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水鏡五国志 [第二部 烈日之巻]  作者: 子志
章之伍 戦禍
84/115

風雲

 北の国境が、何だかきな臭い。

 誰もがそれを感じつつ、下手に動いて昏に開戦の口実を与えないように息を潜めている、そんな雰囲気が、今の朝廷にはあった。

 緊張感を内に秘めたまま、普段通りに朝会が進められてゆく。

 この日も、そうして過ぎていくものと思われた。


 それを打ち破ったのは、棟将軍だった。勿論あの人自身はまだ西の地に居るから、直接に朝会で言を挙げたのは棟将軍の佐将で棟家当主代理でもある棟敏(とうびん)、すなわち棟将軍の弟だ。

「兄より緊急の報せが参りました」

 彼がそう口にすると、一同に緊張が走る。

 他ならぬ棟将軍からの急報。それが重要な意味を持つものでない筈がないと、誰もが認識していた。

「兄が密かに探らせたところ、どうやら昏軍が極秘裡に都を発したらしき形跡があると」

 ざわり、と群臣達が揺れた。私も背筋が強張るのを感じる。

 ついに、来た。

「すぐに迎撃を」

「しかし下手に動けば付け入る口実を与えることに……」

 そこここで議論が始まる。それを制するように、棟敏は声量を上げた。

「兄から王へ、提案を記した書状がございます」

 その言葉とともに差し出された書状に、堂上の注目が集まる。

「これへ」

 王が短く命じると、侍臣がさっと進み出て棟敏から書状を受け取る。通常なら王の代わりに太子が前に出て侍臣と王の間を仲介するのだが、王は動こうとした蒼凌を手で制した。

「読み上げよ」

 簡潔な命が下される。侍臣は一礼して群臣の方へ向き直ると、書状を紐解いた。

「一つ、右軍に迎撃に備えしむること」

 静まり返った堂内に、侍臣の声が響く。

「一つ、中軍の佐、棟敏以下の将士を右軍に委ぬること」

 私ははっとした。周囲に密やかなざわめきが起こる。

 昏軍の迎撃は、右軍の兵力だけでは荷が重い。その対策として、自分の部下達を私の手に委ねると、そう言っているのだ、棟将軍は。この案が実行されれば、私は事実上二軍分の兵力を掌握することになる。

「一つ、左軍には昏のいかなる動きにも対応すべく都を固く守らしむること」

 叙寧がぴくりと反応する。年功の上でも朝廷の順位でも棟将軍を立ててはいるが、叙氏はそもそも棟氏と肩を並べる勢力を持つ。棟将軍の指図に従うことはあまり愉快でないのだろうと想像がついた。しかし叙寧も現在の国情を考慮できないほど馬鹿ではない。黙って棟将軍の献策を聞いている。

「一つ、遊軍には橙に備えしむること」

 春覇と角容の遊軍は、今回は留守居ということらしい。これまで私の率いる右軍は遊軍と連携することが比較的多かったが、当然こうして別行動をとることもある。

 橙、特に黎翡の動向に注意しなければならないとなると、やはり春覇が最適だろうし。

「……以上です。王の御裁可を仰ぎます」

 棟敏が王座に頭を下げ、席に着く。そこここで、小声の議論が始まった。王がすっと手を挙げる。

「静粛に」

 蒼凌のよく通る声が響いた。囁き声が途絶え、堂上が静まり返る。

 物音一つしなくなった空間で、王が徐に口を開いた。

「棟敏」

「はっ」

 棟敏が頭を下げる。王の視線がその後頭部を刺した。

「中軍を右軍の将に委ねると申したか」

「はっ」

「――ならぬ。鴻宵の権が大きくなり過ぎる」

 堂内に、無言の震撼が走った。


 王はこれまで、こんな風にはっきりと卿の意見に反対したことはない。しかも今回の発言は、王が私を警戒していると公言したに等しい。

 じわり、と背中に冷たい汗が滲んだ。


「しかし、中軍の将である兄は現在動けませんし、右軍のみでは兵力が不足します」

 棟敏が、やや躊躇いがちながら反論する。王の右手がゆっくりと持ち上げられ、棟敏を指差した。

「棟凱は我が国に功多き歴戦の名将、その麾下にある中軍は我が軍の骨髄である。骨髄が手足に従う道理は無い」

 視界の端に、叙寧の拳が握り締められるのが映った。王は左右両軍を手足扱いしたのだ。一理あるとわかっていても、自尊心の強い叙寧にとっては耳に快い話ではないのだろう。私はそっと叙寧の膝を叩き、目配せした。ここで不快げな様子を見せるのは良くない。私の合図に小さく頷いて、叙寧は拳を解いた。

