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水鏡五国志 [第二部 烈日之巻]  作者: 子志
章之肆 奇縁錯綜
74/115

選択は、自らの手で

 回廊を歩き屋内に入った春覇は、来客の応接に使われている部屋の前で立ち止まった。ごく自然に後ろにいた章軌が前に出て戸を開ける。春覇に続いて戦姫が中に入ると、そのまま扉を閉めた。

 室内は二人だけになる。春覇は戦姫に向き合う形で立った。戦姫は真っ直ぐに春覇を見ている。

「わかっているだろうが、我が国は橙に対し服従を求めた」

 前置きも無く、春覇は本題に入った。戦姫は表情を変えない。覚悟はしていたということなのだろう。

「本日、橙から返事が来た。どうやら曖昧にはぐらかす腹のようだな」

 今日の朝会で宰相から報告された事だ。


 橙としては、不用意に碧に付けば昏に叩かれかねない。そうなった時に碧の援軍は期待できないとなれば、橙が碧に臣従を表明するのに二の足を踏むのも無理は無い。しかし、橙はその主戦力と言っていい戦姫を碧に押さえられている。彼女を死なせまいとするならば、昏に付くことも出来ない。

 結局、何とか二大国の間でどっちつかずの態度を保つしかないのは確かだ。これは碧側も既に予想していた結果ではある。


「我が国としても力でねじ伏せるのは本意ではない。暫し様子を見つつ両国の交流を深めようという事になった」

 春覇は敢えて言葉を選んだが、有り体に言えば、碧としてはそちらの立場は理解して臣従を表明するのは待ってやるからそれなりの誠意を見せてみろ、という態度を取ったという事である。春覇は関与していないが、「交流」「誠意」という言葉の裏で、実質上の人質を差し出させる交渉が行われているに違いない事は想像に難くない。

 戦姫が僅かに眉を寄せた。

 現状は、春覇の母が碧に来た経緯と同じなのだ。また、繰り返される。

 春覇は表情を変えない。ただ、改めて戦姫に目を向けた時、その眼差しが微かに翳った。

「それは貴女も大方理解していると思う。今呼び出したのは、これを渡す為だ」

 春覇は懐から小さな包みを取り出す。錦の袋に入った書簡だ。既に開封されており、封の紋章は二つに割れていた。

「橙の岸鵠から、貴女への文だ」

 ひくり、と戦姫の肩が動く。じっと書簡を見つめ、ゆっくりと手を持ち上げて書簡に触れた。

 戦姫が受け取ろうとした書簡を、しかし春覇は離さなかった。

「先に詫びておく。私の責任上、既に書簡の中身を見させて貰った」

「……当然のことですわ。岸鵠だって、承知の上で書いている筈です」

 戦姫は事も無げに言うが、口を開くまでの間と、伏せられた目が不安を物語っている。

「黎翡」

 春覇が、書簡を離さないまま更に言葉を継ぐ。

「貴女には、これを読まないという選択もできる」

 戦姫の手が、目に見えて震えた。春覇が念を押すことで、その内容がわかってしまったとでも言うように。

「……逃げていても、何も変わりはしませんわ」

 暫くの間を空けて、漸く戦姫は言った。

 消え入りそうな、小さな声だった。

「そうか」

 春覇が書簡から手を離す。戦姫がゆっくりと書簡を引き取るのを見届けて、戸口に向かう。

「自室に戻って読むのがいいだろう」

「……ええ、そうしますわ」

 戦姫は書簡を握り締め、足早にその場を後にした。




 結局夕刻まで子ども達の相手をさせられた私は、明日ひょっとして筋肉痛になるのではなかろうか、なんて思いながら居間に向かった。淵珪が出してくれたお茶を飲み、一息吐く。

「本当に、子どもって何であんなに元気なんだろう……」

 謎だ。

「皆将軍が大好きなんですよ。お疲れのようですし、早めに夕食にしますね」

 淵珪がからからと笑いながら言う。うちの使用人になってから私に丁寧な言葉遣いをするようになったが、豪快な性格は変わっていない。

「ありがとう……あ、お茶のおかわりを頼む」

「はいただいま」

 時に賑やかだけど、穏やかで安らかな時間。

 血なまぐさい戦いと謀略の渦巻く世の中にあって、こうして安らげる場所を持てることは、ひょっとすると、とても幸せな事なのかも知れない。

 私がまったりしている間に夕食ができ、皆が居間に集まる。その中で、登蘭が食事を載せたお盆を持って居間を出ていくのが見えた。戦姫の分だ。彼女は私達と一緒に食事を摂るほど打ち解けてくれてはいないので、登蘭か淵珪が部屋に食事を持っていって給仕をするのが日課になっている。

