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水鏡五国志 [第二部 烈日之巻]  作者: 子志
章之伍 戦禍
87/115

戦う者、祈る者

 同じ頃、翠。

 仕事を粗方終え、帰宅のために執務室の片付けをしていた春覇と章軌は、不意に遠い悲鳴を聞いて手を止めた。

「今のは……」

 呟くと同時。

 春覇の帯飾りの一つが、音を立てて砕け散った。周囲の精霊達が一斉に泣き喚き始める。

「これ、は……」

 春覇は呆然と、砕けた媒体を見つめた。

「鴻宵……?」




 大事をとって眠っていた函朔は、唐突に目を開いた。

 体の傷は、そろそろ動けそうなほどに回復している。脱出の機を窺い始めた矢先のことである。

 眠りを醒ました異変の原因を探ろうとした函朔は、精霊が泣いている声を耳にした。一匹や二匹ではない。恐らくこの場にいる全ての精霊が、泣いている。


 全身の毛が粟立つ心地がした。

 こんな異常事態、一度しか経験したことがない。


「何だ?」

 相変わらず函朔の見張りをしていた漠埜が、急に険しい顔をした函朔を見て目を瞬かせ、次いで周囲を見渡す。

「精霊どもが泣いてんな。何かあったのか」

 函朔はその問いに、沈黙で応えた。

 漠埜が精霊を視認できていることは、驚くには当たらない。この場所で時を過ごした函朔は、彼が人間ではないことに薄々感付いていた。


 恐らくここは、狼の巣なのだ。

 それも、人に化けられる妖怪達の。


「おい」

 漠埜の質問に答えない代わりに、函朔は声を上げた。

「碧に何かあったとか、聞いてないか」

 以前に精霊達が泣き喚いたのは、鴻宵が函猛に捕らえられた時だ。だとすれば、今回も鴻宵の身に何かが起こった可能性が高い。

「碧?そういやぁ、昏と戦になったみたいだな」

 漠埜は気だるげに首の辺りを掻きながら言った。

「昏は絡嬰と束憐、碧が棟敏に鴻宵だったか」

「絡嬰に束憐」

 函朔は思わずその名を繰り返した。そもそも函朔がこんな場所で療養せざるを得ない原因を作ったのが、その二人なのである。

「それで、結果は」

「さぁな。まだ聞いてない。今日辺りぶつかるくらいじゃねぇか」

 漠埜はそう言って、瓶から水を汲んだ。彼は至って落ち着いているが、函朔の方は気が気ではない。

 何があった。鴻宵は無事なのか。

 函朔は寸時躊躇った。己の能力を、赤の他人もいいところの漠埜の前で晒してしまって良いものか、迷ったのである。

 しかし、すぐにその迷いは振り切られる。今はとにかく情報を得て、鴻宵の安否知ることこそ火急の用事だ。


 上体を起こした函朔は、剣を抱えて俯き、耳を澄ました。精霊の声のみを聞き取る彼にとっては、聴覚が全てである。

「教えろ」

 静かに、語りかける。

「何があった。あいつは無事なのか」

 漠埜が軽く目をみはる気配がしたが、無視する。むせび泣く精霊達の声の中から、辛うじていくつかの囁きを拾い出すことができた。

「まけたの」

「捕まった」

「怪我してる」

「北へ行くよ」

 昏の捕虜になった。あの鴻宵が。

 捕らえたのはあの二人に違いない。鴻宵を都へ連れていって、どうする気なのか。

「……連れ戻す」

 函朔は即断した。捕虜となった敵将を昏がどう扱うかはわからないが、これまでの昏のやり口からすれば、ろくな目に遭わされないだろうことは想像がつく。たとえ懐柔に出たとしても、鴻宵は決して屈しない。そうなると、危害を加えられる可能性は高い。

