猛獣の正体
牢に入れられて、数日が経つ。
日に一度医官が来て傷を診ていく以外は誰も訪れず、見張りの兵士の背中くらいしか見えない。医官には、だいぶ治ってきたと伝えられた。脳にも異常は無さそうだという話で、ほっとする。やはり頭への打撃は脳への影響が怖い。
体力もかなり回復してきた頃、束憐が様子見に訪れた。
「よう。気分はどうだ」
「最悪に決まっているだろう」
碧との交渉がどうなったのか、全く情報が入ってこない。いきなり引き出されて処刑される、なんて可能性も無いわけではない。
「……なぁ」
束憐が、僅かに声を潜めた。
「碧が条件を呑んだとしても、お前、無事には帰れないぜ」
私は束憐を睨んだ。
「予想済みだ」
牢の中で、考えた。条件を呑んだことに満足して私を帰すほど、絡嬰は素直ではない。命はあるにしても、たぶん拷問の一つや二つあるだろう。腕の一本くらいは取る気かも知れない。
だから、逃げないと。
牢から引き出された時が狙い目だ。
「……たぶん、お前の予想してねえことだろうよ」
束憐はそう呟いて、鉄格子に手をかけた。
「牢から出る時に逃げようなんて、甘いことは考えんな」
読み取ったように言われて、私は目を眇める。まあ、簡単に予想できることだろう。
「絡嬰はやるとなったら徹底的にやる」
束憐がぐっと拳を握ると、掴まれていた鉄格子がぐにゃりと歪んだ。
おいおい、嘘だろう。
思わず顔をひきつらせた私に気づいているのかいないのか、束憐は最後にぼそりと言った。
「舌噛み切るなら今のうちだぜ」
馬を走らせて、十数日。沃縁は昏の都に辿り着いた。城壁を見上げながら、一考する。
前回、同様にしてここまで来た筈の函朔は、到着したその日のうちに消息を絶った。それまでに目立つ行動をしたとは思えないのに、何故か気取られている。
だったら、いっそ気取られる前に最深部まで攻め込んでしまおう。
沃縁は都に入るや否や真っ直ぐに王城へ向かい、その辺りを巡回していた兵士を一人昏倒させた。衣服と鎧を剥ぎ取り、昏兵になりすます。それから王城の中へ忍び込んだ。この手の仕事はお手のものである。さりげなく紛れ込みながら、沃縁は行き先を考えた。鴻宵のいる牢に直接行って助けたいのは山々だが、牢の周辺は警備が固くて入り込みにくいし、第一どの牢にいるのか特定できていないままでは話にならない。
そう考えて、沃縁はまず四将軍の一人である絡嬰を探りに行くことにした。策を設けて鴻宵を捕らえた張本人である。
執務室から明かりが漏れているのを見て、周囲の間取を探る。執務室の奥に仮眠室があり、そこには裏側の部屋から天井裏を通って侵入できた。執務室と仮眠室を区切る扉の隙間から、そっと中を窺う。
「無論こちらも予測済みだ。何のために牢の中に寝台まで誂えたと思っている」
不機嫌そうに発言しているのは灰色の髪の男。これが絡嬰だろう。
「……そもそも牢から出さねえつもりか」
相対しているのは、赤銅の髪に隻眼の大男。束憐だ。
「にしてもよ」
続けて何か言おうとした束憐が、一瞬言葉を切る。その左手が、動いた。
間一髪、沃縁は飛びのいた。寸前まで彼の顔があった場所に、飛んできた剣の切っ先が光っている。額を、冷たい汗が伝った。
「束憐?」
「鼠だ」
沃縁は即座に逃走を選んだ。明り取りの窓を足掛かりに天井裏に上ろうとした時、扉が蹴破られる。姿を現した束憐と、目が合った。
沃縁はすぐに天井裏を諦め、窓からの迅速な逃走に賭けた。他の兵士に見つかる危険性は上がるが、この場で束憐に捕まるよりはマシである。
「逃がすかよ」
不意に、ざわりと空気がざわめいた。束憐の姿が、みるみるうちに変わって行く。
赤銅の髪は赤銅の毛皮に。
口は裂け、歯は牙に。
両腕は、二本の前足に。
「……っ、そういう……っ」
沃縁は理解した。図らずも自分は、函朔が探ろうとした「猛獣使い」の答えに辿り着いたのだ。
昏には猛獣使いがいる。
それは半分当たり、半分外れ。
昏の四将軍の中には、猛獣そのものがいたのである。
「くっ……」
飛びかかられる直前、沃縁は窓から身を踊らせた。着地すると同時に、獣が壁を突き破る。
咄嗟に沃縁は左腕を盾にした。
彼は白の太子の側で、隠密まがいの仕事の経験を積んできている。その中で学んだことの一つに、己の体に優先順位をつけるということがあった。すなわち、いざという時、逃走と戦闘の為に最も「役目の小さい」利き腕と逆の腕を犠牲にし、活路を開くということである。腕を一本失ってでも生き残ること、己の持つ情報を守ることを優先する、合理的ではあるが凄まじい覚悟である。
沃縁は獣が左腕に噛みつくと同時、念のために総華から貰っていた臭い玉をその鼻面に投げ付けた。
