惨敗
昏軍が落とした邑を放棄して国境の向こうまで撤退した後、軍議の席に現れた秋伊は疲れたような、安堵したような顔をしており、函逸の方は自信に溢れた態度を見せた。
「結局、碧の手を借りる事はありませんでしたね」
我々など頼るまでもなく、自力で昏軍を追い返したのだと胸を張る函逸。私は内心眉を寄せた。昏軍の撤退が意図的なものである事も見抜けずにこちらを見下してかかる態度は愉快なものではない。
「……大事に至らず何よりです。しかし、昏がまた機を伺って攻めて来ないとも限らない。国境に守備兵を置いておかれるのがよいでしょう」
努めて冷静に言って、そして最後に付け加える。
「兵が足りないようならば、我が兵をお貸ししてもよい」
「馬鹿な!」
国境守備という重要な役目に、碧の兵をつける可能性を示唆した私に、函逸が激昂する。
「昏との国境に碧兵を置くなどできるものか!」
「ならば、この度率いてきた兵を多めに守備に残すのがよろしい。昏は必ずやまた来ます」
半ば本気、半ばは挑発。
戦いは既に始まっている。
「そのような……っ」
さすがにその続きは口には出さず、函逸がこちらを睨む。
函逸は、私が白軍の兵力を削ろうとしていると捉えただろう。随分こちらを敵視しているらしい様子から見て、都からの噂も耳に届いているのかも知れない。
「……我が国の防衛は我が国で考えます。口出しは控えて頂こう」
忌々しげにそう言って、函逸は席を立った。小さく息を吐く私に、秋伊が控えめな声をかける。
「少し……よろしいだろうか、鴻将軍」
「構いませんが」
秋伊の希望を呑んで人払いをし、難しげな顔をした秋伊と向き合う。秋伊は少し躊躇うように口を動かした後、真っ直ぐに私を見上げた。
「単刀直入に言う。気をつけよ。碧軍が救援にかこつけて白の領内から乱をおこすのではないかと言う者がいる」
私は答えない。ただ、軽く頭を下げた。
「お気遣い、痛み入ります」
少しだけ、罪悪感が湧く。
まだ指揮官として幼い秋伊には、想像もつかないのだろう。
その噂を、他ならぬ私の手の者が流したなどという事は。
「公子も、現状では難しいお立場でしょうが、何卒お気をつけ下さい」
そう言っておくくらいしか、今の私には出来なかった。
撤退の準備を終え、明朝の出発を白軍と打ち合わせてから幕舎に戻った私は、燭に火を点けた瞬間に目に入った人影にびくりと肩を跳ねさせた。反射的に剣に手を掛ける。
「そう警戒しないで下さい。僕です」
「……沃縁」
ゆっくりとした動作で近寄ってきた男の顔を確認して、私は溜息を吐いた。
「本当に見事に気配を消すな、お前は」
「そういう場数は十分に踏んでいますから」
私だって周囲の気配に決して鈍くはないのだけれど、沃縁には隙を突かれてしまう。心臓に悪い。
軽く息を吐いて、私は報告を促した。白の都の情報についてはちょくちょく知らせてくれていたけれど、もう一つの頼み事のこともある。
「工作は粗方済みました。あまり上層まで入り込もうとすると僕の顔を知っている者がいないとも限りませんので、そこそこで引き上げましたが」
「そう。ご苦労様。どうやらその成果がこちらにも出ているみたいだし、よくやってくれた」
私が沃縁に頼んだこと。
それは、碧軍が白の領内を通ることに対する白側の不安を煽ることだ。それがうまくいった結果として、先程の函逸のあの態度がある。
昏軍は退いた。これで恐らく、疑心暗鬼に駆られた白はこちらの軍に対して何かしかけてくる。
あちらからしかけてくる事が重要なのだ。
戦端を開く口実とする為に。
「では、僕ももうここに居ていいですか?」
一仕事終えたという疲れの気配すら感じさせず、どこか上機嫌にも見える笑顔で沃縁が言う。
「構わないが……あ……」
許可しようとした私の脳裏に、沃縁の顔を知っている人間の面影が映る。
「多分、秋伊の近くに函朔が居る。気取られないよう気をつけて欲しい」
私がそう言って注意を促すと、沃縁はああ、と声を漏らした。
「公子の側に居るのですか……よく函逸が黙っていますね?」
「見つからないように紛れてるんだろう」
私も函朔の姿をはっきり見たわけではない。しかし函朔が秋伊からそう遠くないところに居るだろう事は直感的に確信していた。
「わかりました。碧の軍装に着替えた方がいいですね?」
「うん。漣瑛に言って一式用意して貰え……ところで」
「はい?」
胡乱な目で見上げる私に対し、笑顔を崩さない沃縁。
「……この手は何だ」
その手が、私の肩を抱いている。振り払おうとすると、逆にぐっと抱き寄せられた。
セクハラ禁止って言ったのに!
