


 狡い言い方だ、とイヨは思う。


 萌黄は自分自身気付いているのか定かでないが、イヨから見ると明らかに澄愛に好意を寄せている。他の誰よりも。そんな彼女には、酷な問いだ。「誤解されたくない」とは言いづらいだろうし、「誤解されたい」など、はしたないことは言えないだろう。


 結局、「澄兄様ったら……」と頬を赤らめるだけで、それ以上言葉は続かなかった。


「それで?今度は何があったんだい?」


 澄愛の細くて長い指が角砂糖を摘まむと、白い塊は忽ち溶けだしてしまいそうなほど、 彼の色気は湯気を立てているように見えた。


「またトミと喧嘩した?それとも、伊時君かい?」


 萌黄の扱いなど慣れたものだ。澄愛はカップの中をスプウンでくるくると混ぜ、波立つ黒い珈琲に白の角砂糖が溶けていく様を見ながら、軽い調子で訊ねた。彼女が訪ねてくるときには、大方そこに原因がある。


「……トミは相変わらず煩いし、時さんも意地悪だけれど……」


「違うのかい?僕に会いたかっただけ?」


「そ、それは……澄兄様にはいつでもお会いしたいけれど、そうじゃないの。……また、縁談が来たの。」


 ほんの刹那だったが、澄愛の手が止まった。しかし、すぐに顔を上げた澄愛は、微笑んで泰然としていた。


「良い話じゃないか。この前断ってから、こんなに早く次が来るなんて、君の魅力が噂されているんだよ。きっと。」


「そんなことを言って……」と萌黄は、からかうような澄愛を睨んだ。「でも、私……まだ結婚なんてしたくないわ。」


「君が魅力的なのは本当のことだよ。……だからこそ、その魅力を誰かに与えてあげるのは素敵なことだと思うけれどね。次の人はどんな人なんだい?」


 こうして、日本男児らしからぬ、女性を素直に誉めるあたりはやはり光源氏だと、イヨは自分のことのように照れて感心した。


「……知らないわ。時さんは、陸軍の少尉さんだって仰っていたけれど。」


「写真も見ていないんだね。今度も断るつもりなのかい?」


 当然断るのだろうと言うような言い回しだった。彼は萌黄のことをよく理解している。そして、皆が萌黄のすることに否定や非難をしても、彼だけはいつも否定しなかった。だからこそ、萌黄も彼の傍で居心地の良さを見出していたに違いない。


「そのつもりなのだけど……これを断ったら、今度こそお祖父様が動き出すって、時さんが脅かすの。」


「ああ……君のお祖父さんは豪傑な人だったものね。流石、お武家さんだというくらいに。」


 澄愛はなんてことはないかのように、可笑しそうにくすくすと笑う。それが萌黄にとってはどれ程重大なことか知っていながら。


 彼が何を考えているのか、イヨはしばしば図りかねる。彼には風に舞う桜の花びらのように、或いは夏のせせらぎを流れる緑葉のように、ふわりふわりとした所がある。まるで愛しているかのような甘い言葉を囁いたかと思えば、次の瞬間には赤の他人のような顔を見せる。特に萌黄に限って。


「何が可笑しいの。私の身にもなって下さいましな。」


「ごめんごめん。馬鹿にしているわけじゃないんだよ。何せ、君のお祖父様は御一新から日清戦役の英雄のお一人だからね。お祖父様が決断なされたら、確かに小父様でも逆らうのは難しいだろうね。」


 言ったきり、澄愛は珈琲を上品に啜って、黙ってしまった。伏し目の顔からは表情が読み取れない。


 澄愛でさえ解決策を持ち合わせないのだと落胆したらしい萌黄も黙ってしまい、手元の冷えたミルクを悲しげに見つめた。


 萌黄が珈琲が苦手なことをイヨは知っていた。飲むときは必ず沢山の砂糖とミルクを入れるのだ。そういう部分が子供なのだと、伊時はいつも嘲笑していたが、澄愛はそこが可愛いと笑っていた。


