《虚蝉》壱
「今日はどうだったかね。」
豚のロオストを小さく切って、とろりとした赤いソオスを器用にナイフで塗りつけながら、父子爵が言った。その所作には非が無く、ぴんと伸びた背筋、ナイフを扱う手、上品に咀嚼する口、どれをとっても優雅であった。その姿が、父を子爵たらしめている。
「講義の後、田沼に漢詩を教えてやりました。奴は算術には強いのですが、文学には滅法弱いのです。」
表情を殆ど変えることなく、淡々と伊時が答えた。その台詞に、自然と付いてしまった僅かな抑揚ですら、自然を努めるべくして取って付けたようなわざとらしさが、仄かに匂い立っている。
しかし、誰もそんなことを気にかけない。いつものことだ。こんな返答だって、嫡男だからといって譲られる順番に従って、彼が一番に話しているだけなのだ。
「伊時さんは何をしても、とても優秀ですものね。先日、帝国劇場で河原さんの奥様にお会いした時に伺ったのだけれど、息子さんに剣道の稽古を付けて差し上げたそうですね。」
鼻高々の母の微笑みは、決して他者に還元されるものではない。彼女の行動や言動は、全て彼女自身の為に紡がれるのだ。良く出来た息子に対する賞賛の笑みと言うよりも、そんな息子を持つ手前味噌の笑みだとでも言うべきだろう。
伊時も解っている。自分への誉れは、全て自分のものではないことを。両親の、親族の、延いては沖澤家の勲積となる。彼に求められるのは、彼自身の人となりではない。沖澤伊時としての名誉である。彼の人生には、教養を身につけ、その名に恥じぬ振る舞いを心がけ、お家を健やかに存続させることが、決定事項であった。
それは姉の沖澤萌黄に至っても例外ではない。
華族の爵位は戸主に与えられるが、女が戸主になっても襲爵出来ない。沖澤の家を彼女が継ぐのは不可能であったが、その高貴なる血を、別の高貴な血と繋げていく使命がある。
もう直ぐ二十一歳になる萌黄は、幼い頃から耳に胼胝が出来るくらい、そう言い聞かされてきたが、年を重ねる度に重荷は肩に食い込んで骨を軋ませていた。
この堅苦しい食事を、嫁ぎ先のまた別の誰かと何十年も繰り返さなければならないのかと思うと、胃に重たそうな肉が更に肉々しく見えた。
この赤いソオスも好まない。まったりとした粘り気に、この色。まるで血だ。殺された豚の、恨みがましい断末魔が聞こえてきそうな毒々しさがあると、萌黄はいつも思っていた。西洋料理にはまった父が気に入っている、果実のソオスなのだそうだが、妙な甘みも好きになれなかった。
上手く喉を通らない黒く焼けた肉を見つめていると、ふとある光景を思い出した。
幼い頃に見た、庭で渦巻く蟻の大群。蟻はひたすら前に習って後に続く。その道は巣に繋がっているでもなく、ただ同じところをぐるぐると回っていた。
不思議で不気味な光景だった。
蟻が列を為して巣へ帰るところは見たことがあった。しかし、あのように同じところを延々と回り続けている姿は初めてだった。
いつ止まるのだろう?
いつ帰るのだろう?
