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《虚蝉》弐

 彼が養子となってから、沖澤家は何かと七倉家を支援しているようだった。幸い、沖澤家には世襲財産として有価証券や土地を持っており、財があった。田舎藩の上士に過ぎなかったが、維新の折り、時の主君がいち早く官軍につき、その後も日清日露の戦役で、沖澤家は軍人として勲功をたてて、子爵を授爵した。七倉家が支援を全く当てにしていなかった、とは言い難い。


 伊時が養子になることは彼が幼い頃から決まっていたようで、顔合わせのようなものなのか、萌黄も何度か両親に連れられて京都へ行ったことがあった。東京とは違った華やかさと風情が、子供ながら心に焼き付いたことを覚えている。


 何も知らぬその頃は、萌黄と七倉兄弟はとても仲が良かった。特に伊時は「萌ちゃん、萌ちゃん」と、大変よく懐いて後をついて回っていた。


 尋常小学校を卒業してすぐ、こちらの戸籍に入った伊時は、あの頃とは別人のようだった。いや、東京に来て間もない頃はまだ良かったのかもしれない。年々、伊時は身体の成長とともに、萌黄に対する棘を育てていった。


 人の耳があるところでは「お姉様」などと呼ぶのだが、本当は姉だとはこれっぽっちも思っていないのだ。その証拠に、こうして二人きりになれば、「萌」と呼び捨てる。そして、冷ややかな目を向けて、時折嫌味じみた言葉を吐く。


 萌黄は、急変した態度の意味が解らなかったが、本当の家族と離れ離れになってしまった哀しみから来る八つ当たりのようなものではないかと、段々思い始めた。萌黄には本当の両親が傍に居るが、自分は会えないのだと。強くあるために、何処かで鬱憤を晴らさずにはいられなかったのかもしれない。


 そのおかげかどうかは知らないが、沖澤の父や母の前では優秀な息子を演じていた。成績は勿論、剣道や柔道の稽古にも泣き言一つ言わずに通っていたし、七倉の家職であった笛の練習も怠らなかった。


「はしたないな。いい加減、衿を締めたらどうなんだ。」


 苛立った様子で、相変わらず団扇を扇ぐ手を止めない萌黄を咎めて、伊時は冷たく言い放った。


 萌黄も萌黄で、その時になってようやく自分がしていることと、それを弟に見られてしまったことへの羞恥心が繋がって、顔を赤らめて慌てて衿を戻した。


「こんなのが姉だなんて、本当に情けないよ。年増のくせに嫁にも行かず、だらしなく家にいるなんて。」


「だって、それは……」


 言いかけて、口籠もる。


 女学校を卒業した女は、見目の悪い売れ残りだとか言われている時代。見目麗しい女には、在学中にも良い縁談がひっきりなしだからだ。ただし、実際には結婚を機に退学する者はそう多くなかった。年増扱いされるほど、行き遅れてはいない……とは思いつつも、流石にこの歳になると、周囲は皆何処かに嫁いでいた。


 萌黄にも縁談が無かった訳ではないが、二十歳まではこの家で過ごしたいと父に懇願したところ、意外にも父はあっさりと認めてくれた。


 一人娘を手放すのが淋しかったのかもしれない。それが、普段何をしているのか分からない、会話も少ない不可解な父の愛情の片鱗なのだとしたら、伊時に関しても、手元に置くのが愛情表現の一つだったのだろう。


 情緒と歴史が溢れる住み慣れた街を出て、産みの親と別れて都会の喧騒に放り込まれた少年と、家族の絆を結びたかったと考えることが妥当のような気がした。


 兎にも角にも、父はこの時代の男としては風変わりだったことは間違いない。父や母に逆らえず、厳しく躾られた多くの学友の話を聞けば、それは明らかだった。


「また縁談が来ているんだってな。今度は男爵家の嫡子で、陸軍歩兵少尉殿か。」


 書棚の本を一冊取って、ぱらぱらと捲りながら伊時が言うが、手にした本には全く興味はないようだ。


「……そうなの。」


「なんだその生返事は。もしかして、まだ写真も見ていないのか?」


 並んだ無機質な文字から、再び萌黄の方へ視線を戻した伊時は、呆れ顔だった。


「また断るつもりなのか。見合いもせずに。」


「お見合いをしてしまったら、お断り出来ないでしょう。」


 責めるような伊時の目から逃れるために、萌黄は窓の外を見た。目下には素知らぬ顔で鯉が泳ぐ池、そこにかかる石橋は弓なりに、向こう岸の竹林へ繋がっている。


 白い土塀の向こうの通りでは、地味な紬の女性を乗せた俥が走っているのが小さく見えた。こんな時間に何処へ行くのだろう。それとも帰るのだろうか。こんな時間に帰っても、誰も咎めないのだろうか。


