贈り物
人目に付かないようにこそりと執務室に戻り、奥にある仮眠用の小部屋で町民の格好からいつもの服に着替えた。だいぶ長くなった髪を布で包んで纏め、青い衣をまとって帯には二本の剣を提げる。白で没収された剣を函朔に返して貰ってからも、何となくどちらかを手放す気にはなれずに両方を帯びているのだ。
身支度を終えて家路に就く頃には、日がすっかり暮れて星が闇夜を彩っていた。
とはいえまだ街は起きている時間だ。日本で言えば午後八時頃といったところだろうか。
「遅いよ」
城門を出ると、すぐ前の茶屋の店先で慎誠がふてくされていた。
「そんなに待たせていないだろうが」
ついでに、と私も慎誠と同じ長椅子に座り、温かい茶を注文する。慎誠はお茶受けの干した果物を口に放り込んだ。
「漣瑛、お前も座ったらどうだ」
「いえ、将軍と同席というわけには」
立って控えている漣瑛に声を掛けてみたが、漣瑛らしい生真面目な答えが返ってくる。
「お堅いね」
慎誠が軽く笑って、手元にあった果物を差し出した。
「まぁお茶くらいいいでしょ」
断ろうとした漣瑛に、私は店主が持ってきた二杯の茶のうち一方を差し出した。
「お前の分だ」
漣瑛が戸惑ったように私を見て、ちらりと慎誠を見て、それから茶碗を受け取る。
「……すみません」
その漣瑛の態度がおかしくて、私は喉を鳴らして笑った。
漣瑛は根がまじめな分、あらゆる部分が破天荒な我が一家の中で、いつも振り回される側だ。こういう態度が面白くてからかわれている事に、本人は気付いているのかいないのか。
「まじめ過ぎていじりがいありそう」
慎誠のぼそりと零した呟きに、私は内心深く頷いた。
私の屋敷は、王城の門を出て二十分ほど歩いた場所にある。
春覇や蒼凌のような王族は城内に住んでいるが、私達臣下は原則門外に住む。夜明け前に出仕して、仕事が終わるとこうして屋敷へ帰るのだ。春覇の下に居た頃は基本的に司馬府の中で寝泊まりしていたが、大夫になって将軍職に移った時、功績への褒賞として屋敷を下賜された。場所が若干辺鄙なのは軽い嫌がらせだが、私自身はこの場所を気に入っている。
……結果がこの有様なのだが。
「ただいま」
「おかえりしょーぐん!」
「うっ……!」
今日は時間が遅いから子どもたちは居ないと思ったのに!
「何でまだ帰ってないんだ……」
「まってたの!」
戸を開けた瞬間に飛びつかれて支えきれずに尻もちをついた私の上に乗ったまま、狐狼の子どもはにこにこと笑う。
目を転ずると、奥にまだ全員残っているようだ。子どもを退かして漣瑛に助け起こされた私の目に、苦笑している省烈が映る。
「省烈。何でこんな時間に子どもたちが」
「まあ入れ」
私の疑問には答えずに言った省烈は、私の後ろに慎誠が居ることに気づいて目を見開いた。
「なんだ、来たのか放浪息子」
「それって放蕩息子のもじり?俺息子じゃないんだけど」
へら、と笑う慎誠を、狐狼の子どもがじっ、と見上げる。
「ほーろーむすこ?」
「違う違う。俺は慎誠。っていうか前会ったよね?覚えてないとか言わないでよ?」
不満げに言う慎誠を見た子どもが、さっと他の子ども達と目を合わせ、頷きあう。
何か企んでいる。
「覚えてなーい!」
「えぇ!?」
一斉に覚えてない、と叫んだ子どもたちは、口々に覚えてないよ、知らないよ、なんて言いながらきゃいきゃいと走り回る。
その子どもたちの思惑に乗った形で、慎誠が子ども達を追いかけ始めた。
かくしていつもと変わらぬ光景の出来上がりである。
若干一名、大きいのが子どもの中に混じっているだけで。
「……子どもと同じですか、あの人の精神年齢は」
「そういうこと」
溜息を吐く漣瑛に苦笑交じりに返して、私は漸く部屋の中に踏み込んだ。
「それで?今日は何なんだ?」
普段私達が集まる居間のような場所で、省烈、尉匡、範蔵、総華、紫梗、圉人の嶺琥、門番の片割れの衙楠までもが揃って卓についている。
「桐も呼んで来ましょうか」