小さな疑問が最後に恐怖に変わったのは、“もしかしたら、死ぬまで回り続けるのではないか”と考えてしまったからだろう。
彼等は引き寄せられるように前の者に連なり、いつか家に帰れると信じていたのだろうか。どれだけ歩いても、少しも巣には近づいていないというのに、それを知らずに。
狂気の螺旋。いや、彼らは至って正常なのかもしれない。引き寄せられる事が当然の、運命づけられた事だったのかもしれない。ただ、抜け出せず、緩やかに死に向かうのだ。それでも、彼らは幸せだったろうか。
数日後、気味悪がった母の言いつけで、使用人が土ごと掘り起こして桶に入れ、何処かへ捨ててしまった。
「萌黄さん、ちょっと萌黄さん、聞こえていらっしゃる?」
母の少しヒステリックに上擦った声で、萌黄は食卓へ引き戻された。
「ごめんなさい。少しぼうっとしてしまって……」
「嫌だわ。お食事の最中に。それともご気分でも悪いのかしら?」
普段は娘の体調など気にもとめないというのに、父子爵の前で、或いは“完璧な優雅な家族の団欒”では、それらしく眉を不安げに下げる母が少し疎ましかった。けれど、よもやそれを態度に表すことは出来ず、萌黄は微笑んで返した。
「いいえ。心配ございませんわ、お母様。今日は少し疲れているみたいです。先に部屋へ戻ってもよろしいでしょうか。」
萌黄の申し出に、母は父子爵の顔色を窺った。
「本当に平気なのかい?」
父は手を止めて、きりりとした黒い目で真っ直ぐ娘を見つめ、再度確かめた。父は五十に近いが、皺こそあれど、整った顔立ちをしている。筆で描いたような綺麗な弧の眉は、母と違って、娘を案じて柔らかく下がっているのが分かる。その違いは、造形の美と、自然美を見比べるようなものだろう。
分かり難かったが、父には愛情があった。娘に対する確かな愛情が。それでも、それを享受する機会が多くなければ、やはり溝を感じずにはいられなかったのだが、こういった時は母よりも頼りがいがあった。
暑さで食欲が失せただけだと言い、父もそれ以上は追及しなかったので、萌黄は食卓を後にした。
食欲が減退しているのも、あながち嘘でもない。梅雨が明けたばかりで、それから暫く茹だるような夏日が続き、夜でもそれは治まらず、寝苦しかった。
広い庭を横切って、母屋の二階の自室に戻り、窓を開けた萌黄は、その時ようやく息を吸えたような心地になった。
沖澤家では、今日のような西洋料理が夕餉に用意された日は、それに合わせて離れの洋館で食べるのが習慣となっている。そして、今日のように父の言葉から食事が始まり、弟がまるで正答のような台詞を返し、母が盛り上げ、萌黄はさも幸せそうに笑うのだ。
これを写実主義の画家が描いたとしたら、どんな絵が出来上がるのだろうか。そこには円満な素晴らしい家庭が描かれるのか、或いは……。少なくとも、萌黄の目には仮初めの家族団欒しか映っていなかった。
風の吹かない夜だった。窓を開けても、熱帯夜で熱せられた湿気が首回りに纏わりつくようで、何とも言えぬ不快感が消えない。行儀が悪いと思いながらも、着物の衿を少し持ち上げて、文机に置かれた団扇を手に取り、襦袢の中に風を送るように扇いだ。
束の間の爽快感で、思わず笑みが漏れた。それでも流れる汗は止まらず、顎を上げて更に奥へと団扇を降った。
「お姉様、お加減如何ですか。」
襖の向こうで伊時が呼びかけた。
萌黄が振る手を休めず、大したことはない、と告げると、それを許可と見なした伊時は部屋へ入った。
萌黄はつんと上げた顎もそのままに振り返り、背後に立つ弟を流し見た。庇に結った髪の下に伸びる、その白い項には、一縷の汗がつうと滴る。
伊時はごくりと唾を飲み込み、素っ気なく視線を書棚に移した。
「その……ほんまにどうもないんか?」と思わず訛りを出してしまったのを取り繕うように、伊時は続けた。「萌は肌の色が白いから、時々酷く顔色が悪く見える。」
弟は今年十七歳になる。華族が無償で入れる学習院高等学科に、自宅から通っている。“男女七歳にして席を同じうせず”の古いしきたりは、まだ根強く残っていたが、父は伊時を寄宿舎に入れようとせず、同じ母屋に住まわせていた。
それもこれも、伊時が養子であることにも関係しているだろう。
伊時は、齢十二までは七倉伊時といって、京で暮らしていた。時が明治に移り変わってからも、帝の帰りを信じて待ち続けた公家華族の一つだった。
御一新前の名家であり、笛を家職としていたが、家職が廃止されると、元々家禄の少なかった七倉家は収入源を絶たれて、忽ち貧困に喘いだ。
七倉家の三男であった伊時は、家督も継げず、戸籍を出れば平民になってしまう。それならばと、遠縁であり男児のなかった沖澤家へ養子に出されたのである。遠縁と言っても、本当だか嘘だか分からないくらい大昔の、家系図の端に曖昧に記されたものであった。体の良い口減らしであったのは、伊時も承知している。