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水鏡五国志 [第二部 烈日之巻]  作者: 子志
章之肆 奇縁錯綜
82/115

花と剣

 将軍府を出た私は、少し躊躇ってから東宮へ足を向けた。

 万一このまま蒼凌と詠翠が対立するような事態になれば、詠翠はかなり危うくなる。

 蒼凌に会って、詠翠の現状を伝えておきたかった。


 思えばそれは、一種の甘えだったのかも知れない。

 詠翠を死なせないと、そう一言、蒼凌に言って欲しかったんだ。


 東宮の門前に立ち来訪を告げると、すぐに雪鴛が出てきた。

「太子は今王宮の方におられます」

「……従者も連れずにか?」

 思わずそう聞き返した私は間違ってはいない筈だ。太子が出歩いているのに従者の雪鴛が東宮に留まっているのはおかしい。

 しかし雪鴛は事も無げにあっさりと答えた。

「今は別の者が随行しております。私はこちらで片付けなければならない仕事がありまして」

 そういう事か。

「お帰りは……」

 私が問いかけると、雪鴛は曖昧に笑って頭を下げる。

 帰りがわからないということか?あの表向き品行方正な太子が、一体どうしたのだろう。

「お急ぎのご用でしたら、ご案内致します。私もちょうど太子にお伺いしなければならない事が」

「急ぎというわけではないが……」

 ある意味、緊急性は高い。それにどのみち雪鴛も行くというのなら、同行するのが手っ取り早い。

「ついでがあるなら、頼む」

「畏まりました。では持って行く物がございますので、申し訳ありませんがこれにて暫しお待ちください」

 そう言って小走りに駆け戻っていった雪鴛がやがて手にして来たものを見て、私は眉を寄せた。

「書類……?まさか太子の御決裁なさるものか」

「ええ、まぁ……」

 気まずげに頷いた雪鴛は、はっとしたように私を見上げた。

「いえ、誤解なさらないでください。太子が執務を放棄しておられるわけではないのです」

「……では、どういうわけだ」

 私だって、蒼凌がわけもなく執務を放り出すような人間だとは思っていない。けれども今現実に雪鴛が仕事を代行しているらしいのを見れば、不審に思わざるを得ない。

「それは、お時間が……」

 目を伏せた雪鴛は、皆まで言わずに歩き出した。

「現状をご覧になればおわかりいただけると思います」

 私は首を傾げながら雪鴛の背中を追う。東宮を出た雪鴛は王宮の傍らにある庭園へ向かった。


 庭園には木々と草花が程よく茂り、この国の気候の良さを感じさせる。柔らかく降り注ぐ日光を木の葉が遮って細かく砕き、そこここに点在するあずまやに投げ掛けていた。広大な土地というわけではないのに広く感じられるのは、造りの巧みさ故か。


 その美しい光景の向こうから、誰かの声が聞こえる。

 この庭園に似つかわしい、明るく透き通った声だった。

「まぁ、綺麗な花。ねぇ、ご覧になって」

 何故だか、胸が騒いだ。


 雪鴛を追って足を進めるうちにその声は次第に近づいてくる。

 もう、そのあずまやの向こうに。


「私、この庭園がとても気に入りましたわ」

 雪鴛が、あずまやの角で立ち止まってこちらを振り返る。ゆっくりと頭を下げる彼の仕草で、目的地に到着したことを知る。

 一歩、踏み出す。

 あずまやの角から出る。

 開けた視界に、人影が二つ。

「――それはよかった」

 明るい女性の声に答える低い声。


 私の足は、そこから動かなくなった。


 庭園の中の小道に立つ蒼凌。そのすぐ傍らに寄り添うようにして花を愛でている、牧燕玉。

 屈託なく笑う燕玉に、微笑を崩さない蒼凌。


 何か見てはいけないものを見てしまったかのような感覚がわき上がって、私は足音を立てずに後退した。訝しげに見てくる雪鴛に気づいて、無理矢理平静な表情を作る。

 何だか急に胸の中に空洞ができたようだ。

「……私は退散しよう」

「将軍?」

 目を瞬かせる雪鴛に、いたずらっぽく笑って見せる。

 うまく、笑えただろうか?