「いや、まだこの時間だからな。門を無人にするのは良くない。お前が後で代わってやってくれ」
「わかりました」
巨躯の衙楠が立ち上がりかけるのを、省烈が止めた。
桐というのはもう一人の門番である衙桐のことで、つまるところ衙楠と衙桐は兄弟で門番をしている。因みに衙楠が兄だが、大して体格は違わず、二人とも熊のように大きい。
「まぁお座りください。漣瑛もどうぞ」
尉匡がにこやかに着席を促す。
未だ子ども達と戯れている慎誠は放置だ。
「何事だ、皆して」
私が首を傾げながら席に着くと、くいくいと袖を引かれた。見ると、一番小柄な狐狼の子どもが私の袖を引いている。
「どうした?」
尋ねた私に、その子は黙って手を差し出した。
その手に、花が握られている。晩秋に咲く、地味だが綺麗な花だ。
「あげるっ」
差し出した花を、子どもは私の目の前に突き出した。突然のことに目を瞬かせながら、私はそれを受け取る。
「あ、ありがとう……?」
「あーっ、光佳ずるい、抜け駆け!」
「あたしも渡すっ!」
不意に誰かが叫び、子ども達がわらわらとこちらに集まってくる。彼らは手に手に何かを持っていて、それを我勝ちに差し出してきた。
戸惑っている私を見て、尉匡が笑う。
「つまり、こういうことです。皆、将軍の昇進をお祝いしたいんですよ」
私は目を見開いた。
そういうことだったのか。
子ども達が差し出す物は、高価ではないけれど彼らなりの一生懸命さが現れていて、それを一つずつ受け取りながら、私は表情が弛むのを止められなかった。
「ありがとう、皆」
そう言って微笑むと、わっとばかりに飛びつかれた。今回ばかりはそれを邪険に扱うことはせず、一人ずつ頭を撫でてやる。
暫くそうしていたが、やがて省烈が仕切るように手を叩いた。
「ほら、皆渡せたな?餓鬼はもう帰る時間だ。籐備、皆を連れて帰れ。斤と両も部屋に行け」
追い立てられて、今日は素直に子ども達が帰っていく。
狐狼の子ども達のうち最年長の籐備が狐狼達を連れて居住区へ帰っていき、省烈の二人の子どもは母親の待つ離れの一室に戻った。
「へぇ~、可愛らしいことするじゃん」
感心したように言いながら寄ってきた慎誠が、私の手元を覗き込む。
「このために待ってたのか……」
手元の品を見ながら呟いて、私は何だか暖かく、そして何故か切なくなった。
狐狼の子ども達だってこんなにも普通の子ども達なのに、あの枷が彼らの運命を縛り続けるのか。
「さて、それで」
咳払いをして、尉匡が話を続ける。
「我々からも、お祝いを差し上げたいと思いまして」
す、と尉匡が私の前に小箱を差し出す。反射的に受け取って、私はぽかんとしてしまった。
まさか彼らまで祝ってくれるとは思っていなかった。
そんな私の様子を見て、範蔵が溜息を吐く。
「そんなに驚くなよ。主君の昇進を祝わない家臣が何処にいるんだ」
「あ、いや……そうか、ありがとう」
ちょっとくすぐったくなって、自然に笑みが漏れる。
尉匡に開けろという手つきをされたので、手に乗せた小箱を開けてみた。中に入っていたのは、上質だが華美ではなく丈夫そうな革紐だった。
「これは……」
「剣の封印に使っていただければと思いまして。いざという時には留め金を外すだけで剣を抜けるように作ってあります」
尉匡の説明を聞いて、ますます驚く。
つまりこれは、私がいつも戦いの際に剣の鞘を縛って使っている事を知った上で工夫して拵えられた紐ということだ。小さな贈り物ではあるが、私に贈る物としては無類の価値がある。
「ありがとう……凄いな」
「どうせなら将軍らしいものをお贈りしようと思って」
さらりと言う尉匡に、隣に居る省烈が渋い顔をした。
「気が利きすぎるんだよ、お前は。こっちの用意した物が情けなくなるじゃねえか」
そう言って照れくさそうなため息に紛れさせながら省烈が私に手渡したのは一揃いの筆と墨だった。
省烈は情けないというが、これも見てみればかなり上質なものだ。墨の選び方も品を感じさせる。