「離せ」
「少しくらいいいでしょう?一仕事終えて来たんですから」
甘えるように抱き締めてくる沃縁に、私は溜息を吐いた。
強かなようでいて、なかなかどうして餓鬼なのだ、この男は。
「沃縁」
「はい?」
「いい加減、何かに執着して自分を保つのはやめたらどうだ」
私の肩に回された腕が、一瞬ぴくりと強ばる。見上げると、何とも表現しがたい、苦笑と自嘲、それに悲しみをない交ぜにしたような表情が私を見下ろしていた。
「……厳しいですね、鴻宵さんは」
「甘やかしても良い事は無いからな」
妹の為に生きる、という一心で、その目的に一種の執着を抱いて生きてきた沃縁は、太子皓武と妹の死によって目的を見失った。そして私の下へ来た今も、まだ自分の足で立てていない――今度は私という主君に執着する事で、自分の生きる目的を作り出そうとしている。
いつまでも、そうしているわけにはいかないだろうに。
「かなわないな……」
小さく呟いて、沃縁は腕に力を込めた。思い切り抱き締められて、少し息苦しい。
「ちょ……」
「もう少し」
抗議しようと口を開いた時、沃縁の低い声が耳に届いた。
「もう暫くだけ、貴女に寄りかかっていさせて下さい」
いつかは自分の道を見つけるから。
だから、今少し。
囁きにも似た懇願に、私は再度溜息を吐いた。
「わかったよ……離せ。さっさと軍装を整えて来い。寄りかかる以上はきっちり働いて貰うから」
「はい」
穏やかな笑みを浮かべて、沃縁は部屋を出ていった。
北に向かっていた時とは違い、白軍と碧軍は併走する形で都、昴へと向かっていた。函逸が右翼に居て秋伊の身辺にいないのを見計らって、函朔は秋伊の車のすぐ後ろに控えている。彼も昏軍があまりにあっさりと退いた事に違和感を覚えてはいたが、それが何故なのか、判断する材料を持たなかった。
「申し上げます!王都より急使が参りました!」
兵士が報告して、早馬で駆けてきた使者が秋伊の前に膝をつく。函朔はそっと様子を窺った。
急使が秋伊に書状を渡す。それを開き、黙読した秋伊の肩が、震えた。
「これは……このようなっ」
「王命にございます、公子」
函朔の居る位置から僅かに窺える秋伊の顔色が、見る間に真っ青に変化していった。
「父上が、これを……?」
「王直々の書状にございます」
それを聞いて、秋伊は俯いた。恐らく、唇を噛みしめているのだろう。まだ幼い肩が震える。
「では、くれぐれも命を違えられませぬよう」
使者は、それだけ言うと秋伊の返答を待たずに立ち去った。
まるで、秋伊の言葉など必要無いのだ、というように。
「……函朔」
ややあって、じっと俯いていた秋伊が小さく名を呼ぶ。函朔はさっと進み出た。
「これに」
「教えてくれ……余は……」
力無い声が、縋るように函朔に向けられる。
「余は、どうすれば良い……?」
秋伊の手から滑り落ちた書状が、函朔の前の地面に、微かな音を立てて広がった。
都に向かい始めて数日。
最初に気づいたのは、檄渓だった。
「妙ですね」
進軍中、檄渓は自ら中軍までやってきて、私に白軍の様子を示した。
「白の中軍がやけに緊張しているようです。それに、両翼が遅れ気味ですね」
「確かに……」
よくよく気をつけて見てみると、檄渓の言うとおりだった。白軍の両翼が少し遅れ、更にその遅れに紛れるようにして右翼が徐々に離れていっているようでもある。
函逸が何か単独行動を起こそうとしているのだろうか。だがそうすると中軍に漂う緊張感の説明が付かない。
「先程偵察の兵を出しましたが、戻りません。恐らく……」
檄渓が苦い顔で言葉を濁す。私は気を引き締めた。
そんな状態が続いて、三日目のことだった。白軍はもはや中軍のみが我々と平行し、右翼は半ば離脱状態にある。その穴を補うように左翼が変形して陣形を整えた頃、ついに白軍はこちらに使者を寄越した。
