戦姫
同じ頃、橙の都、圭の東郊では。
「何をもたもたしているんですの!?」
駐屯している橙軍の中核で、癇の強い声が谺していた。
「碧を攻めると決めたのならさっさと出兵するべきですわ!ここまで来て一体何をもたつく事があるというの!?」
「まぁ落ち着いてくださいよ、黎公主」
集結したはいいもののいつまで経っても動こうとしない軍に対し苛立ちを隠そうともしない女性を、傍らの男が肩を抱くようにして宥めている。
「今、核の庵氏の私兵を動かす交渉をしているそうですよ」
そう言った男に、女性は鋭い目を向ける。
「庵氏の兵は確かに優秀でしょう。でも、あれは商人の護衛、雇われ兵ですわ!軍とは気質を異にします。一緒くたに扱えば指揮系統が乱れる元になりますわ」
大体、と続けて、女性は腕を組んだ。がしゃりと鎧が鳴る。
彼女は軍装しているのであった。
「一国の正規軍ともあろうものが民の力を借りなければ戦いも出来ないとは、情けないにも程があります」
赤茶の長い髪を風に靡かせ、彼女は苛々と指で組んだ腕を叩いた。
「ぐずぐずしていては碧が軍備を固めてしまいますわ。あちらはもうこちらの情報を掴んでいる頃ですわよ!」
「心配ありませんよ。現在碧の大将軍のうち都に居るのは叙寧一人。棟凱は南の内政に忙しく鴻宵は北へ使いに行っているとか」
男の暢気な物言いに、女性は更に剣呑な目付きをする。
「こうももたついていては鴻宵が帰国してしまいますわ!それに碧にはまだ覇姫が居ます!」
男は困ったように笑った。彼の名は岸鵠。橙の有力な大貴族の次期当主である。そして、先程から軍に対する不満を露にしているのは彼の婚約者であった。これほどあからさまに軍への不満を口にして問題視されないのかと言えば、それは彼女だから許される事なのであった。
彼女の名は牧黎翡。正真正銘現橙王の血を引く姫である。
「今回の戦、相手は人なのです。妖魔相手とは勝手が違いますわ」
先程のように高い調子ではなく、低く圧し殺したような声で、黎翡は言った。
「人は我々と同じく考え、計略を立て、行動するのです。一瞬でも出遅れれば敗北に繋がる。そういう世界ですわ」
彼女がこのように言うのには理由がある。
つまるところ、橙軍は人間相手の戦いには慣れていないのである。
ここ二十年余り、橙は周囲の国々から半ば忘れ去られたような立場を保ち、他国との戦の機会を持たなかった。しかし他国とは違い、橙軍にはまだ戦うべき相手がある。妖魔である。
すなわち、橙軍の精鋭部隊は妖魔との戦いに特化した部隊であると言えた。
「そもそも我が国と碧とでは国土の広さも国力も違います。戦うのなら隙を衝いて迅速に叩くのが勝利の要ですわ!」
「あら、また不満を仰っているの?お姉様」
不意に、軍隊にそぐわない華やかな声が割り込んできた。黎翡と岸鵠が振り向いた先に、たおやかな若い娘がいる。
「……燕玉」
黎翡が呟くように彼女の名を呼ぶ。岸鵠は黎翡の肩に掛けていた手を離し、一礼した。
「燕公主。ご機嫌麗しゅう」
「岸氏様もご苦労様です」
燕玉がふわりと微笑む。優しげで儚げな、人好きのする笑みだった。しかしその笑みを前に、黎翡は眉を寄せる。
「何故こんなところへ……」
「兵士達を励ましに来たのですわ」
黎翡の問いに答え、燕玉はくすりと笑った。
「お姉様、ご不満を仰るのも程々になさらないと、岸氏様がお困りですわ」
「いえ、私は……」
岸鵠はそう言ったが、その目は燕玉に賛同しているようにも見えた。黎翡は小さく舌打ちして、幕舎の側に立て掛けていた武器を取る。
「私は戦略上当然の事を述べたまでですわ」
それだけ言って背を向けた。
「あらお姉様、軍の中を案内していただこうと思いましたのに」
「でしたら私が」
燕玉の引き留めようとする声と、彼女に話しかける岸鵠の声。それらを全て無視して、黎翡は自分の幕舎に入った。