「貴官になると書簡一つにも品位が求められるだろうからな。重要な物はそれ使って書けば間違いねえだろ」
省烈の言うことに間違いは無い。いかに武官と言えど、上大夫ともなればかなりの水準の教養が要求される。その辺りも、私は必死に勉強してきたし、これからも学ばなければならないことは多いから、この贈り物も十分に気の利いた物だ。
しかし、だからこそ、思わず私は呟いてしまった。
「い、意外だ……」
「何だとこら」
瞬間睨まれるが、自然な感想だろう。
省烈は見た目からもわかる通り元々武人で、それも私が上官になった時に実力の無い者の下には付きたくないと勝負を挑んできたという経歴の持ち主なのだ。
そんな武張った男に、文化を説かれるとは……。
私達のやり取りを見ていた尉匡が、そういえば、と声をあげる。
「省烈殿のおじいさんは司空府に勤めておられたのでしたね」
「昔の話だ」
人とは見た目では分からないものらしい。
続いて範蔵から渡されたのは、分厚い紙の束と数本の書物だった。
「お前歴史のこと何も知らなかっただろ。宗伯府は史暦も司る。あそこの資料は難しくて読むのは大変だって聞いたから、学のある知人にわかりやすい資料を集めて貰った」
「……これこそ意外ですね」
尉匡が呟く。確かに範蔵は兵士あがりだし、あまり学は無い。
けれど、私には範蔵の気遣いがわかった。
私と範蔵が初めて会ったのは、私がこちらに来て間もないころの碧の軍中だ。あの頃私が歴史書を求めて読んでいたことを、範蔵は覚えていてくれたのだろう。
尉匡に意外そうな目で見られた範蔵は、ふてくされたように横を向いて、ぼそりと言った。
「学の無い苦労は学のある奴にはわからないんだよ」
確かにそうだろう。私はこの世界の、そしてこの国の歴史を一から学ばなければならない。
「助かる。ありがとう」
そう言った私に、次の総華が差し出したのは綺麗な刺繍の入った小さな袋だった。中に何か入っている。
「私が作ったの。居住区には工房もあるから」
袋の口を開けて掌の上で逆さにしてみると、中から玉を削って作った彫物が出てきた。
白く光沢のある玉は、何かの動物の形をしている。狼に似ているが、ぴんと立った耳とふっさりとした尻尾は狐を思わせた。ふと、ひょっとするとこれは狐狼の本来の姿なのかもしれない、という気がしてくる。
あの枷を外さない限り、狐狼達は本来の姿には戻れない。
「お守りに持っていて」
「……うん。大切にする」
これを作った総華の気持ちは決して軽くないに違いない。
私は玉を丁寧に袋の中に仕舞い、懐に入れた。
「私からは、あまり大したものは差し上げられませんが」
控えめに言って、紫梗は結った髪を包む布と、礼装の時の簪をくれた。高官になると、男でも長い髪を結って簪で纏め、冠を被るのが正式だ。普段はそこまで厳しくないので、私は髪を布で包むようにしている。
「いや、ありがとう。早速明日から使わせて貰うよ」
布には控えめな刺繍があって、紫梗の手作りなのだろうことがわかる。紫梗は四十過ぎの女性の使用人だが、細やかな心配りの出来る人で、子ども達も母親に対するようになついている。
私も、少しだけ母の居た頃を思い出した。
「俺からは、これです」
衙楠は何やら細長い包を私の前に置くと、まだ開けないで下さいよ、と言い残して小走りに出て行った。多分衙桐を呼びに行ったのだろうが、何故開けるなと言ったのだろう。
言われた通り包を開けずに待っていると、間もなく衙桐が現れた。手に、何やら筒のような形の包を持っている。
「これとそれは対なのです。どうぞ」
促されて、まず衙楠に貰った方の包を開ける。細長いそれは、美しい細工の施された、しかし飾り物ではないのだろう勁さを感じさせる弓だった。馬上で使える、短めの半弓だ。かなり良い物に違いない。
来歴を問おうと顔を上げた私に、衙桐は無言で持っている包を差し出してきた。それを受け取り、開けてみる。