 函朔は立ち上がった。深傷を負った左肩はまだ痛むが、動くことはできる。

「行く気か?」

 漠埜が問う。意外なほど冷静な対応だった。

「ああ」

 函朔は頷いて、上着を身に付け、剣を腰に差した。

「世話になったな」

「……はいそうですか、と行かせてやる立場じゃねぇんだがな」

 溜息を吐いた漠埜は、やれやれと肩を竦めた。

「まぁ、お前はどうやら俺達の敵じゃあなさそうだ。やりあうのは割に合わん」

 そんな風に言って、何やら小さな袋を投げて寄越す。

「餞別だ。道中食料が必要だろう」

 中を見ると、干し肉である。

「……ありがとな。この借りはいずれまた」

 函朔はそう言って、戸口へ向かう。

「そうか」

 頷いた漠埜は、皮肉げに笑った。

「だったら借りを返すまで生きてて貰わねぇとな。あの四将軍相手に勝算はあんのか?」

 一度は敗れた相手なのだ。漠埜の言葉に、函朔は表情を引き締めた。

「……それでも、助ける。あいつだけは」

 呟くように言い残して。

 函朔は漠埜の前から姿を消した。


「……やれやれ。難儀なもんだよな、人間ってのは」

「あんたも人のこと言えないだろ」

 漠埜の呟きにそう返したのは恵玲である。例によって近くにいたらしく、いつの間にか戸口の柱に寄りかかっていた。

「いいのかい、行かせて。結局何者かわからなかったじゃないか」

「お前、あの目を見たろう」

 漠埜は苦笑混じりに言う。

「ありゃあ、本気だ。となれば、少なくとも俺達の敵にはならん。それで十分だろう」

 恵玲はふんと鼻を鳴らしただけだった。言い返さないということは、肯定の意の表れである。

「お前こそ、珍しく癇癪を起こさないんだな」

 そう言った漠埜を、恵玲は一瞬だけ睨んだ。しかしすぐに視線を外し、函朔の立ち去った方を見る。

「まぁ、悪い奴じゃなさそうだし……何かに必死になれる人間は、嫌いじゃないよ」

 その口調が普段より幾分柔らかいのに気づいて、漠埜はおや、と眉を上げた。嘗て彼の拾った赤ん坊は、いつの間にやら一端に誰かにこういう目を向けられる歳になったらしい。

 しかし、と二人の年齢を勘定して眉を寄せる。どう見てもこの二人、十ほどは年齢が離れているのだ。

「まぁ、もうちょい育ってからの話だな」

「はぁ?」

 怪訝そうな恵玲に何でもない、と誤魔化して、漠埜は函朔の使っていた寝床や桶を片付け始めた。




 碧の都、翠において、真っ先に正式な報せに接したのは、王族を含む一握りの高官達である。その中には無論、太子蒼凌と紀春覇も含まれていた。この二人はすぐさま鴻宵奪還の為昏と交渉を始めるよう説いたが、君主側の反応は鈍い。国の面子を脇に置いてこちらから返還交渉を持ちかけるほどの熱意を、鴻宵への感情を冷やしつつある碧王は持てずにいる。春覇は鴻氏邸に帰る間もなく根回しに奔走することになった。


 そして、もう一人。

 近頃政治向きのことに関心を見せ始めた公子詠翠もまた、彼らと相前後してこの報に接した。


「捕らわれた……?鴻宵が……」

 詠翠は呆然と呟く。敵の捕虜となった将がどうなるか、予断を許さない状況であることを、彼もわかっていた。

「太子と覇姫様は既に動き始められたようです。鴻将軍を奪還すべきであると」

 索興が、詠翠の為に集めてきた情報を付け加える。

「しかしながら、王の対応は冷淡です。出陣前のお言葉といい、鴻将軍をどこか疎んじておられるご様子で」

 忠実な従者がもたらしてくれる情報を聞きながら、詠翠は眉を寄せた。

 鴻宵は、碧になくてはならない臣下である。若く戦に強いのみでなく、良識をも兼ね備えている。そうした人材をこの乱世に求めるのは至難の業なのだ。それは未熟な詠翠にもよくわかった。

 以前に会った時のことを思い出す。詠翠が兄に道を譲ると言うと、鴻宵は辛そうな顔で、「生きようとしてください」と言った。残念ながらその言葉を無下にする道を自分は選ぶと決めてしまったが、あの優しさは今でも心の奥深くに息づいている。

 何か返せるならば、返したい。

 鴻宵は詠翠の狭かった世界を打破してくれた。詠翠にとってはかけがえのない師でもあり、友でもある。

「索興」

 詠翠は、決断を下した。

「私も王族の一員。国を左右する問題については意志を表明すべきだ」

 机にまっさらの紙を広げ、筆を手にとる。

「私は主張する――鴻宵を失ってはならない。ただちに奪還へ向かうべきだ」

 詠翠が書き終えた数通の文を懐に入れ、索興が出ていく。詠翠は僅かな間天を仰いだ。

「無事に帰れ、鴻将軍――」

 祈りは微かに風に漂い、緩やかに散っていった。


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