表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
水鏡五国志 [第二部 烈日之巻]  作者: 子志
章之伍 戦禍
92/115

疑念と焦燥

 堂から退出した冒溢は、何やらしきりに首を傾げていた。控えていた都洋がそれに気づき、声を掛ける。

「如何なさいました」

「おお、都洋。なに、大したことではないのじゃが」

 冒溢はその太鼓腹の上で腕を組み、なおも首を捻る。

「あの鴻宵……どうもどこかで見たことがあるような気がしてのう」

 都洋は軽く眉を上げる。これまでに、冒溢と鴻宵が直接相見えたことはなかった筈だ。

「鴻宵は碧に仕える以前、璃氏の傍におりました。その頃にお見かけになったのでは?」

「そうではあるまい。璃氏の付き人なぞ会う機会も無いわい」

 一応口にしてみた可能性は、即座に否定された。都洋もそう思う。ただでさえ当時、璃氏は離宮から滅多に出てこなかったし、冒溢が璃氏に接触するときは必ず都洋が使いしていた。


 ならば、どこだ。


 そう考えた時、都洋は以前璃氏の離宮で鴻宵を見た時、やはり見覚えがあるような気がしたことを思い出した。当時は気のせいだろうと気にも止めなかったが、冒溢がこう言うということは、やはりあれ以前に一度、どこかで見ている。