「昏の脅威も去りました今、我が国の領内に碧の大軍がなおも駐留しております事に不安の声が出ております。他意が無いと仰せならば、三日以内に国境を出ていただきたい」
喧嘩を売っている。
正直言って、その一言に尽きる。
三日、という期限は不可能ではない。一番近い国境線まで昼夜兼行でひた走れば、恐らく実現できるに違いない。
しかし、要請に応えて救援に駆けつけた他国の軍を相手に、これはあまりに礼を失する言い分だ。
「無論我らに他意など無い。しかし三日とは……」
使者にそう返しながら、私はちらりと使者の顔色を見た。どうやら肝の据わった者を選んだらしく、この状況でも堂々としている。
「守って頂けなければ、我らも相応の対応にでる他ございません」
「……そうか」
つまりこれは、一種の宣戦布告だ。
「善処しよう」
使者を下がらせた私はすぐさま碧へ使いを出し、白軍の周囲を探る偵騎を多めに放った。
「始まりますか」
「ああ」
檄渓の呟きに頷いて、私は剣を握りしめた。
嫌味な程に青く晴れ渡った空に翻る軍旗が、風を受けてばさりと音を立てた。
期限の三日が過ぎた。
白側は、碧軍の勧告無視を理由に碧を糾弾し、碧軍を急襲した。当然、こちらも予想していた事だから、狼狽えることなく迎え討つ。
とはいえ、最初から総力でぶつかったわけではない。攻撃を掛けてきたのは白の左翼と中軍の一部だったので、こちらは角容率いる左翼で対応した。その間、行軍に遅れていた白の右翼が碧軍の背後を突く構えを見せたので、そちら側には檄渓を配した。
小競り合いと言うには大規模な、しかしどちらも決して全力ではない、そういった妙な戦闘が始まる。どちらも勝負に出ようとしない戦は当然長引くものだが、戦場が白の領内である以上、長引けば長引く程、補給線の確保が困難なこちらが不利になる。
しかし白軍が妙な陣形を取っていることもあって、なかなか一気に片をつけに踏み切るのは難しかった。
「白軍の狙いは何だ……?」
地図を広げ、陣形を書き込みながら、私は首を捻った。
互いの軍の主力が東西に並んでぶつかり、白軍の右翼のみが碧軍を北側から攻撃する形になっている。側面を突く作戦と言うには、あまりに緩い。
「何か心当たりはないか?」
私の問いに、地図をのぞき込んでいた角容と檄渓は首を振った。
「右翼の意図がわかりません。将は函逸でしたね。函猛の息子にしては、あまり話を聞きませんが……」
「目立った才は無いようですよ。公子秋伊とはあまり折り合いが良くないようです」
そんな言葉を交わしながら、右翼の行動を分析しようとするが、やはり今一つ読み切れないようだった。
「ところで、補給路はどうなっている」
私が話を変えると、すぐさま檄渓が地図を示した。
「南側から、この道を通って来られるよう確保してあります。やや道が険しいので、天候が崩れると遅れる可能性もありますが」
「天候か……」
当然ながら、この世界に便利な天気予報なんて無い。大抵、自分で空や風の流れ、動植物などを見て判断しなければならないが、経験が少ない分、私はそれが苦手だった。
「崩れそうか?」
「数日は心配無さそうですが、西では長雨が続いているそうですから、もし西風が吹けば……」
そう言いながら檄渓が示したのは、ここより大分西にある山だった。その辺りでは、今かなりの雨が降っているらしい。
「そうか。いずれにせよ、早めに片をつけなければ」
右翼の意図は相変わらず不明だが、仕掛けるしかない。
私は全軍に号令を出した。
その頃、妖魔の掃討を終えて国境まで退却していた紀春覇は、使者が逐一知らせてくる情報を元に、地図上に戦況を再現していた。
「何だ、この白軍の動きは」