「どうやら無粋な話でお邪魔をしない方が良いようだ。お前の用は急ぎだろうから行くといい。私はまた日を改めて伺うよ」

 困惑気味に引き留めようとする雪鴛に背を向け、足早に歩き出す。


 わかっていた。私では隣に立てない事くらい。

 それでも、突きつけられた光景は私の心に風穴を開けた。


「将軍?」

 ここまで黙ってついてきていた漣瑛も、さすがに不審に思ったのか声を掛けてくる。

「帰るぞ」

 私は短く断言して、歩みを速めた。

 燕玉の明るい笑い声がどこまでも追いかけてくるようで、胸が詰まる。


 私は、あんな風に笑えない。




 唐突に袂を翻して立ち去ってしまった鴻宵をぽかんとしたまま見送った雪鴛は、やがて溜息を吐いて前へ向き直った。

「幻滅、かな」

 鴻宵の態度をそう推測して、憂鬱げに首を振る。

「何しろ端から見れば、仕事を放り出して女と仲良くしているわけだし」

 呟いてあずまやの向こうに目を戻した雪鴛は失笑した。

「実のところ、今あの人絶好調に不機嫌なんだけど。外面が良いと大変というか」

 呆れ半分に笑いながら、持っていた書類を整える。

「さて、そろそろ仕事に戻して差し上げましょうか。あの人の忍耐が切れないうちに」

 瞬き一つで笑いを収めた雪鴛は、あずまやの角から出て、二人に近づいて行く。

 先に気づいた蒼凌が、ちらりと笑みを見せる。

 遅い、という顔。

 遅れて気づいた燕玉が、一瞬冷めた目をしたような気がした。

「お話し中失礼致します」

「構わないよ。仕事だろう」

 にこやかに答えながら、蒼凌がさりげなく燕玉から離れる。

「さすがにもう戻らなければならないな」

 書類を確かめながら言った蒼凌の言葉に、燕玉が反応する。

「もうですの?お忙しいんですのね」

「私の立場も、こう見えて色々細々とした業務があってね」

 表面上にこやかに答えて、蒼凌は控えていた従者を呼んだ。

「離宮まで送らせよう」

「仕方ありませんわね……また参りますわ」

 にっこりと花の咲くような笑顔を浮かべて、燕玉は立ち去っていく。

 後には蒼凌と雪鴛だけが残った。

「……毎日ご熱心ですね」

 雪鴛の言葉に、蒼凌は溜息を吐いた。

「困ったことにな」

 書類を手に歩き出そうとする。

「困ったことならば、もう一つ」

 蒼凌の後ろについて歩きながら、雪鴛は口を開いた。

「執務を放り出して橙の和姫様と仲良くしておられるとなると、太子の人望が」

「仕方がないだろう。下手に機嫌を損ねて橙と拗れればややこしいことになる」

 既にまともな軍事力は発揮できないとはいえ、橙は一つの国家である。昏との駆け引きに集中したい碧としては、極力おとなしくさせておきたい。

「無論それはわかっておりますが……鴻将軍が」

「鴻将軍?」

 蒼凌が勢いよく振り向いたので、雪鴛は内心おや、と驚いた。基本的に冷静さを失わない質の蒼凌がこんな反応を見せるのは珍しい。

「何やら太子にご用の様子でしたが、邪魔せぬ方が良さそうだと帰って行かれました」

「何故引き留めなかった」

 どうやら蒼凌は少しばかり焦っているようですらある。その態度に、鴻宵を敵に回すと立場上厄介だという以上のものがあるように思えて、雪鴛は興味を覚えた。

 しかし表面上は淡々と質問に答える。

「引き留める間もなく足早に帰ってしまわれましたので」

 思えば、鴻宵の様子も少しおかしかった。幻滅して不機嫌というよりは、やや寂しそうに見えた気がする。

「……次は引き留めなさい」

 言葉少なに言って、蒼凌は歩き出した。雪鴛もその後ろに従う。

 庭園の草花を揺らした風が、池の水面に細波を立てた。

 晴れ渡っていた空に、雲が過る。