「全く、いつになったら嫁ぐんだ」とわざとらしい溜め息を交えて伊時は言う。「お父様との約束はどうなったんだ。これを断れば、今度こそお祖父様が動き出すぞ。」


 そう言われるのは薄々分かっていた。故に、通りの全くの赤の他人の動向などをを想像して、現実を遠ざけようとした。


 祖父は七十を越えるが健在で、今は邸内の小さな和館を隠居所として暮らしている。隠居してからは、余程のことがない限り、今や戸主となった息子子爵、つまり父に家内のことを任せていたが、有事には必ず干渉した。


 維新という動乱を経験した侍気質で、今より若い頃はそれはそれは質実剛健な頑固者だったらしいが、萌黄が物心ついた頃には、角が取れて柔らかくなっていた。日露戦争にて息子を一人亡くしてからだとも噂されていたし、 孫可愛さで丸くなったとも言われていた。


 口数は少なく、骨ばった顔や目つきには厳しさが残るが、穏やかで自分を可愛がってくれる存在だと萌黄は感じていた。“二十歳までの約束”も、快く、とは言い難いが、息子子爵の意向と萌黄の思いを尊重してくれたのだ。


 しかし、もともと“快く”了承したことではない。ともすれば、約束の期限が過ぎれば強硬姿勢に出る可能性は否定できない。可愛い孫だからこそ、薹が立つ前に、或いはおかしな男に懸想する前に、相応しい嫁ぎ先をあてがってやろうと考えても不思議ではない。


 やはりしきたりを重んじる傾向は強かったし、父子爵とは比にならない程の決断力と発言権を持っていた祖父が動けば、今度こそ父も逆らうことは難しいだろう。何か特別な理由でもなければ。例えば、萌黄に見合った男が居て、萌黄自身もその男を気に入っているなどというような……。


「もうすぐ二十一歳になるではないか。」


「まだ先よ。まだ時はあるわ。」


「時を稼ぎたいのか?何のために?……何かを待っているとでも言うのか?」


 伊時の言葉は的を射てるのかもしれない、と萌黄は思った。


 “何かを待っている”のだ。何かを。


 ああでもない、こうでもないと、夫を選り好みしているわけではない。萌黄は確かに待っているのだ。心を揺り動かす何か、或いは誰かを。


 けれど、自由な恋愛など許される世ではない。特に“皇室の藩屏”と呼ばれる、公候伯子男爵、爵位を与えられた華族は、婚姻にも御上の許可が要る。御上といっても、認可をくだすのは宮内大臣、宮内省であったのだが。


 認可され、戸主の同意のもと、初めて法的に同じ戸籍に入る。どちらか一方が欠けてしまえば、社会的に夫婦と認められないのである。


 結婚に縛られない女性も現れ始めた昨今。職業婦人として、新聞記者や電話交換手、タイプライタアの普及に伴ってはタイピストとなる者も居たが、やはり多くはなかった。


 皆、自分を取り巻く巨大な渦から抜け出せないのが世の常である。踏み出したいが、勇気がない。はたまた、特に女性は、高等女学校に通える者は僅かで、素養がないなど、挙げればきりがない程理由がある。それでも一番の理由は、社会からはみ出すことを恐れていたからだろう。


 萌黄は昔からお転婆なところがあったが、結局女学校を卒業してからは、新しい女にもなれず、ただ日々を流されて過ごしていた。


 私は何を待っているのだろうか?


 ただ逃げているだけなのではなかろうか?


 家庭はあっても、家族の絆を知らず生きてきた自分が、親に決められた相手とまた同じことを繰り返すのかと考えると、縁談を喜んで受ける気にはなれなかった。


 もし仮に、この縁談を受けたとして、その陸軍少尉を恋することが出来るのであろうか。


 考えれば考えるほど、夏の湿気が喉を締め上げるようだった。

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