淡き思い
私は漸く気分も落ち着いてきて、何とか普通に職務をこなして生活している。
「そろそろ、覇姫様がお戻りになる頃ですね」
箙磬に言われて、私は日数を数えた。
「そうだな。順調なら今日明日中に戻って来られるだろう」
郊外で燕玉を出迎えた春覇は、彼女を滞在先の離宮まで案内してから帰ってくる筈だ。ゆっくり休めるように、部屋を少し清めておこうか。
そう思い立って、こっそり木精霊と水精霊に髪を与えて春覇の部屋に行かせる。空気が清らかだと、やっぱり気分良く休めるものだ。
「機嫌が良さそうですわね。やはり妻の帰宅は待ち遠しいものかしら?」
黎翡がからかうような言葉を投げてくる。私は振り返り、頬を緩めた。
「もちろん」
黎翡が微妙な顔をした理由を、私は知らない。
簡潔な言葉を返してからすたすたと歩いて行ってしまった鴻宵を、黎翡は複雑な表情で見送っていた。
「そういうからかいは無駄ですよ」
たまたまその場に居た範蔵が、黎翡に教える。
「うちの主君はそのくらいで照れるような可愛らしい性格はしていませんから。さらっとのろけられてこっちが損した気分になるのがオチです」
そもそも、あの二人は女同士だからまず照れる要素自体が無いのだが。
そんな真実は欠伸と一緒に噛み殺して、範蔵は黎翡の前から立ち去ろうとした。
「つまり――」
黎翡の小さな呟きが耳に入る。
「私の割り込む隙は無いということかしら」
範蔵は危うく声をあげそうになった。背中を冷や汗が伝う。
これは、何というか少し、まずいかも知れない。
聞かなかったふりをして足早にその場を去った範蔵は、慌てて家宰である省烈と最も頭の働く尉匡を探すべく走り出した。
時は少し遡る。
国境まで牧燕玉を迎えに出向いた紀春覇は、その表情に複雑さを湛えて西の空を眺めていた。
講和の為に、橙から碧に差し出される女性。その立場は、春覇の母とよく似ている。
しかし、不思議と春覇は燕玉に同情的な気持ちになれないでいた。
実のところ、春覇は燕玉と面識がある。幼少時に橙の王宮に出入りしていた春覇は、橙王の娘である燕玉とも会っていたのだ。しかし、春覇の記憶の中で黎翡が鮮明な印象を残しているのに対し、燕玉の存在は酷く曖昧である。要するに、当時の春覇は彼女に全く興味を覚えなかったのだ。
「橙の使いが参りました」
程無く、牧燕玉と、講和の使者である重臣が姿を現す。その重臣の顔を見た春覇は、内心で眉を寄せた。
岸鵠。
他でもない、春覇と鴻省率いる碧軍と直接衝突し、黎翡を見捨てた張本人である。彼は春覇の顔を見ると、型通りに優雅な挨拶をした。春覇も感情には蓋をして、一国の卿として相応の礼を返す。
岸鵠と春覇の挨拶が終わると、燕玉が口を開いた。
「お久しぶりですわ、覇姫様。ご立派になられて、またお会いできたことを嬉しく思いますわ」
親しげな挨拶に、春覇は少し戸惑う。しかしそんな内心はおくびにも出さず、正式な礼を返した。
「和姫様とお見受けする。都まで私紀春覇が同道致します」
「まぁ、他人行儀ですこと」
他人行儀もなにも他人だ、と春覇は内心呟いた。
「私達、従姉妹ではございませんか」
春覇は表情を変えずに堪えたが、代わりのように周囲の木精霊がざわめく。
春覇にとって、それは最も言われたくない言葉であった。
橙の王家と血が繋がっている。まさにその事実こそが、春覇の幼少期を孤独なものにした原因の第一なのだ。方士として生まれ特異な外貌を持っていたという春覇本人の事情よりも更に深刻に、母の出自は春覇と他人とを隔てていた。今や確かな実力を蓄え、獲得した地位を不動のものにしているとはいえ、口に出されて快い事ではない。多少なりとも事情を弁えている者であれば、春覇に向かって、それもこのような公の場で、この話題を出すのは憚られる筈であった。
外交ということに関してあまりに無知なのか、或いは悪意あっての事か。
詮索するのも煩わしく、春覇は固い表情のまま話題を事務的なそれに移した。
「ここより、和姫様にはこちらの車にお乗りいただく。正使殿はそのまま翠までご自分の車で参られよ」
そう告げて、燕玉を予め用意して来ていた馬車に案内した。馬車には既に御者が乗り込んでおり、春覇とともに燕玉の乗車に手を貸す。燕玉は優雅な身のこなしで馬車の左側の席に座った。
「我が部下を護衛にお付けする。御用があればその者に」
春覇がそう言ったので、御者は目を見開いた。本来ならば、この馬車には春覇が同乗する予定だったのである。しかし春覇の表情がいつにもまして固いのを見て、沈黙を守った。
「あら、覇姫様がご同乗くださるのではありませんの?」