「棟凱が手を放せぬならば、佐の棟敏が中軍の指揮を代行せよ。右軍は飽くまで中軍の補翼とする」

 高官が、ひっそりと困惑を滲ませた顔を見合わせる。つまり王は棟将軍の提案とは逆に、棟敏に中軍並びに私を含む右軍の指揮権を与えようとしているわけだが、今の体制からして、佐将である棟敏は右軍を預かる私より一段身分が低い。自ら大軍を率いた経験も無い筈だった。

「王よ」

 誰よりも困惑を露にした棟敏が訴える。

「私に大軍の指揮など荷が重すぎます。せめて右軍と対等に……」

「ならぬ」

「父上」

 ついに、蒼凌が口を出した。

「棟将軍は昏軍を警戒しているが故に、若くとも軍事経験の豊富な鴻将軍に軍を預けることを提案したのでしょう。昏がどう出るか未だ読めません。我が軍に必要なのは臨機応変の身軽さでありましょう」

「黙れ」

 王が一喝する。思わず私は叙寧と顔を見合わせた。この王がこんなに感情的になるのは珍しい。

 嫌でも、蒼凌の危険が増していることを感じ取らざるを得ない。

「軍事はそなたの職分ではない。口を出すな」

 蒼凌は一瞬眉を寄せたようだったが、何も言わずに目礼して引き下がった。

「鴻宵」

 戸惑いを含んで静まり返った堂上に、王の声が響く。

「右軍を率い棟敏の指示に従うがよい」

「はっ」

 私は承諾した。するしかなかった。

「棟敏」

「はっ」

「右軍の将が従わぬ時は斬れ。許可する」

 今度こそ、群臣達はどよめいた。私は言葉もなく王を見詰める。


 従わぬ時は斬れ――まるで、私を信用ならない者とでも思っているかのような。


「中軍と右軍は準備が整い次第北境へ向かえ。左軍は都に留まり、昏の奇策に備えよ。遊軍は橙から目を離さぬように。以上だ」

 王はきっぱりと言い切って席を立った。蒼凌が一瞬こちらに視線を投げてからそれに続く。

 半ば呆然としたままの私に、棟敏が駆け寄ってきた。

「こんな馬鹿なことがあるものか」

 彼の第一声はそんな言葉だった。

「鴻将軍、信じてくだされ。わしも兄も、断じて将軍を部下の如く扱おうなどとは……」

「ええ、わかっております」

 私は頷いて、棟敏の肩を叩いた。

「何はともあれ、まず棟将軍にお知らせしなければ。今日の朝会の様子、できるだけ詳しく正確にお伝えいただきたい」

「無論です」

 棟敏は頷いて、慌ただしく退出した。私は額に手を当て、小さく溜息を吐く。

 指揮権の問題が生じたとはいえ、棟敏なら私と一緒に出陣したこともあるし、戦場の呼吸も心得ている。何とかなるだろう。今はそれより、昏軍がどう動くかだ。

「この大事な時に、本国がこの有り様とは……」

 難しい戦になりそうだ。




 宗伯府で通常の職務をこなしてから将軍府に寄って棟敏や檄渓と打ち合わせをした私は、夕刻に自宅に戻った。

 近いうちに出陣することになる。家の中のことを粗方片付けて、後のことは春覇と家臣達に頼まなければ。

「鴻宵」

 帰宅すると、真っ先に春覇が声を掛けてきた。

「厄介なことになりそうだな」

 私は頷いて、また溜息を吐いた。



 家で処理しておく事柄はそう多くない。私の急な出陣はいつものことなので家臣達も慣れているし、今は春覇が大抵のことは引き受けてくれる。

 大方の仕事を終えた私が漣瑛に手伝って貰って自室の整理をしていると、誰かが扉を叩いた。

「衙楠です」

 珍しい。来客だろうか。

「入れ」

「失礼します」

 扉を開けた衙楠は、私に一礼してから漣瑛に顔を向けた。

「お客です。漣瑛殿に」

「私に?」

 漣瑛が困惑顔をこちらに向けてきたので、頷いてみせる。