燕玉は、発言からわかる通り黎翡の妹ではあるが、同腹ではない。燕玉は王と正妃な間に生まれた女児だが、黎翡の母は決して身分の高い人ではなかった。しかも既に亡くなっている。当然、燕玉と黎翡の間には、半ばは同じ血を引いていながらも歴然たる身分の差が存在する筈だった。しかし現在、黎翡は燕玉とほぼ対等に振る舞う事を許されている。それは偏に、彼女の実績の故であった。
幕舎に入った黎翡は、手にした武器を見詰め、ぐっと握り締めた。柄の長い鉞である。今の五国においては古風な武器に属するが、攻撃範囲が広く協力な打撃が可能なこの武器を、黎翡は愛用している。
「……負けませんわ」
黎翡は低く呟いた。その手は、上流の女性とは思えないほど使い込まれ、豆ができ傷ついていた。
戦い続けた者の手である。
「負けるものですか」
黎翡は戦いに長けていた。兵を率い、或いは自ら武器を振るって妖魔と戦う事において、橙の将軍達にすらひけをとらない。
戦い続け、実力を示し続ける事で、彼女は王族中でも高い地位を掴み取ってきたのである。
そういう彼女に、付いた称号が「戦姫」であった。対照的にたおやかで優しげな妹の燕玉は、引き比べて「和姫」と呼ばれる事もある。
「碧からは誰が出てくるかしら」
黎翡は呟いた。
「貴方と殺し合う事態にならない事を祈っていますわ……春覇」
幕舎の外からは、燕玉と将達の和気藹々とした声が聞こえる。
およそ戦陣に似つかわしくないその華やいだ場にも、戦の影は確かに、刻々と迫っていた。
その頃、核の庵氏の邸では。
「いやぁ、参ったねぇ」
次男、庵覚が私兵団の傭兵達を前に肩を竦めていた。
「政府からはお前さん達の力を貸せって矢の催促さ。橙軍はそんなに切羽詰まってんのかね」
「兵力が少ないのが不安なのさ。国が小さいんだから仕方ないよ」
傍らにいる三男、庵識が口を挟む。憮然とした表情なのは、橙の政府が彼の敬愛する人物を事実上追い出してしまったからだ。
「鴻耀さんの事だって無理矢理使おうとしてああなったってのに…学習しねぇのかな、連中は」
「識、口には気をつけなよ。政府の耳に入ると家全体がまずいことになる」
庵覚がたしなめると、庵識は口をつぐんだ。
実際、庵氏は今窮地に立たされている。商人である庵氏としては、橙の政府に逆らって交通の要衝にあるこの地の基盤を失うのは非常にまずい。かといって、私兵達を橙軍に参加させるのもまた困る。敵となる碧もまた、庵氏にとっては重要な顧客なのだ。しかもこれは内密の事ではあるが、碧の鴻宵とは友誼がある。
「衛長」
私兵達の中から、ふらりと手を挙げた者が居た。支源である。
「もし橙に俺達を貸すってんなら、俺は抜けるぜ。毎度の仕事の参加不参加は自由ってのが鉄則の筈だ」
相変わらず酒瓶を手にしたまま、彼は言い切った。周囲の何人かが頷く。庵氏の私兵団には、仕事を選ぶ自由があるのだ。
「そうなんだよねぇ……」
庵覚が溜息を吐く。この事もまた、庵氏を悩ませている一因だった。
「因みに、この仕事、うちが受けたら参加するって奴はどのくらい居るんだい」
挙がった手はまばらだった。橙政府の命令に従ったとしても、貸し出せる兵は数人という事である。
「困ったねぇ……」
庵覚が首を振った時、私兵達の後ろから声が上がった。
「戦姫を通して諌めて貰えば?」
一斉に皆が振り向く。その先に居たのは、何故か白っぽい猫を肩に乗せた青年であった。庵覚が軽く目を瞬かせる。
「慎誠。お前さん来てたのかい」
「さっき来たところだよ」
場の厳しい雰囲気を打ち壊すようにへらりと笑った青年は、先程の発言に説明を加え始める。
「戦姫はどうやら庵氏の私兵を引き込む事に反対みたいなんだよね。まぁ、普通に考えれば、不用意に民間の兵を混ぜれば指揮系統が乱れかねないし」
それに他の誰も気づかない辺りに橙軍の問題がある気がするけど、と呟いて、慎誠は庵覚の方へ歩み寄る。
「だけど彼女は公の場では発言を控えがちだから、こっちから頼まないと進言はしてくれないだろうね」