「ううむ……あのような女顔、一度見たら忘れぬようなものだが」

 冒溢が唸る。都洋は苦笑した。確かに、鴻宵の容姿はまるで少女のように整っている。好色な冒溢からすれば、さぞ女でないことが残念でならないだろう――

 そこまで考えて、都洋は全身の皮膚が粟立つような感覚を覚えた。


 思い出した。あの顔だ。


「どうした、都洋」

 都洋が息を呑んだのに気づいたのか、冒溢が言葉をかける。都洋は動揺を辛うじて抑え、口を開いた。

「将軍はご記憶でしょうか。何年か前、心泉をめぐって覇姫の軍と争いましたが……」

「ああ、あれか。あれがどうした」

 冒溢が眉を寄せる。あの戦は昏の惨敗に終わった。冒溢にとってはあまり思い出したくない記憶なのである。

「あの折、開戦の前に、兵士が捕らえた不審者がおりました」

「む?」

 短く声をあげた冒溢は、納得したように手を打ち鳴らした。

「おお、そうじゃそうじゃ。あの時の少女じゃな。なんとそっくりではないか」

「は……」

 果たしてあれはそっくりという次元なのか。

 都洋に浮かんだ疑問と同様のことを感じたのか、冒溢がはたと動きを止める。

「……よもや、本人ではあるまいな」

「……私からは、何とも」

 もし、万が一、本人であったなら。

「馬鹿な」

 冒溢が首を振る。

「あれはどこからどう見ても女であったぞ」

 面妖な格好で髪も短かったが、何故か濡れていた衣服の下に見える体の線は、確かに女だった。

 主従は顔を見合わせる。


 ――まさか、鴻宵は……。


 その疑問が口に出る前に、侍従が絡嬰の来訪を告げた。




 それより暫し前。

 鴻宵を牢に放り込んだ束憐は、絡嬰の執務室へ向かった。しかし主は不在である。恐らく、今後の鴻宵の処遇に関するあれこれで忙しいのだろう。

 束憐は勝手に部屋に入ると、隅の長椅子に腰かけて体を伸ばした。


 何だか、つまらない。

 絡嬰のやり方に不満があるわけではないが、もう少し鴻宵と戦ってみたかった。


「来ていたのか」

 戸口から声がかかる。戻ってきた絡嬰は、どこか上機嫌のようだ。

「束憐」

 手に持っていた紙の束を机に置きながら、絡嬰が呼び掛ける。

「鴻宵の傷の具合はどうだ」

「あ?」

 問いを受けた束憐は、鴻宵の青ざめた顔を思い出した。兜越しとはいえ束憐の一撃を側頭部に受けたのだ。気丈に振る舞ってはいたが、いつ倒れてもおかしくない傷の筈だった。

「医官の見立てじゃ骨も脳も何とか大丈夫らしいが、最低七日は絶対安静だとよ」

「ならば碧の返答が来る頃には動かせるな」

 まあ別に動けなくても死にさえしなければいい、と何やら物騒なことを呟いて、絡嬰は書類を捲る。束憐は嫌な予感がして、尋ねた。

「何する気だ?碧が橙を差し出したらあいつは帰すんだろう」

「帰すとも。だがな、束憐」

 絡嬰はふっと鼻で笑う。

「私は碧に、『橙の支配権を寄越せば鴻宵は生かして帰す』と申し送っただけで、『無事に帰す』とは一言も言っていない」

 束憐は目を見開いた。その意味するところは。

「……壊す気か」

「当然。消すべき者は消せる機会に消す」

 絡嬰は口角を上げた。

「あれは女なのだろう。壊すのは容易い」

「お前……」

 束憐は顔をしかめる。

 道義上の問題に、ではない。そんな『人間らしい』感覚を彼は持ち合わせてはいない。単に、絡嬰が使おうとしている人間が気に食わないのである。

「あの好色爺ぃの餌にする気じゃねぇだろうな」

「そのつもりだが」

 絡嬰がさらりと肯定する。束憐は益々眉を寄せた。

「勿体ねぇ」

「この上なく適任だろうが」

 束憐の苦情には取り合わず、絡嬰は書類を纏める。束憐はすっと表情を消した。

「俺にくれよ」

「何?」

「あの爺ぃにやるくらいなら俺にくれ。誰だって同じだろう」

 絡嬰は僅かに目を見開いた。それから、すぐに眉を寄せ、顔を背ける。

「駄目だ」

「なんで」

「駄目だ。既に冒将軍に話を通してある。諦めろ」

 とりつく島もない。束憐はけっ、と喉を鳴らして、部屋から出ていった。後には、書類を手に持ったままの絡嬰が独り、残る。

「何故、だと」

 書類の上に、微かな呟きが落ちた。

「貴様では情を移しかねんからに決まっているだろうが、馬鹿が」



 その頃、昏の離宮、斗宮では。

 窓から外を見ている璃黒零の背中を、蕃旋は見つめていた。

「会いに行かねえのか」

「何故吾が行かねばならん」

 先程から、数十分おきにこのやり取りが重ねられている。蕃旋は溜息を吐き、頭を掻いた。


 この数年、ずっと黒零の傍に居た蕃旋には、頑なになっている黒零の気持ちもわかる。黒零は鴻宵に裏切られたと思っているし、今は完全に敵同士。互いに兵を率いて戦ったこともある。

 一方で蕃旋は、鴻宵が好き好んで黒零との友情を切り捨てたわけではないこともわかっていた。そもそも蕃旋が初めて会った時、鴻宵は碧の太子と共に居たのだ。恐らく、始めから碧へ行くつもりだったに違いない。

 それでも黒零を見捨てていない証拠に、媒体を贈ったではないか。蕃旋を説得して黒零の傍に戻したではないか。

 そして黒零も鴻宵を嫌いきれていない証拠に、まだその手首には腕輪が光っている。


「敢えて言うぞ、黒零」

 蕃旋は現実を突きつける。

「たぶん……最後の機会だ」

 ぴくり、と黒零の肩が動く。

 昏と碧の間でどういう交渉がなされているのかまだわからないが、いずれにせよ鴻宵は殺される公算が高い。絡嬰は鴻宵を危険視している。無事に帰す筈が無かった。

 蕃旋の脳裏に、出会ってからこれまでの鴻宵の姿が蘇る。

 できることなら助けてやりたい。そう思う。

 しかし今は詳しい状況がわからないのに加え、蕃旋が下手に動けば累は黒零に及ぶ。

「……吾は、知らぬ」

 黒零は窓に目を向けたまま、小さくそう言った。




 使節団が都を発とうとしている。

 鴻宵救出に向けて事態が動き始めているにも関わらず、紀蒼凌は心底からの安堵を感じられずにいた。碧が昏から提示された交渉を突っぱねるという事態は避けられた。穏当に進めば、春覇達が無事鴻宵を連れ帰るだろう。


 ――無事に?


