退き鉦、そして
開戦より、数刻。
棟敏は本陣から全体に目を配っていた。昏軍の左翼には中軍の将兵が当たり、右翼の進撃は鴻宵率いる一隊が食い止めている。昏軍右翼の先頭に立つ束憐と鴻宵の間では、息つく間もない攻防が繰り広げられていた。
砂塵の彼方に目を凝らす。
昏軍の本陣は、開戦から微動だにしていない。絡嬰の将旗が高々と翻っている場所は数刻前と寸分違わず、不気味なほどの静寂を保っていた。
――何故動かない。
棟敏は首を傾げた。
現在、互いの戦況はほぼ膠着状態である。それも、ほとんど総力をもって当たっている碧軍に対し、昏軍にはまだ余裕がある。本陣が動けば、戦況は有利に傾く筈だった。無論碧の方もそれを承知している。だからこそ、檄渓の一隊が警戒に当たっていた。たとえ絡嬰がその対策まで読みきっていたとしても、何もせず手を拱いているのは明らかに愚策である。あの絡嬰が、そんな策をとる筈がなかった。
――何か、待っているのか。
だとすれば。棟敏は左翼に目を向けた。束憐と鴻宵の一騎討ちに、未だ決着はつかない。
もしその決着を絡嬰が待っているのならば、こちらから動くしかない。長引けば恐らく、鴻宵の方が不利である。
何しろ鴻宵は武人としては例外的なほど小柄で細身の男だ。体力勝負で束憐に勝るとは思えない。
「檄氏に伝令を」
棟敏は指示を出し、檄渓に昏軍本陣への攻撃を命じた。
凄まじい風圧を伴って襲い来る巨大な刃を、ひたすらにかわし、或いは受け流す。まともに受けようものなら、武器を叩き折られるだろうことは明白だった。
一般に、こういう力勝負の相手は武器の重さに引きずられて隙が大きくなる傾向がある。その隙を衝くのが定石だが、束憐の場合なかなかその間合いに踏み込ませてくれない。
武器は重いが、それを素早く扱うだけの力も持ち合わせているのだ。
「くっ……」
またもや、懐に入り込む前に斬りつけられる。それを流して一歩退いた私の眼前に、再び刃が迫った。
「っ……!」
身を反らし、何とか避ける。残雪が心得て下がってくれたのも大きな助けになった。
更に斬撃がくる。私はとっさに矛を立て刃を防いだ。まともに組み合ってしまったことに、舌打ちが漏れそうになる。
「やるじゃねぇか」
にや、と笑った束憐が、私の防御を押しきろうと力を籠め始めた。純粋な腕力の勝負には到底勝てず、私の腕が震える。加えて、矛の柄から、軋むような嫌な音がした。
折れる。
「ちっ」
私は咄嗟に、間近に居た束憐の馬を蹴った。馬が驚いて暴れ、一瞬束憐の注意が逸れた隙に後退する。即座に繰り出された斬撃により、ついに矛の柄が砕かれた。
「……っの、馬鹿力が」
思わず悪態を吐く。束憐は器用に手綱を捌いて再びこちらに向かってきた。
「将軍!」
背後から漣瑛の声がする。振り向くと同時、新しい矛が飛んできた。
刺さったらどうする、なんて茶化す暇はない。
飛んできた矛の柄を掴んだ私は、体勢を立て直した束憐の一撃を間一髪で防いだ。ごく近くにある赤銅の隻眼が、感心したように丸くなる。
「良い部下持ってんな」
「まぁな」
切迫した状況下で交わされる、軽口めいた会話。矛を傾けて大剣を受け流し、足を掛けて何とか押さえ込む。左手で鞘ごと抜いた剣で、束憐の首筋を強かに撃った。
「……っ、てぇな!」
瞬時に押さえ込んでいた刃を跳ね上げられ、互いに距離を取る。束憐は撃たれた場所に手を当てて首を回した。
「痛ぇ」
私は黙って剣を腰に戻す。あれで「痛い」で済むなんて、どれだけ丈夫なんだ。普通なら確実に昏倒する一撃だった筈だ。
「ったく」
不満げに頭を振った束憐が、剣呑に目を細める。
「つくづく物騒な女だ」
……今、何て言った?