 何だか嫌な風だ、と思いながら、雪鴛は足早に主君を追った。




 邸に帰った私は、居間にいる気になれずに自室に戻ってくたっと寝台に身を預けた。

 蒼凌と、燕玉。一幅の絵のような美しい光景が、頭から離れない。


 綺麗だった。

 蒼凌の傍らで笑う燕玉は、正しく花のような人だった。

 ある意味、初めて所謂お姫様らしいお姫様を見た気がする。春覇や黎翡だって紛れもないお姫様だけれど、彼女らは花より実をとる人々で、性格も振る舞いも比較的私と近い。

 でも燕玉は違う。

 彼女を見た時、女性としての自分にはどこか欠けているものがあるのではないかと思わざるを得なかった。自分のあり方を悔いてはいないけれど、一抹の寂しさは感じる。

 蒼凌の隣に相応しいのは、ああいう人なんじゃないか、と思う。

 私は彼と共に戦うことは出来るけれど、そのあり方は飽くまで戦友だ。その心を優しく癒して支えられる人が、伴侶としては相応しいのではないか。


 手を目の前にかざしてみる。剣を執り戦を繰り返した手には豆と傷が目立ち、女性的な美しさには遠い。

 きっと燕玉の手にはこんな豆も傷も無いんだろう。


 それに、もっと現実的な問題もある。

 橙は事実上碧の支配下に入ったとはいえ一つの国家だ。その王家となれば、国内の貴族よりも後ろ楯として強力なのは間違いない。しかも両国の王家が結び付けば碧にとって橙を統治しやすくなるという利点もある。

 要するに、蒼凌にとって牧燕玉と結婚する事は決して悪い話ではないのだ。

 牧燕玉には婚約者が居るけれども、今日見た限りでは蒼凌にかなり好意的なようだったし。

「だから……」

 これでいいんだ、と口にしようとする。

 けれども、出来なかった。舌が凍りついたように固まって、その言葉を拒む。

 口にするのが怖かった。逃れようの無い現実を突きつけられる気がして。

 かざしていた手を、ぱたりと目元に落とす。

「こんな事で迷っている場合じゃないのに……」

 何とかして、詠翠を助けてやりたい。その為に私は強く在らねばならないのに。

 蒼凌に甘えるわけにもいかないんだ。

「いっそ、詠翠側の勢力を徹底的に削いでしまえれば……」

 争う力さえ無くなれば、却って安全に生きられるかも知れない。私は脳裏に碧の重臣達の勢力図を描いた。

「まずは絽宙、涯仇か……大半はまだ様子見の中立。太子側は春覇に私、それから多分棟将軍も」

 至氏はまず中立から動かないだろう。あとは叙氏と荏氏を何とかあちらに付かせないようにしつつ、王の近臣達の力を削げれば一番良い。どうにも難しい事ではあるが。

「……やらないと。私が助けないと」

 私は奥歯を噛み締め、拳を固く握った。己に無理難題を課すことで、庭園の光景を努めて意識の外に追い出そうとする。

 すぐにそんな悩みを抱えている余裕も無くなる事を、私はまだ知らなかった。




 帰宅早々自室に向かう主君の背を見送った漣瑛は、腕を組んで考え込んだ。

 今日の鴻宵は、明らかにおかしい。この違和感は、記憶にある限り三度目である。

「あの人、どうかしたんですの?」

 黎翡も異様に思ったのか、問いが飛んでくる。さぁ、と曖昧に返した漣瑛は記憶を辿ってみた。


 前回は、昏に使いする少し前だった筈だ。そう、つまり春覇との婚姻が進められていた頃である。

 その前は、前年の暮れから年が明ける頃の事だった。太子の婚儀が行われ、新婦に化けた妖怪に襲われるという事件があったことを覚えている。


 いずれの場合も、慎誠は何故か訳知り顔で鴻宵を宥めに行っていたが、何故鴻宵が落ち込んでいたのか、漣瑛達にはわからないままである。ただ、今回は前二回とは少し事情が異なる。今日、漣瑛は鴻宵の様子が変わる瞬間をその目で見ていたのだ。