 因みに初め、家中の皆で一緒に食事をしていると言ったら、案の定非常識だと怒鳴られた。これが普通でないのは知っている。でも、春覇は意外と馴染んでるぞ。うちの家臣の方がちょっと畏縮気味だけど。

 戦姫の給仕当番は食事の間世話をしていなければならないので、後で別に食事をすることになる。だから、登蘭を待つ事はせずにいつも通り皆で食事を始めたのだけれど。

 暫くして、登蘭がお盆を持ったまま戻ってきた。

「あの、将軍」

 困ったように眉を下げ、私に声をかける。私は箸を置いて登蘭を見上げた。

「どうした?」

「あの……戦姫様の部屋からお返事が無いのですが」

 周りで話を聞いていた家臣達が素早く立ち上がる。互いに目語して、漣瑛が居間から駆け出した。近頃は落ち着いていた脱走の可能性を考慮したのだ。省烈が窓を開け、外に異常の無い事を確認する。

 やがて漣瑛が戻ってきて、私に報告した。

「逃げてはいないようです。気配はあります。しかし、呼び掛けには応じません」

 これまで呼び掛ければちゃんと返事をしていたのに、一体どうしたのか。様子を見てこようと立ち上がりかけた私を、引き止めた者がいた。春覇だ。

「今は、そっとしておいてやれ」

「……お心当たりが?」

 私が訊くと、春覇は頷いた。少しだけ、その目が伏せられる。

「国からの書簡を渡した」

 春覇はそれ以上何も言わない。その態度が、問うな、と言っているようで、私は家臣達に目配せした。

 たぶん、その書簡に、何かあるのだろう。恐らくは、戦姫を落ち込ませるような、何かが。

 家臣達が心得て、元通り席に着く。淵央が厨房へ行って、車輪付きの台を牽いてきた。

「これに載せて部屋の傍に置いとこう。後で召し上がるかもしれねぇ」

「ええ、そうね」

 登蘭が台に食事を載せ、再び戦姫の部屋に向かう。私は食事を再開しながら、戦姫に何があったのか考えていた。




 結局、戦姫は食事に手を付けなかった。

 翌日の朝も、晩も、そのまた翌日も。


「覇姫様」

 初めの日から翌々日の晩、ついに私は春覇に声を掛けた。

「戦姫はもう丸二日、何も口にしていません。様子を見に行った方が良いのでは……」

 そっとしておくにも限界がある。私の言葉に、春覇も難しい顔をした。

「先程、私も声を掛けてみた。しかし、返答が無い」

 気配は確かにある。しかし無言のまま、何を言っても答えない。

「部屋に踏み込もうかとも思ったが……」

 珍しく、春覇が表情を歪めた。とても悲しそうな、それでいて何かに憤っているような、そんな顔だ。

「情けない事に、私は黎翡に何と言ってやればいいのかわからない」

「……戦姫に、何があったのですか?」

 思いきって、私は訊いてみた。しかし、春覇は首を振る。

「私から言うべきではあるまい……鴻宵」

 どこかすがるような目で、春覇は私を見た。

「出来れば、お前が話しに行ってやってくれないか。事情も、黎翡が話すなら聴いてやってくれ」

「……わかりました」

 春覇も、悩んでいるのだろう。その結果、何も知らない私に任せた方が良いと判断したのかも知れない。


 食事を終えてから、私は淵央に戦姫の分の食事と、苫果を一つ貰って、戦姫の部屋に向かった。

 部屋の前に立ち、扉を叩く。返事は無い。

「戦姫、私だ」

 やはり、無言。

「……入るぞ」

 返答は無いまま。私は扉を開けた。

 戦姫は寝台に座ってぼうっと窓の外を眺めていた。もう暗いのに灯りも点けず、まるで何も目に入っていないかのように。

 私は戸を閉めると、お盆を卓に置いて燭に火を点けた。つまらなそうに転がっていた炎精霊が、火に反応して跳び跳ねる。それを横目に見ながら、私は寝台に歩み寄った。

「戦姫」

 敢えて彼女の視界を遮るように、窓を閉める。彼女の視線は動かない。

「戦姫、何か食べた方がいい」

 そっぽを向いたままの戦姫の肩に手を掛け、こちらを向かせようとする。


 刹那。


 脱け殻のようだったのが嘘のような俊敏さで、戦姫が私に飛びかかった。不意を突かれた私は、剣を奪われそうになって咄嗟に彼女の腕を掴み、引き寄せながら反対側の肩を押して寝台に押さえつけた。

