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水鏡五国志 [第二部 烈日之巻]  作者: 子志
章之伍 戦禍
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凶報

 やがて、何騎かの騎馬を先駆とする形で、軍が帰還した。戦場から駆け続けての帰還である。


 鴻宵を捕らえた昏軍があっさりと退いていった時、棟敏は理解した。この戦は、鴻宵ただ一人を標的として起こされたのだ。

 それほど、昏も鴻宵を重視した。その鴻宵を、むざむざ死なせるようなことがあってはならない。


 本音を言えば、すぐにでも追撃したかった。しかし昏軍に敗れた碧軍は、物的被害、人的被害ともに大きくはないとはいえ、兵士達の動揺が激しい。見事なまでに一糸乱れず退却していった昏軍に追いすがっても、こちらの被害を大きくするのみであることは明らかだった。


 故に体勢の立て直しと朝廷の指示を仰ぐことを目的に、一度都まで引き返して来たのである。


 その軍の先駆として都入りした騎馬の中に、漣瑛がいる。本来なら無茶ができる傷ではないのだが、鴻宵の家に事態を伝えるのは自分の役目である、と、たって先駆を志願したのだ。彼の怪我を案じて、檄渓が付き添いを一人付けてくれていた。

 先駆の一部は、城門を潜るや否や一直線に王城へと駆けていった。彼らが、国の中枢部に対し詳細な報告をすることになる。一方の漣瑛達は、城門から思い思いの方角に散った。彼らは各家から使わされた兵である。当然、主君に真っ先に情報を伝えなければならない。


 もっとも、と、漣瑛は唇を噛み締めた。

 もっとも、鴻家にはその主君が居ないのだが。


 時折付き添いの兵士に支えられながら邸に辿り着いた漣瑛を最初に見つけたのは、門番をしていた衙桐だった。漣瑛の顔を見て一瞬表情を和らげかけた彼は、すぐに顔色を一変させる。何しろ漣瑛は怪我をしているようで兵士に付き添われているし、何より――共に帰還する筈の主君の姿が見当たらない。

 衙桐は慌てて邸内に声をかけた。即座に衙楠が駆け出してきて、衙桐と二人で漣瑛に手を貸し、馬から下ろす。

「ありがとうございます」

 ここまで付き添ってくれた兵士にも礼を述べてから、漣瑛は衙楠の肩を借りて歩き出した。戸口に、範蔵の姿が見える。

「おい――」

 何か言いかけるのを、漣瑛は制した。

「中で、お話しします。皆さんを集めてください」

 衙の兄弟に支えられながら漣瑛が邸の中に入ると、わざわざ集めるまでもなく、全員が居間で待っていた。春覇と章軌を除く家人が一堂に会しており、壁際には沃縁の姿も見え、牧黎翡が珍しく控えめな様子で隅に座っている。どの顔も、緊張に強張っていた。


