小さなほほ笑み
高校3年の冬、マフラーを口が隠れるほどしっかり巻きつけ、苦しくなりすぎた分少し緩める。
学校から足早に帰り、ちょっとした準備をしてバイトに向かう。
着替えるのも億劫で毎回制服のまま家を出る。
イヤホンからお気に入りの音楽を流し、少し彩られた気分になりながら(よしっ)と自転車にまたがる。
その乗り物は、持ち手の内側にいくにつれカーブがかかっており、まるで鹿の角を操っているようなシルエットだ。
世はこれをシティサイクルまたはママチャリと評している。
中学生の頃は恥ずかしげもなくどこへ行くにもこの類のものに乗っていたが、この微妙な年頃になると大分、羞恥の気持ちもでてくる。
それも好んで乗っているわけではない。
半年ほど前に自分の自転車を買ってはいた。"いま"風デザインの白の折り畳み式自転車だ。
だがそれはチェーンを無くしたある日、バイト先の駐輪場で数時間のうちに盗まれた。
別に良かった。疲労感を蓄えた身体で自宅まで歩くというのは苦痛であったが、ペダルも重かったし
じきに買い替える考えも弄ばせてたからだ。ただ、いただけないのはすぐ近くに盗む人間がいるということだ。
一般無料駐車場とは少しばかり離れた、奥の狭い空間にある従業員用の駐輪場。
私が忙しなくバイトに励んでいる最中に無防備なそれを輝輝として見つけたのだろう。
それとも私が止める前からその視線は影からそっと鍵をかけない私にむけられていたのかもしれない。
私の知らない目線が私を掴んでいるとしたら、この二つの目では見きれない。
こんなんじゃ見ず知らずの人間に後ろから刺されるなんてことも非日常的とは言えないのだろう
対象物が人間じゃなかっただけのこと。
だれからも最期を看取られずに孤独な空間で逝き、数カ月後に新聞配達員などから亡骸を発見される虚しい事例があるけれど、
反対にどこで誰が何をみているのか分からないという社会が出来上がっているのも事実
その視線を向ける人間次第で事態が恐怖をともなうものにもなりかねない、盲目の怖さだ。
話を戻すが、私は今このママチャリを数百メートルは漕いだ。冬の自転車は冷たい風を真っ向から芯に浴びる。一種の拷問というべきか。
体中の穴という穴を塞いでしまいたいところだがそれも叶わず、イヤホンで塞いだ耳だけが風の侵入を防いでいる。
手袋をしてこなかった手はかじかんで石のように持ち手を掴んで固まっているのが漕ぎながらでも分かる。
無意識的に鼻をすするが、はなたれ小僧になっているという感覚すら持てない。だがたぶんアウトだろう。
あと200mほどで目的地に着く、大通りを一直線に走る。
最近になって、工事中の敷地がやけに目立ちはじめた。この直線の道だけで3箇所は工事中の現場を目にする。
それでも特に街並みが変わったというわけではない。そう思うのはただ単に無くなった建物と面識がなかったからかもしれない
また、どこかの誰かにとってはとてつもない変化であったのかもしれない。変化は起きているのだろう。
素朴な日常である。無害ともいえるであろう、平穏無事な生活だ。
その工事現場の仕切には何枚もの写真が散りばめられていた
愛らしい小動物に、美しい風景、小さい子どもの笑顔
これまで目にしてきた工事場にはただ真っ白い簡素な仕切が立てられているだけであった。だがここには何色もの色があった。
あまりにも構図が上手なことからプロが撮った写真なのか、また作業員の誰かが趣味で撮影したものを好意から貼っているのか
どちらにせよなんとなく、ただなんとなく良い気持ちになった。気づかぬうちに口がほころんでしまうような感覚になる。
写真達の前で歩道整備している現場のおじさんに良い写真ですねと自転車を止めて声をかけたくなった。
おじさんにとっては思わぬ声がけで少し驚愕させてしまうかもしれない、だが無機質なイヤホンから流れてくる心地の良い音楽とはとても力強いもので
なぜだか平和的感覚になるし優しい気持ちにさせてくれる。
でももう一歩ののところで行動に移すことはやめた。思うことを行動にうつすことというのはやっぱりもうちょっと勇気が必要みたいだ。
まだまだチキンなわたしだ。
もうすぐで目的地に着く。
ちょっとした工夫で小さな微笑みが生まれる。きっとそれはいくつもの心のなかで生まれているのだろう。
きょうも、一つ良いこと見つけました。さあがんばっていきましょうか