「行ってこい。作業は大体終わった。ありがとう」

 私が言うと、漣瑛は首を傾げながら出ていった。来客の心当たりが無いのだろう。

 私は最後の一束になった書類を揃え、居間へ向かった。



 衙楠の報せを受けて門へ向かった漣瑛は、門を開けてそこにいる人物を目にした瞬間、黙って門を閉めた。

 否、閉めようとした。

「ちょっと、待てよ瑛!閉めることないだろ!」

 門の前にいた男が、門扉の間に足を挟み込み、閉め出されるのを阻止している。悪質な押し売り商人さながらの行動である。

「どちら様でしょう。お引き取り願います」

 漣瑛は冷たくそう言うと、門扉を止めている男の足先を容赦なく蹴り出そうとする。

「酷いじゃないか、瑛。兄ちゃんに向かって」

「衙桐殿、その男を摘まみ出してください」

「え、え?あ……」

 哀れなのは巻き込まれた衙桐である。門の外で番をしていた彼は、漣瑛の指示に従って客人を追い返すべきか、はたまたどうやら漣瑛の兄であるらしいこの男を通すべきなのか、混乱している。

 状況が混迷の一途を辿りかけた時、呆れたような声がその場に響いた。

「……何をやってるんだ、お前達は」

 邸の主の登場であった。



 一通りの準備を終えて少し居間で寛ごうとしていた私は、何だか門の方が騒がしいのに気づいて首を傾げた。

 何かあったのだろうか。

 でもまぁ、緊急事態なら誰かが知らせてくるだろうし、とのんびり構えてみる。この邸では、少々の騒ぎを一々気にしていては身がもたないのだ。

 しかし残念なことに、今邸に居るのは私のような暢気者ばかりではなかった。

「何事ですの?騒々しいですわね」

 低く言ったのは黎翡だ。はっとして目を向けると、腕を組んで大層不機嫌な様子。

「……見てくるよ」

 黎翡の不機嫌は怖い。

 私はそそくさと席を立ち、門へ向かった。


 そこで目にしたのは、門を挟んだ兄弟喧嘩と、巻き込まれておろおろする衙の兄弟。思わず溜息が出る。

「……何をやってるんだ、お前達は」

 声をかけると、一斉に四人の視線がこちらに集まった。衙の兄弟の救世主を見るような視線。漣瑛のしまったというような視線。そして。

「将軍さんじゃないか。やっほー!」

「やっほーじゃない!」

 ついに漣瑛の蹴りが兄の腹に命中する。呻き声をあげて蹲った隙に門を閉めようとするが、敵もさるもの。咄嗟に腰に提げていた瓢を門の間に挟んだ。

「痛いじゃないか、瑛!親父には蹴られたことないのに!」

「母さんと姉さんと弟達にはいつも蹴られてるだろ」

「その通り!」

「死ね!」

 この兄弟喧嘩は、放っておくと際限無く続きそうだ。私は傍でおろおろしている衙楠の肩を叩いた。

「入れてやれ」

「将軍!」

 すぐさま漣瑛から抗議の声が飛んでくる。私はその後頭部を軽くどついた。

「いつまでも門のところで騒がれても迷惑だ。それにそう邪険にすることもないだろう。何か用があって来たんだろうし」

 私が言うと、漣瑛は渋々門を押さえていた手を離した。

「やぁ、どうも」

 にこにこと笑いながら、漣瑛の兄――漣璋が敷地に入ってくる。胡乱げな表情を崩さないまま、漣瑛が漣璋の脇をつついた。

「で?一体何の用件なんだ」

「用件?いや、特に無い」

 漣璋がそう言い放った瞬間、漣瑛の蹴りがその脇腹にめり込んだ。

 近来稀に見る、良い蹴りだった。


 漣瑛に蹴り倒された漣璋をとりあえず客間に収容させ、私は居間に戻った。まだ頭から湯気を出している漣瑛を宥めてお茶を飲ませる。生真面目な漣瑛は、飲んだくれの駄目兄貴に対しては容赦無い。しかしあの説教も鉄拳も、愛情あればこそのものだ……と思う。たぶん。