「何の真似だ、戦姫」

 見下ろす私を、戦姫が鋭い、しかしどこか虚ろな目で睨み付ける。

「……る」

「え?」

 微かな声に、私は思わず聞き返した。途端に、戦姫が暴れだした。

「帰る、帰るわ!貴方を倒して国に帰る!」

 圧倒的に有利な体勢であるとはいえ、全力で暴れられれば苦しい。私は戦姫の足を自分の足で押さえ、全身で何とか彼女を押さえ込んだ。

「何なんだ、急に!」

「退きなさい!私は帰るわ!」

 暴れながら私を睨む戦姫の目に、光る物を見た気がした。

「帰るの――全部、奪われてしまう前に!!」

 奪われる……?

「落ち着け、戦姫。ここで私を倒せたとしても帰れはしないんだ」

 半ば錯乱しかけている彼女の目を覗き込むようにして、私は言った。

「苦しいなら話を聞こう。必要なら手を貸そう。だから、頼むから落ち着いてくれ」

 そんな風に泣きそうな顔で暴れる貴女を見たくはない。

 私が懇願すると、戦姫は目を見開き、それからゆっくりと手足から力を抜いた。

「……ごめんなさい。取り乱しましたわ」

 口調も元に戻っている。私は用心しながら、戦姫を放して身を起こした。起き上がる戦姫を見ながら口を開く。

「貴女に何があったのか、私は知らないが」

「春覇から聞いていませんの?」

 意外そうに言われて、私は肩を竦めた。

「覇姫様は自分から話すべき事ではないと言われたよ。私は本人から聞けという風に解釈した」

 でも、と言いつつ、寝台から離れて卓へ向かう。

「それは貴女が話したければ、だ。無理に聞き出そうとは思わない。それより」

 私はお盆を手に取って、示すように掲げた。

「落ち着いたなら何か食べてくれ。体がもたないぞ」

「……貴方という人は」

 戦姫が溜息を吐く。

「普通今の流れでそう繋がるかしら?本当に訳のわからない男ですわね」

「……褒め言葉と受け取っておくよ」

 何か今のやり取りで戦姫も少し調子を取り戻したっぽいし。本気で呆れたという視線を向けられてちょっと心が痛んだなんて気のせいだ、きっと。

「まぁとにかく、食べてくれ。もう二日も断食状態だろう」

 もう一度私が言うと、戦姫は少し眉を寄せた。

「……物を食べる気分ではありませんわ」

 だと思った。小さく頷いた私は、盆を置いた。

「でも少しは食べないと。体を壊しては何にもならない」

 私の言葉に、戦姫は自嘲気味に笑った。

「さぁ、どうかしら。私にとってはここで死んだ方が幸せかも知れませんわ」

 私は眉を寄せた。

「そういう言い方は好きじゃないな」

「貴方の好き嫌いなど知りませんわ」

 ふん、と戦姫が鼻を鳴らす。事情も知らないくせに口出しするな、と言われた気がした。

「私は貴女の事情を知らないが、一つだけ確かに知っている」

 お盆から苫果を取りながら、私は言う。

「貴女が死ねば、覇姫様が悲しむ」

 ぴくり、と戦姫の肩が動いた。私は少し目を細めて続ける。

「私も、良い気はしないな」

「……戯れ言を」

 弱々しい反駁。私は俯いた戦姫に背を向けて、小刀を取り出し苫果の皮を剥いた。

「……貴方、春覇の事を愛していますのね」

 危うく手が滑りかけた。

「……何だ、急に」

「悲しませたくないのでしょう」

 まぁ、それはそうだけど。愛情とは、違う。

 でもそれを言うわけにもいかなくて、私は曖昧に頷いた。

「思い出しましたの。貴方が戦場で言った事」

『私は妻を残して戦場から逃げたりはしない』

「……貴方の、言う通りですわ」

 戦姫は目元を掌で覆い、床を指差した。その指先を辿った私は、そこに恐らくは擲たれたのだろう書簡が落ちている事に気づく。

「読んで構いません……読んだら、火にでもくべていただけるとありがたいですわ」

 私はそっと書簡を拾った。それを読む前に、切って小皿に盛った苫果を差し出す。

「苫果だ。食べてくれ」

 戦姫が拒否する前に、続ける。

「覇姫様の為だけじゃなく、私も貴女に生きて貰いたい。先日の試合は、楽しかったよ」

 戦姫は軽く目を見開いた。私が小皿を手に持たせると、躊躇いがちに受け取り、そっと一切れ摘まむ。それを口に運び咀嚼するのを見届けて、私は燭の側に行き書簡を開いた。


『黎公主

 他国にて不自由な生活を送っておられるでありましょう事、心を痛めております。まさしく私の無力の致す所でありまして、慚愧に耐えません。どうかお気を落とされず、帰国の日まで辛抱強く耐え抜かれる事をお祈り致します。

 我が国では、一日も早く碧と友好を築き、公主のご帰還を実現すべく努力しております。燕公主も大変心配なさり、自ら碧へ行くとまで仰せになりました。争い事の一つもご存知ない燕公主を碧に遣る事は群臣皆忍びず、お諌めしたのですが、燕公主はなかなかお聞き入れになりません。もし可能ならば、公主からもどうかお止めいただきたく、この場を借りてお願い申し上げます。

 今我が国は国情穏やかならず、他国の脅威、国内の妖魔双方に脅かされ、国人皆安定を望んでやみません。我が父母もまた例に漏れず、せめて家の安定だけでもと望み、私をせっつきます。しかし私の妻となるべき貴女はいつお帰りになれるかもわからない状況で、どうして私のみのうのうと安寧を求められましょう。しかし一日も早いご帰国を願い努力を積み重ねている間にも、父母は老いを嘆き我が不孝を詰ります。人として世に生まれたからには父母を失望させる事はできません。まさに腸を断ち切る思いで、父母の希望を飲まざるを得ませんでした。貴女様の拠り所となることは叶わなくなった私めではありますが、貴女様のご帰還の為に力を尽くす事は変わりません。