燕玉も訝しく思ったのか、首を傾げて春覇に問う。春覇は眉ひとつ動かさずに答えた。
「申し訳ないが、私は別の雑務をこなさなければならないので行動を別にさせていただく。何か希望や不都合があれば護衛の部下にお申し付けくださればすぐに対処しましょう」
一礼して燕玉の前から立ち去った春覇は、言葉通り部下を一人見繕って燕玉の馬車に乗せた。自分は敢えて馬車ではなく馬に乗り、動き出した隊列の末尾に付く。
そうして人目が無くなると、春覇は堪えていた溜息を吐きだした。
「春覇」
ここまで無言で春覇の後ろに控え続けていた章軌が、小さく声を掛ける。春覇は振り向かずに、呟くように言った。
「……兄上に、会いたくなった」
春覇がまだ幼かった頃、唯一春覇を分け隔てせず、気さくに声を掛けてきていたのが蒼凌であった。その頃の彼はひどくやんちゃで、いつも従者達を撒いて方々に遊びに行くので彼の従者はしょっちゅう城中駆けずり回って主君を探していたものだ。
そして春覇は、孤独で。
泣き虫だった。
「また泣いてるのか」
いきなりひょいと顔を覗き込まれて、幼い春覇は心臓が止まりそうなほど驚いた。
後宮にほど近い庭の片隅で、春覇は一人膝を抱えて泣いていたのである。そんな場所に突然現れる蒼凌は、まさしく神出鬼没であった。
「あ、にうえ……」
「こんなところで泣いてると風邪ひくぞ。ほら、とりあえず顔を拭け」
春覇の頭をやや乱暴に撫でてから布を差し出してきた蒼凌は、よく見ると頭に木の葉などくっつけていた。どうやらまた城を抜け出して外で遊んでいたらしい。従者もいない。
「兄上、頭に葉っぱが……」
「ん?ああ」
無造作に木の葉を払い落とし、蒼凌は春覇の隣に座った。
「で?なんで泣いてたんだ?」
蒼凌の問いは直球である。彼は元来さばけた性格で、殊に春覇に対しては常に本音をぶつけていた。この泣き虫で孤独でそのくせ頭の回る従妹に対しては、変に気遣うよりもその方が不安にさせずに済むとわかっていたからだ。
「母上が、泣いていたから」
春覇は俯いて、ぼそりと言った。
春覇の母は、嫁いできた当初から夫の愛情を受けられない人であった。それでも数年は正妻としてそれなりに夫の傍に居られたのだが、春覇が生まれて暫くした頃から次第に顧みられなくなっていた。元々そう強い女性でもない母は、春覇の記憶の中でいつも泣いていた。
「またか」
蒼凌はそう言ったが、呆れたような口調とは裏腹に、手は優しく春覇の頭を撫でていた。
「母君が泣いているのは、まあ、仕方がない。こればかりは俺にもどうにもできないから」
ごめんな、と言う蒼凌に、春覇は首を傾げた。
「なぜ兄上が謝るのですか」
「気分だ」
ざっくりと言い切って、蒼凌は呆気にとられている春覇に向き直った。
「よし、母君が泣いていた、それはわかった。で、お前は何で泣いてるんだ」
春覇は目を瞬かせた。暫し、二人の間に沈黙が降りる。
「……母君が泣いてたらお前も泣くのか」
蒼凌が呆れたように言う。春覇はこくりと頷いた。
こうして時折現れる蒼凌を除けば、春覇がまともに会話できる相手は母しかいない。侍女達ですら、春覇に対しては何となく一線引いたところがあった。だから、その母が泣いていると、春覇には為す術が無く、結果こうして自分も泣くという行動に出ることになるのである。
何がおかしいのかわからない、とでも言いたげな春覇を見て、蒼凌は溜息を吐いた。
「あのなあ、二人とも泣いてたんじゃどうにもならないだろう」
軽く春覇の頬を摘まんで引っ張る。
「お前ももう赤ん坊じゃないんだから、他にできることがあるだろ。母君が泣いてるなら、まずは泣き止ませる方法を考えろ」
「泣き、やませる……?」
春覇はまるで酷く難しい言葉でも耳にしたかのようにぽかんとした。対する蒼凌は、立ち上がって腕を組み、春覇を見下ろす。
「例えば、だ。春覇、母君の好きなものを言ってみろ」
好きなもの、と復唱して、春覇は一番に思い付いたものを口にした。
「父上」
「……それ以外で」
どうやら、これは蒼凌の期待する解答ではなかったらしい。うぅんと唸った春覇は、蒼凌の真似をして腕を組んだ。その途端、ぽんと母の好きなものを思い付く。
「花」
春覇は言った。
「母上は花が好き。前に庭で色んな花を教えてくれました」
「それだ」
大きく頷いた蒼凌は、屈んで春覇の手を取った。
「明日、野に花を摘みに行こう」
「花を?」
よくわかっていないらしい春覇に、蒼凌は説明する。
「泣くのは悲しいからだ。好きなものを見ていれば、少しは悲しさが薄まるかも知れないだろ」