獣が低く呻いて腕を放す。粉末が目に入ったらしく、苛立たしげに首を振った。その隙に、沃縁は回廊の欄干を乗り越え、飛び下りる。
背中に衝撃を感じた。絡嬰の放った矢が突き立っている。鎧のお陰で、傷は浅い。
追ってこようとする獣に金精霊をぶつけ、鏃を破壊して、沃縁は逃げた。
兵士が集まってくる隙をすり抜けるようにして、厩の馬を一頭奪う。行く手を塞ぐ兵士達の武器を破壊しながら、王城の外へと駆けた。閉じられかけていた門を、間一髪潜り抜ける。
「逃げたぞ、追えっ!」
背後の声を、沃縁は半ば朦朧とする意識の中で聞いていた。左腕からの出血が酷い。
走る馬の上で、辛うじて鎧を脱ぎ捨て、上着を裂いて傷口を縛った。しかし、もはや体にろくに力が入らない。背後から、追ってくる兵士の怒声が聞こえた。このままでは、遠からず追い付かれる。
加えて、前方からも馬蹄の音が聞こえた。単騎のようだが、回り込んだ兵士が居たのかもしれない。
これまでか、と、沃縁は馬の背に伏せた。
――ごめんなさい、鴻宵さん。
前方から来た騎馬が沃縁の馬にぶつかってきた時、沃縁の意識は諦めに溶けていった。
何やら、城内が騒がしい。
何か起こったのか、と私は身を起こす。しかし、それで何かがわかるわけでもない。
間もなく、騒ぎは沈静化したようだった。代わりに乱雑な足音が響き、束憐が姿を現す。何故か目元を押さえていた。
「おい、てめぇ!」
がん、と鉄格子を蹴られて、私は首を竦める。手加減しているのか歪みはしなかったものの、ひどい音がした。
「あれはお前の手の者か!前の鼠と同じもん使いやがって。ああ、まだ目が痛え」
睨み付けられて見返すと、束憐の隻眼は赤くなり、涙が滲んでいた。確かに痛そうだ。
それよりも。
「手の者?鼠?」
誰かが、入り込んだということだろうか。いったい、誰が?
「絡嬰の様子を探りに来てやがった。白い髪の、金精霊を使う方士だ」
私は目を見開いた。十中八九、沃縁だ。私を助けに来たのかも知れない。
「……それで」
声が震えそうになる。
「どう、なったんだ?」
「やっぱりお前の手の者か」
束憐が舌打ちする。腕を組んで、もう一度鉄格子を蹴った。
「取り逃がした」
私はほっと息を吐いた。
良かった。生きている。
「前の鼠もお前の手の者だな。同じもの使いやがったし」
前の、鼠。……函朔のことか。
「あっちもあれのせいで取り逃がした。あの玉はいったい何なんだ?」
何、と言われても。
私は二人が使ったのだろうものを思い起こした。総華特製の臭い玉だ。
「……強烈な臭いと軽い痺れ効果のある薬草を干して粉にして固めたものだな」
もともとは狩の途中で猛獣に遭遇した時の為に、碧郊外の猟師に頼まれた総華が作ったものだ。何しろ本性が獣である狐狼が作ったものだから、効果は抜群。猛獣使いの疑惑が出てからは、更に改良を進めていたはずだ。
「前回のより今回の方が目が痛えんだが」
「ああ、それは私の発案で唐辛子の粉を少々……いやたっぷり」
「鬼か!」
喚かれても、こちらも命を守る為に工夫したわけだし。
それより、だ。
奇妙なことが一つ。
「おかしいな」
私は目を細めた。
「あれは、対人用に作ったものではないんだが」
人間に対する目眩ましなら、他にもっと有効な方法がいくらでもある。あの臭い玉は、飽くまで獣の嗅覚を潰す為のものだ。
それを、束憐は真正面から食らったらしい。
「……なるほど」
私は呟いた。
「あの時、兵士達を討ちに行ったのはお前自身か」
それなら、全て説明がつく。兵士達を襲った獣が肉を食わなかったことも、懐を漁った形跡があったことも、束憐が朝会にいなかったことも。
そして、束憐に精霊が見えることも、だ。
「まさか妖怪が四将軍の一人とはな」
「……別に珍しいことじゃねえだろ」
束憐は何か言いたげな様子だったが、結局それだけ言って口を閉じた。
そこへ、兵士が駆けてくる。
「束将軍」
一声掛けて、頭を下げた。
「絡将軍がお呼びです」
「わかった。すぐ行く」
そう応えた束憐は、もう一度だけ私を見た。
その目に、どこか憐憫に似た色が浮かんでいたような、気がした。
束憐が訪れると、絡嬰はすぐに手にしていた書簡を放って寄越した。
「見てみろ」
絡嬰の口角が上がっている。
「碧は条件を呑んだぞ」
鴻宵の身柄と引き換えに橙を差し出すことを了承したということである。かなり思いきった決断であると言える。
「よく決めたもんだな」
「おおかた、覇姫と棟凱辺りが動いたのだろう」
そう推測を述べた絡嬰は、瞬きの間に笑みを消した。冷え冷えとした瞳を、こちらに向ける。
「明日だ」
冷徹に、絡嬰は宣告した。
「明日、実行する」
器を壊さぬ約束ならば、中身を壊して返すまで。
温度の無い呟きが、ゆるりとほどけて大気に溶けた。