 どうか御身を大事に、気を強くお持ちください。無事のお帰りを心より待ち望んでおります。

 岸鵠拝』


「……何、これ」

 私は思わず呟いた。

 だって、酷い。これは……

「面白い文面でしょう?」

 ちっとも面白くなさそうに、歪な笑みだけ口許に貼り付けて、戦姫が言う。

「ごちゃごちゃと綺麗事を並べていますけれど、結局のところ言いたいのは私を切り捨てるという事」

 岸鵠は戦姫の婚約者だった筈だ。けれどこの文面からは、彼が他の誰かと結婚しようとしている事が読み取れる。

 戦姫は、岸鵠を守って碧の捕虜になったのに。

「それに、気づきまして?」

 声音だけは愉快そうに、戦姫は言う。

「私に散々転戦させておいて、争い事を知らない燕玉を他国に遣るには忍びないですって」

 私は顔をしかめた。

「この燕公主というのは……」

「私の妹ですわ。腹違いのね」

 同じく王族の姫なのに、こうも扱いに差が出るのか。

 暫時かける言葉を見つけられずに口をつぐんだ私を他所に、戦姫がふと思い出したように言った。

「そういえば、奇しくも予見した男がいましたわ」

 膝を立てて顎を預け、視線を床に落とす。

「婚約者も、しっかり捕まえておかなければまた奪われる、と……あの男の言った通りになりましたわね」

 半ば私に語りかけ、半ば呟くように戦姫は言葉を紡ぐ。その中で、奪われる、という穏やかでない言葉が私の注意を引いた。

「奪われる、というのは?」

 不躾を承知で、問う。戦姫は別段嫌な顔もせず、淡々と答えた。

「そのままの意味ですわ。幼い頃から、私の欲したものは全て奪われてきたんですの――燕玉にね」

 平淡な声音に諦めが滲んでいる気がする。戦姫の投げやりさはこの辺りに起因するのかも知れない。

「もっとも、あの子にそんな意図は無いのでしょう。ただ、私とあの子の血筋と……性格の差が、その結果を生んだだけで」

 確か、戦姫の母は身分が低かったという事を聞いた。そして、幼い日に春覇に出会った時には既に孤独の中で決して人当たりの良いとは言えない性格を形成していたらしい。

 でも、だからと言ってそんな……

「あの子が欲しいと言えば、それはあの子のものになる。無理もありませんわ。誰だって、私のような者より、明るく優しく美しい姫の側に居たいでしょう」

 また、戦姫が自嘲の笑みを浮かべる。

「たった一つ、戦いだけは奪われませんでしたわ。誰にも」

 だから、と呟くように言って、戦姫は抱えた膝に顔を埋めた。

「だから、戦場で……守り抜きたかった」

 ああ、そうか。

 だから戦姫はあんなに必死に、自分の身を捨ててでも岸鵠を守ろうとしたのか。

 それなのに、結果が、この書簡。

 私は書簡を卓に置き、戦姫に歩み寄った。顔を隠した彼女の頭に、そっと手を置く。

「……よく、頑張ったな。今まで」


 たった独りで。

 彼女はがむしゃらに自分の居場所を求めてきたんだ。


 頭に乗せた手は、すぐに振り払われた。

「憐れみなんぞ要りませんわ。忘れたの?貴方は私の敵ですわよ」