そういうものかな、と春覇は考えた。
そういうものかも知れない。前に花について話していた時、母は笑っていた。
「明日の朝、ここで待っていろ。迎えに来るから、一緒に野へ行こう」
蒼凌がそう言って、握っていた春覇の手を軽く振る。約束だ、と言われて、春覇はわけもなく嬉しくなった。
「はい、約束です」
春覇が笑みを浮かべると、蒼凌も笑った。
「よし、涙も乾いたな」
彼が春覇の頭を撫でた時。
「公子ー」
「蒼公子!何処ですかー!」
遠くから、蒼凌を探し回る侍従の声が聞こえてきた。
「おっと、そろそろ戻ってやらないと」
「……また逃げて来たのですか、兄上」
やや呆れ気味の春覇に、蒼凌は悪戯っぽく笑って見せた。
「明日も逃げてくる。お前も侍女に見つかるなよ」
軽く手を振って、声のする方へ走り出す。春覇は微笑んでそれを見送った。
そうして翌日出かけた野で春覇は運命的な出会いを果たすことになる。
「春覇」
聞き慣れた声が、春覇の回想を破った。振り返れば、琥珀の瞳がじっとこちらを見詰めている。暫しじっと目を合わせてから、彼はゆっくりと口を開いた。
「今と昔は違う。気にするな」
春覇は数度目を瞬かせ、それから僅かに口許を弛めた。
そう、今と昔は違う。
幼い頃、春覇は無力で。母や自分を嘲る人々に対し、一人で泣くことしか出来なかった。
今、彼女には力がある。
そして何より、仲間が居た。
「……ありがとう」
微かな声で礼を言って、春覇は前を向いた。
早く都へ帰ろう。章軌と共に。
仲間の待つ、都へ。
一方鴻家では、家臣達が集まって難しい顔をしていた。居間の前の廊下からこっそりと室内を窺う彼らの視線の先には、のどかにお茶を飲んでいる鴻宵と黎翡がいる。二人の傍では、箙磬が湯を沸かしたり果物を剥いたりと甲斐甲斐しく世話を焼いていた。
「で、どうするよ」
眉間に皺を刻んだ省烈が、小声で尉匡に尋ねる。尉匡は肩を竦めた。
「どうもこうも、今は様子を見るしかありませんね。下手につつけば事を荒立てかねません」
「でもよ」
今度は範蔵が口を開く。
「あんまり放っとくのもまずいんじゃないか。傷の浅いうちに引き返させないと」
「でも実際私達に出来る事はありませんよ」
登蘭が困惑気味に言う。腕を組んで唸っていた省烈が、ぱっと彼女に目を向けた。
「もうこの際いっそのこと……」
「あ……っ」
省烈が何かを言いかけたのにかぶさるように小さな声が響く。嶺琥だ。最近厩生活を脱却すべくできるだけ母屋に出てくるようにしているらしい彼も、この場に加わっていたのである。
彼の声に促されるように室内に目を戻した面々は、各々何とも言えず渋い表情を浮かべた。
室内ではちょうど黎翡が箙磬から受け取った果物を鴻宵に差し出したところである。その表情も距離感も、鴻宵に対する黎翡の好意を如実に表していた。
ところが、当の鴻宵はというと全く気が付いていない。ごく普通に果物を受け取り、口に運んでいる。
「鈍い!」
範蔵が思わず発した一声は、この場の全員が共有する感想であった。
「ど、どうしましょう」
おろおろと嶺琥が問いかける。
「後で鴻宵に教えるか?」
「あの鈍さです。まさかと一笑に附されるのが落ちでしょう」
省烈の発言に、尉匡が冷静に切り返す。
「となると、やっぱ強硬手段に訴えるしかねえか」
何やら物騒なことを呟いて、省烈は登蘭に自分の案を伝えた。
「本当にやるんですか」
登蘭が困惑げに言う。省烈は腕を組んだ。
「ほかに手が無いしな。妙にこじれる前にけりをつけた方がいい」
「それにしてもなかなか危険な手段ですよ。将軍のご許可無しに秘密をさらすわけですから」
普通なら首が飛びます、と言った尉匡も、別に反対する気は無いらしい。
「問題はいつ実行するかだ。間違いなく一騒動になる」
範蔵がそう言って、何か数えるように指を折った。
「日数から言って、そろそろ覇姫様がお戻りになる」
「あの方なら多少の騒動が起きてもお怒りにはならないだろうが……」
ただ、こちらの気が引ける。家臣達は頭を抱えた。
「とりあえず、覇姫様が戻って来られるのを待った方がいいんじゃないかしら」
そう言ったのは、総華だ。
「覇姫様が気づけば何とかなさるかも知れないし、何なら兄さまに言ってみるわ」
要するにこの件は、多少家臣の手には余るのである。
「それしかありませんか……」
出来れば自分達で何とかしたかったのだけれど。
尉匡が呟いて、家臣達は深く溜息を吐いた。
「覇姫様のお帰りです」
ちょうどその時、玄関から衙桐の声が響く。家臣達は慌てて居間の戸口から離れ、それぞれの居場所へと散っていった。