 ――庭園で、太子と和姫を見てからだ。様子がおかしくなったのは。

 理由はわからないが、それは確かだった。そこから、思考を広げてみる。

 ――そういえば、前回慎誠殿に相談した時、将軍が太子府においでになったと言っただけで何かわかったようだった。

 そうなると、太子が関係している可能性が高い。

 しかし、と漣瑛は首を捻った。

 理論上太子との関連が推測できるとはいえ、鴻宵と太子との間に個人的な関わりがあるとは聞かない。何故鴻宵が落ち込むのか全くわからないのだ。

 ――それに、去年の暮れの時は太子とお会いになったわけでも……

 そう考えかけて、ひやりとした。


 あの時、鴻宵は太子に会ったわけではない。しかし時はちょうど太子の婚儀が行われた頃である。

 太子の婚姻。太子府に出掛けた後。そして、太子と和姫が仲睦まじげに庭園を散策しているのを目にした時。これらの場合に共通して落ち込むとしたら。


「え、まさかそんな……は……?」

「……何一人で百面相してんだ、お前は」

 呆れたような声に振り向くと、範蔵が不審げにこちらを見ている。

「あの……っ!」

 思わず自分の考えを口にしようとした漣瑛は、その場に黎翡がいる事を思い出して言葉を止めた。

「……っ、ちょっと、こちらへ」

 がしっと範蔵の腕を掴み、居間の外へ引きずっていく。黎翡と自分達が壁で隔てられると、すぐに小声で範蔵に話しかけた。

「将軍と太子って、個人的な関わりはおありになりませんよね?」

「あ?太子?」

 予想外の問いかけだったのだろう。範蔵は一頻り首を捻ってから答えた。

「特に聞かないな。個人的な関わりとなると、覇姫様繋がりのものくらいじゃないのか」

「ですよね……」

 漣瑛はほっと息を吐いた。何を馬鹿なことを考えてしまったのだろう、と自嘲しかけた時。

「関わりが無いとは言えませんね」

 唐突に、第三者の声が割って入った。振り向くと、回廊の壁に寄りかかっている沃縁と目が合う。

「それって、どういう……」

「つまり、鴻宵さんと太子は前から親交があったかも知れないという事です」

 沃縁はすっと目を細めた。

「何しろ僕が初めてあの二人が一緒にいるのを見た時、鴻宵さんは太子の膝の上にいましたから」

「……は?」

 想定を遥かに越える情報に、漣瑛と範蔵が固まる。

「膝の……え?」

 特に漣瑛は完全に混乱していた。その様子をどこか面白そうに見ていた沃縁は、やがて肩を竦めて言葉を補う。

「もっとも、どうやら初対面の様子でしたから、崖から落ちてきた鴻宵さんを太子が受け止めたとか、そういった類の状況だったのでしょうけど」

「ああ……」

 漣瑛はがっくりと脱力した。範蔵が呆れ顔で沃縁を見遣る。

「言い回しが紛らわしいんだよ。鴻宵が性格悪いって評するのがよくわかる」

「心外ですね。僕は僕の見た事実をお話ししただけですが」

 さらりとそう言った沃縁は、未だ脱力状態の漣瑛に目を向けた。

「それで、漣瑛さんはどうして鴻宵さんと太子のことを?」

 問われた漣瑛は、躊躇いがちに言葉を濁しながらも、自分がたどり着いた推測について述べた。

「なるほど」

 沃縁と範蔵が頷く。そして次に沃縁の口から出た言葉に、漣瑛も範蔵も耳を疑った。

「当たりです」

「……はい?」

 一瞬理解出来ずに固まる二人に、沃縁は背を向けた。

「その推測は正解ですよ――でも、それは貴方達の胸のうちに留めておいて下さい。お互いの為にね」

 そう言い残して、去っていく。

 後に残された二人は、呆然とその意味を反芻するしか無かった。


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