 彼らの前に出るなり、漣瑛は衙楠の肩から手を離し、崩れるように膝をつく。慌てて助け起こそうとする衙楠を手真似で制して、そのまま床に両手をつき、深々と頭を下げた。

「申し訳、ありません……!」

 誰かが、息を呑む音がした。平伏した漣瑛を呆然と見詰め、その謝罪の意味を探る。

 沈黙が続く中、徐に身を起こした漣瑛が、懐に抱えていた包を前に置く。丸い何かを包む布を、震える手でゆっくりと解いた。


 総華が、小さく悲鳴を上げた。

 そこにあったのは、兜だ。身分の割に質素で、しかし丈夫に作られている筈のそれは、余程の衝撃を受けたのか、側面がべっこりと凹んでしまっていた。


「……申し訳ありません」

 再度、漣瑛が頭を下げる。

 誰もが、言葉を発せずにいた。大きく破損した兜。それを身に付けていた人物がどうなったのか、想像することすら恐れるように口をつぐんでいる。


 そうして降りた沈黙を破ったのは、尉匡だった。

「お命はあるのでしょう。現状を説明してください」

 一斉に視線が集まるが、尉匡は揺るがない。普段常に浮かべている微笑こそ消えているが、彼は冷静だった。それに倣うように他の者達も気を落ち着け、漣瑛に視線を戻す。

「……将軍は」

 頭を下げたまま、漣瑛は語った。

「将軍は、昏軍に捕らえられました。お命には別状無いと思いますが、昏でどう扱われるかは……」

 項垂れた漣瑛を、衙楠が助け起こす。省烈が口を開いた。

「粗方の事情はわかった。とにかくお前はその傷を治せ。総華、見てやってくれ」

 指示を受けた総華は頷き、衙の兄弟の手を借りて漣瑛を寝室へと連れていく。不安げに振り返る漣瑛に、尉匡が穏やかに声を掛けた。

「あとのことは我々にお任せください。覇姫様もおられます。心配要りませんよ」

 にこ、といつも通りの微笑を見せた尉匡に、漣瑛は頭を下げた。そのまま、無言で退出していく。それを見送った尉匡は、すぐに省烈を顧みた。既に笑みは消えている。

「ここからが正念場です。将軍のおられない今、我々に何ができるか……」

「ああ。よりによって厄介な状況だがな」

 厄介な状況とは、碧王の鴻宵に対する信頼が揺らいでいる現状を指す。出陣前の王の態度は、彼らの耳にも入っていた。

「恐らく、覇姫様は既に動いておられるのでしょう」

 尉匡が静かに言う。ここ数日、春覇はこの家に帰ってきていない。すなわち、それほどに多忙なのだ。

「覇姫様が動いておられるということは、まだ望みがあるということです」

 そう説明してから、ふっと息を吐いた。


 春覇は王族である。鴻家の人々がたった今耳にしたくらいの情報は、数日前に入手していたに違いない。それを彼女が鴻家の人々に知らせなかったのは、一つには王族としてある程度情報の機密を守るため、という理由がある。それに加えて、鴻宵を救い出す為の根回しに多忙なのだろう。

 故に、尉匡は鴻宵は生きている筈だと言い切ったのである。もしも最悪の事態が既に訪れているなら、春覇から何も知らせが無いということはまず無い。


「とにかくまず、私は覇姫様に現状を伺ってから各家への根回しを始めます」

「頼む。俺もできるだけの事はしよう」

 尉匡と省烈の間で話が纏まる。尉匡はすぐに支度をして、足早に出ていった。

「僕は昏へ行きます」

 そう宣言したのは、言うまでもなく沃縁だった。彼は既に窓枠に足をかけている。

「今度は反対しないでしょう?」

「……わかった。だが無茶はすんな。鴻宵の立場も考えろよ」

 やや不安を覚えながら省烈が釘を刺すと、沃縁は頷いて窓から出て行った。

 さて、と省烈は残った家人達を見渡す。

 使用人達は身を寄せ合い、不安げに顔を見合わせている。嶺琥は茫然と自失していた。範蔵は座ったまま、じっと俯いている。その拳が血の滲みそうなくらい握り締められていることに気付いて、省烈は彼の背中を勢い良く叩いた。

「ほら、落ち込んでる暇は無ぇ。お前は陪臣達への根回しに動け。情報の収集も怠るなよ」

「……ああ。わかった」

 範蔵はもう一度拳に力を込めると、立ち上がって出て行った。省烈は次に、嶺琥の頭に手を載せる。

「お前もしっかりしろ。お前が沈んでると馬も威勢がなくなるだろうが。鴻宵が帰って来た時に顔向けできねぇぞ」

「……はい」

 頷く嶺琥の頭を軽く叩きながら、省烈は窓の外に見える空を見上げた。

 ――無事に戻れ。待っている人間がいるのだから。

 そんな家臣達の様子を、黎翡が何やら思案げに眺めていた。




 東宮の執務室では、紀蒼凌と紀春覇が額をつきあわせていた。

「棟氏は積極的に動いています。至氏も反対に回ることはありますまい」

「そうだな。荏氏も時流に疎くはないし、叙氏も何のかのと言っても鴻宵の実力は理解している。卿の面々はまず問題あるまい」

 二人は、鴻宵奪還の為の交渉について協議しているのだった。検討した結果、臣下のうちの最高位にある卿には強硬な反対者はまず居ない。目に見える実績を積んできた鴻宵を見殺しにするようなことがあれば、政府自体が民の信用を失いかねないことを誰もがわかっている。

 しかし最も厄介な障害は、その上に居た。

「となると……問題はやはり……」

「そうだな」

 つまり、王である。ここのところ、王の鴻宵に対する態度は硬化している。恐らく、鴻宵を太子蒼凌の一派として見なすようになったのだろう。

「こればかりは、我々がへたに動くわけにはいかない、か」

 蒼凌や春覇が王に働きかけることは、王の態度をかえって硬化させかねない。蒼凌は唇を噛んだ。

 また、護れない。

「鴻家の者達と連絡をとります。あとはできる限り周囲を固めてしまうほかありますまい」

「ああ。頼むよ、春覇」

 春覇が足早に出ていく。それに続こうとした章軌が、不意に振り返った。

「蒼凌」

 静かな声が耳を打つ。

「落ち着け。焦りは禁物だ」

 それだけ言って、彼は立ち去った。

 蒼凌はじっと何かを考えている。

「章軌殿の言う通りです」

 不意に、声がした。

「失態を犯してしまった私の言えた義理ではありませんが……貴方が焦ると、良い結果にはなりませんよ」

 蒼凌は軽く背後に視線を投げた。そこにいつの間にか現れていた人物は、深々と頭を下げる。

「申し訳ありません。今度こそ私の失態です」

「……詫びはいい」

 蒼凌は低く言った。

「無事に取り戻せ。絶対に」

「勿論です」

 その人物は頷いて、姿を消した。

 蒼凌は立ち上がり、窓の外を眺める。


 今、鴻宵は失えない。

 もしも、王がどうしても鴻宵を切り捨てると言うのなら。

 絶対に救いの手を差し伸べることを許さないと言うなら。


「……皓武」

 低く、既に亡き友人の名を呟く。

「俺は、お前のように潔くはなれそうもない」

 見下ろした掌に、兄の血の幻影を見た気がして、蒼凌は拳を握り締めた。


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