「……頼めば父王を止めてくれるってのか?」
庵識が口を挟む。慎誠は目を細めた。
「うまく頼めばね」
「……なるほど」
庵覚が頷く。慎誠の方を見てにやっと笑った。
「お前さんにとってもその方がいいんだろう?お前さん、ちょいとその使いに行ってきてくれないかい」
「元からそのつもりだよ」
そう言って、慎誠もにっと笑う。
「庵氏に橙に付かれると困る人は多いからね」
ひらりと手を振って、歩き去る。庵識が少し不安げに庵覚を見た。
「兄貴、あいつ信用できるのか?」
「まぁね」
庵覚は動じない。私兵達に解散を指示しながら、言った。
「あいつはともかく、あいつの主君はまぁ、信用出来るよ」
「主君?」
慎誠の事情を知らない庵識は怪訝そうな顔をした。それに対する説明はせず、庵覚は立ち上がる。
「さぁ、親父と兄者に知らせないと」
今頃あの二人も対応に頭を悩ませていることだろう。
促されるままに立ち上がりながらも、庵識はまだ首を傾げていた。
碧の朝廷では、今まさに橙への対策について議論が繰り広げられていた。
「あちらが仕掛けてくるなら致し方ありますまい。兵を出しましょう」
そういう意見が、大勢を占めている。実際、既に戦闘は避けられる状況に無かった。
しかし問題は、その戦費をどうするかである。
「先頃の軍制改変により、民への影響は以前ほど考慮せずともよくなりました」
そう切り出したのは、宰相の荏規である。彼の言う通り、徴兵せずとも動かせる兵があることは利点ではある。彼らの基本的な装備や食料も予め予算として割かれているから、臨時の出兵による影響は比較的小さい。
「しかしながら、橙との国境まで出向くとなればかなりの費用と手間を上乗せする必要が生じます。内政の整備が急がれる今、それを如何にして捻出するか」
「それは内政の側でやりくりしていただく外ありますまい。戦わねば国そのものが危ういのですぞ」
責任を丸投げするような発言をしたのは叙寧である。唯一都に残っている大将軍であるという気負いがあるのか、平時より発言が居丈高である。
荏規は微かに不快そうな色を見せた。尻拭いがそちらの仕事だと言われては愉快でないのは道理である。
張り詰めた空気の中、卿の席より一段後ろにいる者が声を上げた。
「恐れながら、私より一つ提案がございます」
期せずして全員の視線が集まる。白銀の髪を揺らして一礼したのは、檄渓であった。彼は普段上官である鴻宵の後ろに控える形であまり表立って発言をしないが、現在鴻宵は不在である。よってその留守を預かる檄渓の発言は、そのまま右軍そのものの意思となりうる。
「申せ」
王が声を投げた。檄渓は頭を下げ、発言を始める。
「荏宰相の仰る通り出兵は避けられず、しかしながら遠征を行うには負担が大きすぎます」
そう前置きして、檄渓はきっぱりと言った。
「それなら、近くで迎え撃てば良い。亢郊の野辺りならば遠すぎず、かつ都に危険の無い距離と考えます」
「馬鹿な」
すぐさま、叙寧が声を上げた。
「そこまで橙軍を招き入れると言うのか。途中の邑を橙が見逃すわけがない!」
「ええ。ですから、くれてやれば良いのです」
あっさりと言い切った檄渓に、愕然としたような視線が集まる。
「……何だと?」
「途中の邑には無駄な抵抗をしないように戒めておけば、損害は少なくて済むでしょう」
淡々と、檄渓は続ける。
「橙は小さい。我が国を攻めるのに、殆ど国中の兵を集めてくるでしょう」
橙と碧の間には、基本的な国力の差が厳然と存在している。それは動員可能な兵数の差となって表れる筈であった。
「つまり、この一戦で橙軍を撃ち破れば、我が国は橙の死命を制する事が出来るのです」
漸く檄渓の意図を理解した高官達が息を呑む。
「西側の諸邑など一度くれてやれば良い。最後の一戦で、橙ごと纏めて奪い返せば良いのです」
檄渓が口をつぐむと、辺りはしん、と静まり返った。これまで長年続いてきた乱世の戦では、一つの邑、一つの砦の奪い合いにも全力が傾けられたものである。
