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《虚蝉》参




 翌日、萌黄は女中のイヨを連れて昼過ぎに家を出た。


 学生の頃は、沖澤家に古くから仕える女中のトミが何処に行くにもついてきたのだか、卒業後は一人で出歩くことも許された。ただ、まだ一人では出歩く範囲も時間も限られてしまうので、殆どはイヨを伴っていた。


 イヨは二十歳になったばかりで、九歳の頃に沖澤家へ奉公に来た。年が近いこともあり、萌黄が心を許せる数少ない人間であった。


 女学生時代も仲の良い友が居なかった訳ではないが、深い関わりを持つことは出来なかった。


 学生の殆どが華族の娘であったため、旧諸侯や公卿の家となると、萌黄のような勲功華族よりも殊更厳しく躾られていたようで、話によると、付き合う友人も決められるようなことがあったそうだ。


 そういった家は、友人を(ヤシキ)に招くことも気軽ではなく、呼んでも良い人と駄目な人が決められていたそうだ。故に、学校で過ごす友人と、招待する友人は別だったらしい。


 沖澤家では、いつでも誰でも招いて構わなかったし、何度も招いたことはあったが、その度に女中に過ぎないイヨを遠くに感じて淋しくなり、次第に招くことも少なくなった。


「お(ヒイ)様、もしやまた行かれるのでございますか?」


 財布以外に何が入っているのかは分からないが、ぱんぱんに膨らんだ木綿の巾着と、萌黄のレエスの日傘を抱くように持ち、半歩後ろを歩くイヨが不安げに訊ねた。


「そうよ……だなんて言えると思う?言えば、お前は止めるでしょう?」


「お姫様……もし誰かに見つかれば、殿様に叱られるだけではすみませんよ。」


「お願いよ、イヨ。お前だけが頼りなの。」


 沖澤家で一番萌黄を慕っていたイヨが、この言葉に弱いことを萌黄は知っている。


 結局いつもイヨがあっさり根負けして、渋々俥を呼ぶ。


 他の使用人達には浅草へ出かけると嘘を吐いて、寛永寺の方から遠回りをして上野桜木町の桜並木を走った。桜の木は青々と葉を生い茂らせて、風でさわさわと揺れていた。梢の隙間から差す日光が、その度に車夫の背後で形を変えた。


 イヨは隣でずっと黙っている。萌黄の行動が不満というより、不安と困惑でいっぱいなのだろう。


「イヨ、お前はそんなに嫌なの?私が澄兄様(スミニイサマ)に会いに行くのが。」


「滅相もございません。嫌だとかそういうわけではなくてですね……ただ、心配なのでございます。」とイヨは顔を曇らせて、声を落として続けた。「その……婚約もしていない男と女が、こう頻繁に会うのは……それに、男ばかりの場所へ行かれるのも、好ましくありませんよ。」


「そんなの解っているわ。けれど、私の味方はお前と澄兄様だけなのよ。」


「でしたら、久松様のお屋敷へお伺いを立てて、直接行かれたらよろしいではございませんか。」


「そんなの、ゆっくり二人でお話出来ないじゃないの。」


 そんな普段と変わりない言い合いをしていると、俥は東京帝国大学の赤門に着いた。旧加賀藩屋敷の表御門であった紅殻(ベンガラ)塗りのそれは、明治にここへ移設されたそうだ。今でも威厳を湛えて、入ろうとする者を審査しているようである。


 イヨは車夫に金を払い、日傘を差すようにと萌黄に渡すと、萌黄は一緒に傘に入れと言った。イヨにとっては、とんでもないことだ。


 イヨに断られると萌黄は、「では、私も入らないわ」と傘を閉じた。萌黄が良かれとすることは、大方イヨにとっては困ることなのだ。


「では私が傘を持ちますので、お姫様も傘に入って下さいまし。」


 萌黄が日焼けでもすれば大変だと、イヨは妥協案としてそう言った。


 訪れた帝大で萌黄が待っているのは、幼なじみの久松澄愛(ヒサマツスミナリ)だった。旧公卿の伯爵家の一人息子である。父同士が学生時分からの友人で、幼い頃から家族ぐるみの付き合いをしていた。


 澄愛は優しく穏やかな秀才で、歳の離れた萌黄を妹のように可愛がっている。その所為もあって、萌黄は澄愛を“澄兄様”と慕うようになっていた。


 澄愛は現在、こちらの文科大学哲学科で助教授をしていて、心理学に関する研究や講義を受け持っている。こうして決まった時間に門前で待っていると、必ず出て来てくれるのだ。


「澄兄様はね、この時間になると、校舎の窓から私が来ているか確認して下さるそうなのよ。」


 萌黄は嬉しそうに言うが、イヨは恥ずかしげに俯いている。それもそのはず、講義を終えた学生が、門から大勢出てきたのだ。


 皆、当然ながら好奇の目で見ている。中にはわざとぶつかってくる者も居た。


「失礼な方々ね、イヨ。」


 ぶつかられて翻った袂を直しながら、萌黄は頬を膨らませている。こんな所へ来る方が悪いのだろうとは思いながらも、男達の不躾な態度にいちいち腹を立てた。


 すると、また一人、萌黄にぶつかった男が居た。今度はかなりの長身で、すっかり見上げなければ顔が見えないほどだった。


 その男は他の男とは明らかに異なっていた。


 背丈は六尺以上はあるだろう。日本人にしては長身の澄愛の、五尺九寸を優に越えている。その男は、細身でありながら、体格もがっしりとしていて、まるで異人のようだ。何よりそう思わせたのが、瞳の色だった。鮮やかに晴れた夏の空のように、美しい青色をしていたのだ。


 灰茶の三揃えの背広を着ているが、上着は脱いで、シャツの袖を肘まで捲り上げている。その姿がまた様になっていた。


 純日本人のぬばたまの髪に、異人の青い瞳。萌黄もイヨも、その神秘的な容姿に惹きこまれて、惚けた顔で暫く見つめていた。よろけてしまった萌黄の二の腕を、青年が掴んで支えていることも忘れて。


「お、お姫様っ……」


 いち早く我に返ったのはイヨだった。


 イヨは慌てて、萌黄と青年の間に割って入り、青年に軽く会釈をして門戸の端まで離れた。


「見た?イヨ。異人さんかしら。帝大には異人の先生がいらっしゃると三好(ミヨシ)が言っていたわ。やっぱり、異人さんは大きいわねえ。それに、瞳が宝石のようだったわ!」


 いつの間にか青年は立ち去り、萌黄はイヨの心労など構いもせずに、少女のように顔を綻ばせている。


「お姫様……後生ですから、もう少しお気をつけて下さいませ。これ以上目立つようなことは……」


「目立つこと?一体どんなことをしていたの?」


 イヨが必死で諌めていると、背後で緩やかな抑揚のついた優しい声がした。微かに見られる京訛りの抑揚。祖父から父へ、父からその息子へと自然と受け継がれた公卿の名残。


「澄兄様!」


 久松澄愛だった。


 飛びつかんばかりに駆け寄る萌黄は、昔から、澄愛を見ると不思議と心が躍る。そして、どんなに嫌なことがあっても、心が穏やかになる。


「先生!そちらのお嬢さんは先生の好い人ですか?」


 近くでそれを見ていた学生達が茶化すように言って、澄愛は微笑んで躊躇いなく答えた。


「そうだよ。だから君達、くれぐれも色目を使わないでくれよ?」


 冗談だと解っていても、萌黄は気恥ずかしくなり、顔を赤らめて俯いた。その様子がますます男達を喜ばせているなど、思いもしていなかった。

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