蔓を編んで作られた箙だった。明らかに弓と対になる、こちらも繊細な細工の入った上質のものだ。
「これは、わが家に代々伝わってきた弓と箙です。将軍に差し上げます」
私は弾かれたように顔を上げた。
これだけ良い物だ。家宝だったに違いない。
「そんな物を貰うわけには――」
「将軍に使っていただきたいのです」
衙の兄弟は、普段寡黙だが言い出すと聞かない所がある。それでも抗議しようとした私に、衙桐は重ねて言った。
「将軍ならば、それを生かしてくださると思います。我ら兄弟には、その弓は使えません」
確かに、堂々たる体躯の衙の兄弟には、この弓は小さすぎる。
しかし、人の家の家宝を貰ってしまっていいものだろうか。
私は反論しようとしたが、素早く膝を折って頭を下げた衙桐に言葉を塞がれてしまった。
「……わかった。大切に使わせて貰う」
「ありがとうございます。良い物を埋もれさせるのは心苦しいものです」
ちら、と笑って、衙桐は部屋を出て行った。衙楠に報せに行くのだろう。
「大変な物を貰ってしまったな……」
呟いた私の肩を、慎誠が宥めるように叩いた。
「しっかり働けってことだね」
慎誠の言ったことは、言葉は悪いが間違ってはいない。これらを託してくれた臣下の期待に応えるためには、弛まず働くしかないだろう。
「まったく、その通りです」
何故か深々と頷きながら言った漣瑛が、何か布包みを私の手に押しつける。
いつの間に用意したんだ、と少し驚きながら、私は包を開けてみた。
「戦袍……」
つまり、陣羽織だ。漣瑛がくれたのは、碧の国色である青を基調にし、背中側に銀糸で龍の刺繍の入った、派手ではないがぱっと目に付くような戦袍だった。
「将軍のいつもの戦袍は地味過ぎるんですよ」
ぼやくように漣瑛が言う。私は首を傾げた。
「いいじゃないか、地味でも」
「よくありません!」
口に出したとたんに猛然と反論される。
「いくら旗幟があるといっても、真っ先に乱戦に分け入って行く将軍を見失わないようにするのがどれだけ大変だと思っているんですか!」
反論できない。
私は苦笑を浮かべた。戦場でも漣瑛の苦労は尽きなかったらしい。
今更だが、前回の戦で私の身辺は一時全くの乱戦状態になった。漣瑛もよく生き残ったものだ。
「あの、将軍様……」
最後になった圉人の嶺琥がおずおずと声を上げる。
彼はまだ成人前の、私と同じくらいの年齢なのだが、春覇のところの圉人の息子で、馬に関しての目は確かだ。
ただ欠点があるとすれば、異様に気が小さいことだろう。その為、普段は走り回る子どもたちやそれを怒鳴りつける省烈を怖がって厩から出てこない。
「その、私からの贈り物は、外に……厩に、あるのです。おいでいただけますか」
「ああ、行こう」
私は気軽に腰を上げた。皆も嶺琥の贈り物に興味があるのか、後ろから付いてくる。
回廊を抜けて庭を越え、厩に辿りつくと、私は普段より馬の気配が多い事に気付いた。嶺琥らしい贈り物だ、と内心微笑む。
「ここで、お待ちください」
私達を厩の前で待たせて、嶺琥は中に入った。
程無く、一頭の馬を引いて出てくる。
「へぇ……」
私は思わず声を上げた。
馬の良否が特別わかるわけではない私でも感心するほど、良い馬だった。栗色の体は引き締まっていて、焦げ茶の鬣は長く艶やかだ。何より目が澄んでいる。
「これは素晴らしい」
「稀に見る良馬だぞ、こりゃあ」
尉匡も省烈も感嘆の声を漏らした。
「翠郊の野に行って、自分で選んで来ました」
「さすが嶺琥だ。これは良い」
そう言いながらも、私はそれ以上敢えてその馬に近づこうとはしなかった。それに気付いた慎誠が、軽い笑声を立てる。
「素晴らしい馬だけど、気位もすごそうだね?乗れるの?」
その言葉の通りに、気位の高い馬だ。嶺琥だからこそすぐ傍まで寄れるのだろう。
馬に信用されていない者が迂闊に近づけば蹴られるに違いない。
「将軍様なら、乗りこなせると、思います」