 ふと脳裏をかすめた疑問に対して、蒼凌の反応は早かった。

「雪鴛」

 即座に控えている従者の名前を呼ぶ。

「人払いを。二刻ほど誰も近づけるな」

 唐突な下命にも、雪鴛は一瞬眉を上げただけで黙って従う。彼が出て行き、静まり返った部屋に一人残った蒼凌は窓を開け放った。そうして暫し待っていると、やがて窓の外に人影が現れる。

「お呼びですか?」

 雪鴛による人払いをものともせずにその場に姿を見せた人影に、蒼凌は振り返りもせずに命じた。

「鴻宵を救出しろ。すぐにだ」

 簡潔な命令。人影は僅かに首を傾げた。

「しかし、既に昏との取引には応じると結論が出ています。焦らずとも無事に――」

 窘めるような語気の言葉が、ふいに途切れた。何かを思案するような沈黙が訪れる。

「……わかりました。可及的速やかに手配します」

「頼む」

 短い返答を聞くと同時に、人影が姿を消す。蒼凌は元通り窓を閉めると、冷たい木枠に額をつけた。

「間に合ってくれ……」

 小さな呟きを、聞いた者はいない。




 昏との取引の為に春覇と檄渓が都を発って暫くした頃。

 鴻家に、扉を破らんばかりの勢いで駆け込んだ者が居た。

「鴻宵は!?」

 開口一番、そう叫ぶ。突然のことに目を丸くしていた省烈と尉匡は、とにかく落ち着かせようと彼を座らせた。

「お前にしちゃ遅かったな」

 省烈が思わず口にする。何しろ相手は、常にどこからともなく情報を入手して立ち回っている慎誠なのだ。

「こんな時に限って遠くにいたんだよ。それより、鴻宵はどうなってる?」

 夜を日についで駆けてきたのだろう、疲弊した様子の彼に水を差し出しながら、尉匡は現状を告げた。

「昏は将軍と橙を交換するよう迫ってきました。我が国はそれを呑んで覇姫様と右軍が引き取りに向かわれたところです。お命の心配はありませんよ」

 宥めるようにそう告げるが、慎誠は険しい表情を崩さない。

「……昏が何て言ってきたのか、正確にわかる?」

 省烈と尉匡は顔を見合わせた。

「要求書の写しならば、保管してありますが……」

「見せて!」

 慎誠の鬼気迫る様子に、不安が募る。すぐに尉匡が書類を持ってきた。その文章に目を走らせた慎誠が呻く。

「やっぱり……!」

「おい、どうした」

 省烈が問いかけると、慎誠は頭を抱えたまま言った。

「駄目だ、駄目なんだよ。このままじゃ、鴻宵が危ない……!」

「なん……」

「尉匡さんも居ながら、なんで気づかなかったのさ!」

 書類を握り潰さんばかりの勢いで、慎誠は叫んだ。その声の悲痛さに、省烈も尉匡もかける言葉を見つけられない。

「見てよ、ここ……『以上の条件に従うならば、貴国の大将軍鴻宵を存命のまま返還することを約す』」

 尉匡がはっと顔色を変えた。己の迂闊を悟ったのである。主君の危機に、彼も焦り、冷静さを欠いていたのだ。

 その結果が、これ。

「保証されてるのは『存命』だけだ……『無事』はどこにも保証されてない!」

 命を奪わなくても、人を再起不能にする手段など幾らでもある。

 昏がわざわざ軍を動かしてまで捕らえた鴻宵を、素直に返すわけがなかったのだ。

「すぐに昏に行くよ」

 慎誠はそう言って、水を飲み干す。

「助けられるかは、正直わからない……けど、守るんだ……今度こそ」

 低く呟いて、走り出した。

「……覇姫様に報せましょう」

 尉匡が静かに言う。省烈は無言で頷いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