それを、いくつもの邑を敢えて敵に与え、敵国ごと取り返せとは。
「肉を切らせて、骨を断つか」
至鶯の呟きが、存外に大きく響く。檄渓は微かに笑顔を見せ、再度礼をした。
「……ならば、右軍がその任に当たるがよい」
ゆっくりとした口調で、王が言った。
「王よ……!」
「叙寧」
思わずといった風に声をあげかける叙寧を制し、命じる。
「左軍には万一に備え都を固めて貰う」
「は……!」
叙寧は慌てて頭を下げた。彼はやや混乱している。重要な軍務から外されたと落胆すべきなのか、信用して都を任されたと喜ぶべきなのか判断しかねたのである。
「紀春覇」
続けて王は声を掛けた。春覇が立ち上がって一礼する。
「右軍と共に橙軍に当たれ」
「はっ」
拝礼する春覇に視線を投げ、王は続ける。
「鴻宵も間もなく帰還しよう。お前達夫婦の働きを見せてみるが良い」
「必ずやご期待に沿う成果をご覧に入れましょう」
そう応じた春覇は、この戦に敗北は決して許されない事をひしひしと感じた。
散会後、退出した春覇は真っ先に檄渓に声を掛けた。
「ああ、覇姫様。今、こちらから伺おうと思っていたところです」
へらりと笑ってそう言った檄渓は春覇に丁寧に一礼し、彼女の斜め後ろについて歩き始めた。
「大胆な策を立てたものだな」
「窮地を脱する為には、多少の冒険は必要だという事でしょう」
その言い方に違和感を覚えた春覇は、足を止めて振り返った。相変わらずにこにことしている檄渓の内心は読めない。
「……誰の策だ」
仕方なく、春覇は直球で尋ねた。檄渓は笑顔のまま、深々と頭を下げる。
「それは言えません」
春覇は眉を寄せた。
檄渓は確実に、自分の意見ではなく誰かに言われた事をそのまま朝会で進言したという事である。しかし一体誰の策なのか。
檄渓と繋がりのある謀将としてまず挙がるのは、現在の上官である鴻宵と、以前の上官である棟凱だ。しかし棟凱と檄渓が特に親しかったという話は聞かないし、棟凱ならばわざわざ檄渓を通して発言する必要性は無い。
鴻宵ならば、檄渓に知らせる前に春覇に使いを寄越しそうなものである。それに、今回の策はどうも鴻宵のものとは考えにくい。あのお人好しが、一時的にとはいえ自国の邑を見捨てるような策をわざわざ送ってくるとは思えなかった。
大体、この二人は二人とも、情報を入手してすぐに使いを出したとしても遠すぎる場所に居る。あり得ない。
では、一体。
「一つだけお教えするなら」
目を細めて、檄渓は言った。
「覇姫様もよくご存じのお方です、とのみ」
手がかりになりもしない、逆にかき回すような事を言って、檄渓はこの話題を切り上げた。
「さぁ、参りましょう。準備すべき事が山積しています」
そう春覇を促して、歩き出す。不得要領に眉を寄せた春覇の肩を、章軌が叩いた。
「気にするな。恐らく、危険は無い」
また何か感付いているのか。
益々眉を寄せながらも、春覇はひとまず歩き出した。
誰の策であろうと、それがこちらの利になるならば乗るしかないのだ。
無事に使いの任を終え、昏を発つ日がやって来た。しかし私の内心は、達成感や安堵とは程遠い。
沃縁は、橙軍の動きが鈍いから開戦前に帰還出来る筈だと言っていた。けれども、だからと言って碧が安全という訳ではない。
戦費はどこから出す気だ。内政は大丈夫なのか。都の警備は。
「……急ぐぞ」
昏側の見送りを返した瞬間、私は衛兵に号令した。馬車が速度を速め、随行者達も一斉に駆け始める。全員騎馬にしておいたのは、やはり正解だった。
走る馬車の中、周囲の様子を見ながら進度を指示する私の脇腹は、ずきずきと痛む。傷口は大きくないとはいえ、内部を深く抉られているのだ。縫合もせずに動き回るのは、はっきり言って無茶に違いない。
それでも、耐えなければならない。
ぐっと奥歯を噛み締めて、私は指示を飛ばし続けた。