 何とか落ち着いた漣瑛は、憂さ晴らしなのか何なのか、範蔵と一緒に子ども達に剣の稽古をつけに行った。

「結局、何事でしたの?」

 黎翡の問いに、私は苦笑混じりに答えた。

「急に兄が訪ねてきたものだから、漣瑛が照れて反抗してたんだ」

「照れてません!」

 庭からの声。聞こえてたのか。案外地獄耳だな、漣瑛。

「相変わらず愉快な邸ですこと」

「……褒め言葉と受け取っておくよ」

 皮肉っぽい黎翡の言葉にそう答えて、私は立ち上がった。

「あら、もう戻るんですの?」

「うん。少し休憩に来ただけだから」

 本来は、出陣前の貴重なひと時をゆっくり過ごすつもりで居間に来たのだけれど。

 あの漣璋がわざわざ訪ねてきて、しかも漣瑛に特に用事が無いのなら、多分私に用があるのだろうから。


 部屋に戻って、書物を広げる。

 私は以前、一度だけ漣瑛の生家に立ち寄ったことがある。碧領の西部、坑郊という場所にあるその家は、両親に息子が六人、娘が二人という大家族だった。因みに漣瑛は次男で、兄が一人、姉が一人いる。その兄が漣璋だった。

 漣璋という男は、生真面目な漣瑛の兄とは俄に信じがたい、駄目男の典型のような人物だ。常に飲んだくれ、女に弱く、定職をもたず家にもなかなか帰らない。


 けれどもそれは、彼が家族に見せている一面でしかない。


 書物に目を通していた私の上に、ふっと影がさした。私は書物を置き、背後を見上げる。

「やはり私に用か」

「そうでなきゃわざわざこんな場所には来ないよ。瑛に蹴られると痛いし」

 はは、と笑うのは言うまでもなく漣璋だ。うちの家臣達に気づかれずに客間を抜け出してここまで来られるのだから、勿論ただの駄目男ではない。

「庵氏から何か?」

「そういうこと。正確には末の旦那からだ」

 相変わらず笑いながら軽く言った漣璋はしかし、次の瞬間表情を引き締めた。真剣な顔で、口を開く。

「函朔のことだよ」


 心臓が、跳ねた。

 朗報か、凶報か。

 報告が来るということは、白か黒か、希望か絶望か、はっきりしたということだ。私は固唾を飲んでその審判を待った。


 数秒、漣璋と見つめ合う形になる。

 緊張する私の前で、その目容がふっと緩んだ。


「生きてるよ、あいつ」

 生きてるよ。

 その五文字が私の中に溶け込み、実感としてわき上がるまで、数瞬を要した。

「生きて、る……」

 ようやくその言葉が心に染み込んだ時、私はほうっと息を吐いた。


 生きていた。生きていてくれた。


「そうか、良かった……今、何処に?」

 私が当然の問いを発すると、漣璋は首を振った。

「それは言えない。言わないと決めたからな。でも、確かに生きているよ。そのうち帰ってくる。約束したからね」

「……そう、か」

 何故教えてくれないのか、と詰りたい気持ちもある。けれども、実際問題、それを知ったところで私には何も出来ない。今は微妙な時期なのだ。下手に動けば、痛くもない腹を探られる羽目にもなりかねない。

「わかった。何かあれば、知らせてくれ」

「はいよ」

 漣璋はにこりと笑って扉に向かった。

「そうそう、忘れるところだった」

 出ていく前にこちらを振り返り、付け加える。

「末の旦那が暴言を詫びてたよ。あの人も悪気は無いんだ。ただ、ちょっと情に篤すぎるだけでね」

 私は目を瞬かせた。私自身、庵識の言ったことが間違っているとは思わなかったので、正直、こちらの方が申し訳なく思っていたくらいだ。小さく苦笑して、言葉を返す。

「気にしていないよ。律儀だな、末の旦那は」

「ま、それがあの人の良いところさ」

 軽く肩を竦めて、漣璋は私の部屋を後にした。



 漣璋はそれから暫く漣瑛にちょっかいをかけていたようだが、報告があるからと日が暮れる前には帰っていった。

「まったく……何しに来たんでしょうね、あの人は」

 漣瑛がどこか疲れた表情で呟く。私は何も言わずに少しだけ笑った。


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