「萌、口元に付いているよ。」


 顔を上げたかと思えば澄愛が唐突に言って、「へ?」と萌黄はきょとんとした顔で気の抜けた声を出した。


 澄愛が自分の口端を指で差すと、意味を理解した萌黄は慌てて袂から桃色のハンケチを取り出して、口元を拭った。ミルクの痕が残っていたのだ。


 羞恥で赤面し、ますます俯く萌黄を楽しそうに眺めている澄愛は、ふと何かに気づいた。袂から出たのはハンケチだけではなかったようだ。


 小さく折り畳んで結ばれた紙が二つ。萌黄も、勿論イヨにも見覚えがない。


 萌黄は一つ開いてみた。中には、萌黄とお近づきになりたいという文面と、名前と住所が書かれていた。


 驚いた萌黄は思わず投げ捨てるように手放し、澄愛がそれを拾って読んだ。


「……付け文だね。」


 こういった恋文は初めてではなかったが、よもや着物の袂なんぞに忍ばせるとは思いもしていなかった萌黄は、面と向かって手渡すこともせず、盗人のような真似をされて、さぞ心身を汚された心地になったに違いなかった。


「もう一つは読まないのかい?」


 ズボンのポケットから取り出した手拭いで、徐に眼鏡を拭きながら静かな声で澄愛が訊ねる。先程までの楽しそうな笑みは既に無かった。


 萌黄は読まないと答えた。捨てるつもりだと。萌黄にとってはどちらも同じ、汚らわしい物程度にしか見えていないのだ。


 すると、眼鏡をかけ直した澄愛が、紙を開いた。


「……誰がこれを入れたのか分からないのかい?」


「いつ入れられたのかも分からないんだもの。……もしかすると、ぶつかった人達の中に居たのかもしれないわ。」


「ぶつかられたの?君は本当に無防備だねえ。」


 澄愛にしては珍しく、怒ったような、呆れたような溜め息を混じえて言って、紙を開いたまま萌黄に返した。


 紙には、『かくとだに えやは伊吹の さしも草 さしも知らじな 萌ゆるおもひを』と美しい筆文字で書かれていた。


 藤原実方朝臣の短歌だ。百人一首にも選ばれたその歌は、正月のかるた遊びで萌黄にも馴染みのある物だった。


 私が貴女をお慕いしているとは言えない。燃えるようなこの想いを貴女は知らないだろう……というような意味である。敢えて、“萌”という漢字を使用したことから、これを書いた人物は少なくとも萌黄の名を知る人物だろうと澄愛は言った。名前も住所も記載がなく、判ることは、ただ美しい字の人ということだけだった。


「粋なことをする……帝大の学生かな。」


 萌黄と視線を交えようとしない澄愛は、自問のように呟き、すぐに顔を上げて再び萌黄に問うた。


「体に触れられたりはしていないだろうね?」


「……よろけてしまって……その……腕を掴んで支えて下さった方が……」


 唐突な問いに萌黄は躊躇いながらも答え、言いながら次第に恥ずかしくなったようで、尻すぼみになった。それは自分自身の“無防備”から来る恥なのか、見知らぬ男に触れられた恥なのか。


「そう……」と小さく言って、澄愛はそれっきりカフェーを出るまで何も話さなくなった。


 結局、その後は誰も何も声を発さぬまま、澄愛が三人分の会計を済ませて、赤門の前で分かれることとなった。


 別れ間際になって、ようやく澄愛は普段通りの、いや、それよりも甘い笑みを湛えて、萌黄の髪に触れた。


「埃が付いていたよ。」


 と言って、髪から頬へと指を滑らせた。


 萌黄のなめらかな肌を堪能するかのように頬に触れ、萌黄も知らずのうちにうっとりとした瞳で澄愛を見つめていた。


 何処から見ても、二人は恋人のように見えた。


 ただ、埃など付いていなかったことをイヨだけが知っていた。


 そして、澄愛は手を放して、同じ笑みを浮かべたまま言った。


「もう此処に来てはいけないよ。君は僕から離れなくちゃいけない。君とは暫く会わないことにしよう。」

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