救命
目を開いた瞬間、視界に入ったのはこちらを覗き込む壮年の男だった。
「……最初に見るのがむさい野郎の顔とは、あの世ってのは随分と酷な所だな」
「お前仮にも命の恩人に対して第一声がそれか」
呆れたように、男が言う。函朔は眉を寄せた。
「恩人?」
意識が覚醒してきたのか、今さらのように身体が痛む。函朔は鉛のように重たい腕を持ち上げ、視界に入れてみた。
ゆっくりと拳を握り、開く。それだけで息が上がりそうな程、胸が苦しい。瞳だけを下に向けて見ると、包帯を巻かれた胸元が見えた。
「……生きてるのか、俺」
呟いた声が掠れる。
本気で死を覚悟したのはこれで二回目だ。二回とも命を拾った強運に、喜びよりも呆れに似た感情が先立った。
「ああ、生きてるぜ」
見知らぬ男はそう言って、しかし鋭い視線を函朔に投げた。
「もっとも、本当に助けるかどうかは、これから決めるがな」
「……だよな」
函朔は口角を上げた。互いに、相手が何者なのか全くわからない。そんな状況下で、ただ善意で助けた、なんて言われるよりも、その方が余程わかりやすい。
「因みに何で手当てしてくれたんだ?」
瀕死の函朔を見つけたところで、放っておけば遅かれ早かれ命を落としただろう。拾い上げて応急処置をするだけでも、余程の善人でもなければ理由無しにはするまい。
函朔の問いに、男は淡々と答えた。
「一つ、傍迷惑にもお前は俺の船の中で倒れてた。こっちも急いでたんでな。放り出す程の暇も無かったし」
甕から水を汲んで飲みながら、男は軽く鼻を鳴らした。
「かといって死体と同居する趣味も無え」
「そりゃどうも」
函朔は苦笑した。
「二つ」
それまで興味なさげに視線を他所へやっていた男が、不意に真っ直ぐに函朔を見る。鋭い視線がこちらを射抜いた。
「お前、『あれ』に追われてただろう――四将軍に手を出したな」
思わず起き上がりかけて、函朔は傷の痛みに呻いた。
「起き上がるのは無理だぞ。死にたいなら別だがな」
「……あんた、『あれ』を知ってるのか」
包帯の巻かれた胸を押さえながら、函朔は男を睨む。包帯の下には、刃物による切り傷と――獣の牙による噛み傷が、あった。
「知ってるといやぁ、知ってるな」
函朔を追ってきた獣。恐らくは、鴻宵が遣わした碧兵を噛み殺した獣を、この男は知っていると言う。
「あれに追われてたって事は、お前は少なくとも昏政府の狗じゃあねぇ。だから、とりあえず生かしてみた」
男の口ぶりからして、昏の政府とは対立関係にあるようだ。周囲を見回して相手に関する情報を得ようとした函朔は、不意に飛び込んできた小さな塊に目を丸くした。
「……犬?いや……」
灰色がかった茶の毛並みをしたそれは、一瞬函朔に警戒するような目を向けてから、男に何かを差し出した。小さな体でよく運んだものだと思えるような、細長く重そうなもの。
それを目にした函朔は、傷の痛みも忘れて飛び起きた。
「返せ!」
「おっと」
しかし重傷を負った体は思うようには動かない。男に身をかわされ、函朔は床に倒れ込んだ。小さな塊――子狼が噛みつこうとするのを、男が止める。
「この傷だ。殺すのはいつでもできる」
そう言って子狼を出ていかせた男は、再び座って子狼から受け取ったものを見た。それは、函朔が身に付けていた剣である。それも、普段使い用ではなく、大事そうに布にくるんで持ち運んでいたものだ。その剣の柄に刻まれた紋章を改めて、男は軽く眉を上げた。
「こりゃあ白の函家の紋だな」
粗野な言動に似ず存外博識らしい男は一目でそれを見破ると、函朔に目を戻す。
「……お前、白絡みの人間か」
函朔は答えない。ただ、引きずるようにして身を起こしながら男を睨み付けた。
「返せ……それだけは……っ」
呻くように言って、手を伸ばす。届かないとわかっていながらもなお腕を下ろそうとしない様子を見て、男は目を細めた。
「どうやら、相当に大事な物らしいな」
呟くように言って、剣を鞘から抜く。函朔はその剣刃から目を離そうとしなかった。
大切なのは当然だ。それは函朔が唯一父から受け継いだもの――形見の剣だった。
『朔よ』
死期を悟った函猛は、枕元に函朔を呼んで言った。
『我が後は逸が継ぐだろう。お前は家を出るか』
『はい』
函朔は迷わず答えた。弟と争う気は無く、家を背負う気もまた無かった。
『そうか……』
細く息を吐いた函猛は、手元に置いていた剣を取った。
『これを』
差し出されて、函朔は目を見開く。
それが、数十年来函猛と戦いを共にしてきた剣であることを、彼は知っていた。
『父上……』
『我が家を継ぐのは逸だが、我が心を継ぐのは、恐らくお前だろう』
函逸の意思は既に函猛や函朔とは別なところに在る。それを、函猛はよくわかっていた。
後を継ぐ息子が自分とは違う方向に家を導こうとするのは、当主として無念であり、父として悲しい。しかし函猛は、家を残すという事にさほど執着してはいなかった。故に、家を継がない方とはいえ、息子が自分の心持を継いでくれるだけで満足なのだ。