嶺琥の言葉に、私は馬の目を見た。気高く澄んだ瞳が、警戒の色を帯びてこちらを見ている。
暫くじっと見つめあって、一歩近づく。
また、一歩。
皆微動だにせずにその様を見ていた。
ゆっくりと傍まで近づいても、馬は暴れなかった。ただ、じっと私を見ている。
私はそっと手を上げて、馬に触れた。その目から警戒が消え、馬は頭を下げた。
「鴻宵は動物の扱いが上手いね」
以前の事を思い出したのか、総華が微笑う。そう言えば、昏を旅する途中で虎にねぐらを譲ってもらった事があった。
「嶺琥、この馬の名は?」
馬の鬣を撫でながら、私は問う。嶺琥は嬉しそうに答えた。
「残雪、です。足が一本だけ、白いので」
言われてみると、なるほど栗色の体の中で後ろ右足の下の方だけが白かった。
「そうか。よろしく、残雪」
残雪は私に鼻先をすりよせることで答えた。
厩から居間に戻り、私は皆の祝いへのささやかなお礼として皆に茶を入れた。
あれからまた衙楠と交代して門の番をしていた衙桐も、もう夜も更けたから良いだろうということで呼び寄せた。
門番は夜中まで番をしているわけではなく、ある程度の時間になると門に閂をしてその日の仕事を終える。珍しく嶺琥まで揃って一緒に茶を飲んでいると、ちゃっかり私の横に座っていた慎誠が思いついたように言った。
「俺も何かお祝いしなきゃだね」
全員の視線が慎誠に向く。
突然ふらりと現れた慎誠は、何を準備している様子も無い。
訝しげに向けられる視線の中、慎誠は立ちあがって窓の傍へ行き、悪戯っぽく笑った。
「人手不足の鴻宵に、使える猫の手を貸してあげようかな、と」
そんなよくわからない事を言って、窓を開ける。そこから外に顔を出して、口笛を吹いた。
「何やらかすつもりだ」
省烈が訝しげに呟く。
その時、窓から身を引いた慎誠の隣に、何かが飛び込んできた。咄嗟に漣瑛と範蔵、省烈が立ちあがって身構えかける。
しかしその何かを認識して、一斉に肩の力を抜いた。
「猫……?」
「言ったでしょ、猫の手って」
平然と言い放ちながら、慎誠が窓を閉める。その足元に居るのは、白い毛並みに、薄茶色の虎縞が入った猫だった。
「何で猫……」
「失礼ね、猫じゃないわよ」
不意に響いた声に、慎誠を除く全員がぎょっとして猫を見る。嶺琥に至っては、椅子を鳴らして立ち上がり壁際まで一気に下がった。
「猫が、喋った……」
「猫じゃないって言ってるでしょ」
どう見ても、喋っているのはその猫――本人いわく猫ではないらしいが――だ。よく見ると、長くうねるその尻尾は二本あった。
「初めましてね。あたしは双尾の哀」
「双尾……?」
耳慣れない言葉を復唱した私に、猫……もとい哀はひょいと尻尾を上げてみせた。
「妖怪の一種よ。まああたしは人間の姿にはなれない半端者だけど」
「妖怪……」
誰かが呟いて、皆互いに顔を見合わせた。嶺琥は壁に張り付いてかわいそうなくらい震えている。
「実際に見るのは初めてです」
「俺もだ」
尉匡と省烈が言い、何人かが頷く。私は少し目を泳がせた。私の場合、妖怪を見るのは初めてではない。
「で、それが猫の手というのは?」
私が問うと、慎誠はにこりと笑った。
「哀は俺の古い知り合いなんだけど、良かったら使いなよ。この格好だからどこにでも入りこめるし、情報集めには最適でしょ?」
「それは願ってもないが……」
偵候に使えるということだ。
戦時と平時とに関わらず、情報は常に重要なもの。つてはどんなにあってもありすぎるということは無い。私は哀に目を向けた。
「力を貸してくれるのか」
「お給料は干し魚でいいわよ」
私は頷いた。了承したということだ。
この瞬間、どの方面に哀を使おうか考えた私は、国内の探りに使おうと即断した。敵は国外にあるとは限らない。内乱でも起ころうものなら、我々にとっては致命傷だ。
「よろしく頼む。皆も、今日はありがとう。これからも私を援けてくれ」
私がそう言うと、皆その場で深く礼をした。