 顔を上げた戦姫が私を睨み付ける。

 けれども、その手は微かに震えていた。

「敵、か。確かに、今はそうかも知れない。貴女が橙人である限り」

 戦姫が怪訝そうな顔をする。私の意図が掴めないらしい。

「橙の貴女の居場所は奪われた。「戦姫」としての居場所も、きっと今回の敗北で揺らいでいる」

 戦姫の瞳が大きく揺れた。彼女の最後の拠り所すら、もはや確かなものでなくなってしまった。その事を、ひょっとすると彼女は考えないようにしていたのかも知れない。

 不安に、押し潰されてしまうから。

「牧黎翡」

 私は名を呼ぶ。彼女自身の名を。

「もしも貴女が望むなら、覇姫様と私が貴女の居場所になれる」

 黎翡の目が見開かれる。その瞳に、さっと憤りが浮かんだ。勢いのままに立ち上がり、私に詰め寄る。

「馬鹿にしないで!私は曲がりなりにも橙の……」

「貴女が橙の為に戦うのは何故だ」

 黎翡の言葉を遮って、私は問う。

「貴女が心底橙を愛しているなら」

 例えば函朔が白を愛したように。

「或いは本気で守りたいものがあの国にあるなら」

 例えば爾焔が朱雀の為に戦おうとし、沃縁が沃季を守ろうとしたように。

「そしてあの国に与する確固たる意志があるなら」

 例えば春覇が、蒼凌が、揺らがぬ覚悟を据えて戦い続け、私が碧を選んだように。

「それなら、私は何も言わない。けれど」

 戦姫には、そうした意志の芯のようなものが感じられないから。

「もしも貴女が、単に自分が橙の姫に産まれたからというだけの理由で橙の為に戦うなら、それは考え直す余地があると思う」

 黎翡は呆然と私を見た。それからぐっと唇を噛み締め、最後の意地のように私の胸ぐらを掴む。

「何を、ふざけた……」

「黎翡」

 残酷なようだけれど、私は止めを刺す。

「橙は貴女を捨てたんだ」

 婚約者すら、早々に掌を返した。

「貴女を捨てた国の為に、それでも戦うほどの覚悟が、貴女にあるのか」

「私は……!」

 言い返そうとして、何も言えずに唇を噛む黎翡。

 私はそっと彼女の手を襟から外した。

「今すぐに答えを出せとは言わない」

 乱れた襟元を軽く整えながら、俯いてしまった黎翡を諭す。

「ゆっくり考えるといい。時間はまだまだ沢山有る」

 そう言って踵を返し、戸口へ向かった。途中、卓の上に置きっぱなしだった書簡を取るのも忘れない。

「ああ、そうだ」

 去り際に一つだけ、私は付け加えた。

「夕食は置いていく。気が向いたら食べてくれ。腹が減っては戦はできないからな」


 彼女はこれから、自分自身と戦わなければならない。意志を固めて橙に付くのか、思いきって碧に来るのか。それは彼女の問題だ。


 黙りこくった黎翡を置いて、私は部屋の戸を閉めた。




 翌朝、私が出仕する頃に黎翡の様子を見に行った登蘭が、どこか嬉しそうにお盆を持って戻ってきた。

 お盆の上の食器は、すっかり空になっていた。


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