問い返す間も無く、繰り出される攻撃をかわし、受け流す。
じわりと背筋を冷やす不安に、今は気づかないふりをした。
棟敏の指示を受け昏の本陣に攻撃をかけた檄渓は、思いの外頑強な抵抗に遭っていた。守りが堅固で、なかなか抜けない。
しかし檄渓の隊としのぎを削っているにも関わらず、絡嬰の将旗は全く動かなかった。
「妙だ」
呟いた檄渓は、眼前の戦いを注意深く眺めた。
昏軍本陣は、猛攻をかける碧軍に対し堅実な守りを見せている。その戦法には詐術も駆け引きも無く、いっそ愚直なまでの守り方だ。
明らかに、絡嬰らしくない。
まるで、とにかくこの場を守れとでも言いつけられているかのような――。
そう考えた檄渓の背筋が冷えた。留まったままの将旗に目を向ける。
旗はある。
しかしもし、あれが目眩ましだとしたら。
もしも旗を目眩ましに本人が別の場所で動いているとしたら、その狙いは――。
「退け!至急棟氏に報せを!」
檄渓は直感を信じた。即座に攻撃中止を命じ、棟敏に使いを出す。
「急いで退き鉦を撃つんだ!この戦の狙いは……!」
何合目かの撃ち合いで、矛の刃が欠ける。構わず、私は石突きを束憐の懐に叩き込んだ。
「ちっ……」
束憐が舌打ちをして武器を振るう。私は大きく後ずさった。
どうやら、この束憐という男は、伊達に馬鹿力なわけではないらしい。相当に丈夫な身体をしているらしく、さっきから何度か攻撃は入っているのに効いている気がしない。
嫌な相手だ。
特に、私にとっては。
私が内心舌打ちをして矛を構え直した時、鉦の音が耳に届いた。退却を命じる鉦だ。何かあったのだろうか。
私は追い縋ってくる束憐の刃をかわし、機を見て矛を投げつけた。一瞬できた隙を衝き、全力で駆け出す。束憐の性格からして、ただで逃がしてくれるとは思えない。捕まる前に逃げ切ってしまうほかない。
残雪なら、いける筈だ。
そう考えて馬を走らせた。眼前を阻む兵士達は、心得た部下達が先んじて蹴散らし、道を開いてくれる。
その部下達の隊列が、不意に崩れた。
「あ……」
思わず、声が漏れる。柔らかな羽毛が鋭い刃に触れたかのように、騎馬隊が切り裂かれた。
その刃の先端から、まっすぐこちらに駆けてくる、一騎。
「将軍!」
誰かが叫んだ。漣瑛だったかも知れない。
私は辛うじて対処した。咄嗟に剣を抜き、身に迫った戟を防ぐ。
戟の柄を握る相手の顔を見た瞬間、背中に冷水を浴びせられた心地がした。
「――逃がすと思っているのか?」
絡嬰。
何故、ここに。
一瞬そう考えてしまったことこそ、私の隙だった。絡嬰に剣を押さえ込まれ、身動きがとれなくなる。
そして、背後に迫る馬蹄の音。
振り向いた時には、巨大な刃が振りかぶられていた。
「貰った!!」
防ぐ。
駄目だ、動けない。
避ける。
無理だ、この距離では。
間に合わない――
反射的に僅かに頭を下げた瞬間、全てが真っ白に染まり、次いで闇へと堕ちていった。
金属の衝突する音が、やけに大きく響いた。
一瞬で戦場が静寂に落ちたような、そんな感覚が漣瑛を包み込む。
呆然と見開かれた彼の目は自然、中空に舞い上がった小さな塊の影を追った。
それは、見慣れた金属の塊。身分の割に質素で、普通よりも小さな、兜だ。
見慣れた筈のそれは、見る影もなく歪んでいて。
漣瑛の視界の底で、小柄な影が馬上から落ち、地面を転がった。
「――将軍!!」
自分の叫び声とともに、戦場の喧騒が一斉に戻ってきた。
束憐の振り切った刃は、鴻宵の頭部を薙ぎ払った。衝撃で兜が弾き飛ばされ、鴻宵が落馬する。小柄な体躯が地面に激突して数回転がったのを見、絡嬰はひらりと馬から降りた。呆然としている周囲の兵士達を後目に、その襟首を掴んで持ち上げる。重力に従って下がった頭から、ぼたぼたと血が滴った。
「生きているな」
そう呟いて、束憐を顧みる。彼は何やら不満げに武器を持つ手を振っていた。
「……素っ首撥ね飛ばしてやろうと思ったのによ」
確実に命中させた筈の攻撃を僅かとはいえ外されたことが不服らしい。絡嬰はくだらない、というように鼻を鳴らした。
「生きている方が利用価値はある。それより、とっとと退くぞ」
ぐったりとした鴻宵を兵士に渡し手当てを命じると、絡嬰は踵を返した。
「この戦の目的は、達した」
再び馬に跨がると、退却を命じる。しかし退き鉦が打たれるより早く、単騎突進してきた者が居た。
「将軍を返せ!」
漣瑛である。彼の振るった矛をかわした絡嬰は、ただ一言口にした。
「束憐」
一瞬で、束憐が絡嬰の前に出る。漣瑛の矛は束憐の武器に防がれた。
「悪いな」
矛が弾かれる。再び撃ちかかろうとした漣瑛の胴を、衝撃が襲った。
「ぐ……っ」
鎧の胴金が軋む。明らかに、何かが割れる音がした。
その攻撃が柄によるものだったのは、同情か偶然か。しかしいずれにせよ、それは漣瑛の行動力を奪うには充分だった。漣瑛の手から、矛が落ちる。
それでも、漣瑛は手を伸ばした。昏兵に運ばれて行く主君に向かって。
その姿勢のまま、落馬した。
「将……軍……」
呼吸がままならない。力の入らない身体を引き摺って、なおも昏軍に向かって行こうとする。
そんな彼の頭上を。
一騎の碧兵が跳び越えた。
火花が散る。
束憐が翳した刃と騎兵の剣が、激突し噛み合っていた。
「返してもらうよ」
束憐と睨み合う瞳は、澄んだ紫。兜の下には白銀の髪が翻っている。
「それは、俺の主だ」
その騎兵――すなわち檄渓は、低い声でそう告げると鋭い斬撃を繰り出した。束憐の表情に、何やら動揺が走る。
「ちっ……絡嬰!」
呼ばれた絡嬰は一瞬怪訝そうな顔をしたが、すぐに騎兵を一隊、檄渓に差し向けた。それを機に、束憐が馬を退く。
「……引き上げだ」
騎兵に追撃を押さえさせ、速やかに帰路に就いた。目的を達した以上、長居は無用である。
「都に使いを出せ」
そう命じて、絡嬰は小さく笑った。
「碧将鴻宵を生け捕ったとな」
昏軍から歓声があがる。
この戦、総合的に見て碧軍の損害は大きくはなかった。しかし、彼らの胸中に去来したのは、一様に「完敗」の二文字であった。