函猛は、嘗て息子達には向けた事の無い優しい目付きをした。
『済まぬな、朔よ』
剣を受けとるのに躊躇している函朔に、柔らかな声をかける。
『私はお前に、何もしてやれなかった』
函朔ははっと父の顔を見た。そこに宿る慈愛に気づいて、胸を衝かれた心地になる。
言葉を失いながら、函朔は必死に首を横に振った。
『父上……そんなことは、ありません。私は、本当に貴方に感謝しています』
やっとの思いでそう言った函朔の手を、函猛が掴む。
『そう言って貰えると、私も多少は肩の荷の下りる心地がするが』
息子の手を引き寄せた函猛は、その掌にそっと剣をのせ、包み込むようにして握らせた。
『最期くらい、父親らしい事をさせてくれ』
そう言った父の表情を、函朔はきっと生涯忘れはしないだろう。
ぐっと腕に力を籠めてみる。左腕は、全くと言って良いほど動かなかった。肩の辺りに受けた噛み傷が深いのだろう。
右腕一本で、函朔はずるりと這い起きた。どこかの傷が開いたのか、体の下に赤い滴が落ちる。
男は剣を手にしたまま、函朔を一瞥した。
「無理に動くと死ぬぞ」
「てめえがっ……それを返せば、おとなしくしてやるよ……!」
肩で息をしながら、函朔は男を睨む。男は溜息を吐き、剣を鞘に納めた。
「見上げた根性だ」
そう言いながら、無造作に放る。函朔は壁に寄りかかりながらそれを受け止めた。
「その根性に免じて返してやる。おとなしくしてろ」
男がそう言うや否や、部屋の入り口に掛けられた簾が跳ね上げられた。
「ちょっと待ちな!」
「おう恵玲。立ち聞きごくろうさん」
「茶化すんじゃないよ!黙って聞いてりゃ何のつもりなのさ!」
威勢よく入ってきて男に食って掛かったのは、年の頃なら十六、七の少女だった。動きやすさを重視した軽装を身に付けた彼女は、その見た目の印象に違わぬ勝ち気な口調で男に詰め寄る。
「そもそも何こんな厄介そうなもん拾って来てんのさ!」
「落ちてたから拾った」
「もと居た所に返して来な!」
犬猫の子じゃあるまいし、と函朔は内心呆れた。口に出さないのは、首を突っ込むと面倒そうだという理由に加えて、本格的に体力が尽きてきたからだ。
壁に寄りかかって剣を抱え込みながら、函朔は意識がゆっくりと薄れていくのを感じた。
――このまま目覚めなかったら、嫌だな。
ふとそんな事を思いつつも、閉じていく瞼に抗えず、函朔は眠りに落ちていった。
函朔が動かない事に先に気づいたのは、恵玲と呼ばれた少女の方だった。
「そいつ、死んだんじゃないかい」
「死んじゃおらん。眠っているだけだ」
もっとも、このまま治療をやめて放っておけば遅からず死ぬだろうが。
「わかんないね」
恵玲は腕を組み、じろりと男を睨んだ。
「あんた、別に何でもかんでも拾ってくるようなお人好しじゃないだろ」
恵玲の視線を受けた男は、ふむ、と頷いて函朔に目を向ける。
「生きようと、してたんでな」
「は?」
怪訝そうにする恵玲に、男はどこか遠くを見るような目付きをして説明を加えた。
「あれに追われて、ずたぼろにやられて……普通なら絶望するだろうな。特に人間にとって、あれは恐怖の対象だろう」
相手は一噛みで易々と人間を殺せる獣だ。しかも函朔はすでに満身創痍、動けるのが奇跡のような重症を負わされていた。
「だが、こいつは逃げて……這いつくばってでも、生きようとしていた」
男が函朔を見つけた時、函朔は失血により意識を失っていた。しかし彼の右手はもやい綱を解こうとした状態のまま綱を掴んでいて。
「そういう奴を、放り出す気にはなれん」
「生きたい奴なんてたくさんいるさ。なにもこんな得体の知れない奴をここまで連れて来なくても」
不満そうな恵玲に、男は小さく笑った。
「似てると思ったんだがな」
「は?」
恵玲は剣呑な態度を崩さない。男は対照的に落ち着いた様子で彼女を見つめている。
「赤子の時のお前も、通り掛かった俺の足を掴んで離さなくてなぁ。こいつは生きたいんだな、と思って拾ったんだ」
恵玲が言葉に詰まる。
彼女は捨て子だった。親の顔も知らない。冬の昏の地で、薄っぺらい布一枚巻き付けて捨てられていた赤子は、今目の前にいる男に拾われなければあっという間に凍え死んでしまったに違いない。
「……わかったよ。あんたの好きにしな」
気まずそうに顔を歪めながら、恵玲は引き下がった。
「但し責任は負ってよね。函家の生き残りが何だってあれに追われてたのかわかりゃしないんだから」
「わかってるさ」
男は頷いて、壁に凭れたままだった函朔の体を筵の上に横たえた。
「銀の兄弟に叱られたって知らないよ」
「ああ」
血の滲んだ包帯を解き、開いた傷に薬草を貼り直す。恵玲はそんな様子を暫く眺めていたが、やがて溜息を吐いて出ていった。