書き込みを終え、眉を寄せる。彼女にもまた、白の右翼の動きが読めなかった。
「申し上げます!」
考え込む春覇のもとに、兵士が報告に来た。
「棟将軍がお見えです!」
「棟将軍が?」
意外な来客に、春覇は目を瞬く。
否、考えてみれば強ち意外でもなかった。棟将軍は紅の旧領の事後処理を任され、今も南方に留まっている。比較的近くにいるので、様子を見に来たのだろう。
「やあ、覇姫様。ご無沙汰しておりましたな」
兵士に通すように命じて程なくやってきた棟凱は、陽気に笑いながらそう言った。相変わらず歳を感じさせない振る舞いだ。
「棟将軍。ご健勝で何より」
「はは、ここのところ書類ばかり相手にしておりますのでな。体が鈍りそうですわい」
豪快に笑った棟凱は、広げられた地図に目を留めた。
「ほぅ、それが鴻将軍の向かっておられる戦場ですか。拝見しても?」
「どうぞ」
棟凱は碧随一の兵略家である。何か気づくことがあるかも知れない、と、春覇は地図を見せた。
じっと地図を見つめる棟凱の目が、さっと戦場以外の場所に走る。
「……覇姫様。白の地形に詳しい者を探していただけませぬかな」
低い声で、棟凱が言った。その様子にただならぬものを感じ、春覇はすぐに兵士の中から該当する者を探すように命じた。
「何かお気づきか、棟将軍」
「ふむ……確か、西では長雨が続いておるという話でしたな……」
難しい顔で呟く棟凱の元に、地形に詳しいという兵士が駆けつける。その兵士と何やら言葉を交わしていた棟凱が、はっきりと顔色を変えた。
「覇姫様、この右翼の将は……」
「函逸と聞いている」
緊迫した空気が場を満たす。棟凱が鋭く目を上げた。
「すぐに早馬を出しなされ。――全滅しますぞ」
どこかで、遠雷が轟いた気がした。
鎧甲を身につけた私は、馬に跨って自ら中軍旗の下に立った。
「一気に押し潰す!檄渓は左から、私が右から行こう」
両側面を騎馬で叩きつつ、中心部を歩兵で押し切るつもりだ。騎馬は私と檄渓が率い、歩兵は角容に預けた。白の右翼は、檄渓配下の軍吏に兵を分けて押さえさせてある。
鼓が鳴った。
両側面に食い込んだ騎馬隊が、白軍の隊列を引き裂いていく。本気の様子を見せる碧軍の気迫に、白軍は目に見えて圧され始めた。
「止まるな、駆けよ――」
そう鼓舞していた私の前に、白の中軍から飛び出してきた一隊が立ちはだかった。
乱闘になる中、騎馬が一騎、真っ直ぐに私に向かってくる。身なりから伺える身分は高くない。しかし、私はとっさに他の敵を周りに任せ、その一騎を正面から迎え討った。
「やはり戦うことになるのか……」
「わかっていたことだ。きっと……避けられなかった」
打ちかかってきた棒を剣で受け止め、せめぎ合いながら押し殺した声で会話を交わす。
簡素な兜の下から、澄んだ瞳が私を睨みつけていた。苛立ちを籠めるかのように、半ば力任せに剣を弾かれる。馬を引いて体勢を立て直した私は、彼の後ろ、中軍旗の側からこちらを見ている秋伊の姿を見た。
「もう……戦うしかないんだ」
低く呟く声が聞こえると同時、棒が鋭く私の喉を突こうと突き出された。私はそれをいなし、真剣な視線を返す。
「来い。受けて立とう……函朔」
棒が唸り、剣が空を裂く。一騎打ちが始まった。
周りにいる兵士達が、両軍とも固唾を呑んで見守っている。
何度、武器を合わせただろう。函朔と渡り合っていた私の視界の隅に、本隊から離れている白軍の右翼から立ち上る煙が偶然映る。
あれは、狼煙――?
何かたくらみがあるのか。私がはっとして手綱を引き絞ろうとした時。
「――はっ!」
「っ……!」
真剣さに於いて勝ったのか、函朔の棒が私の鳩尾を衝く。
鎧の金具の合わせ目を狙って繰り出された一撃は、それなりの衝撃を私に与えた。
危うく落馬しそうになるのを何とか踏みとどまり、続いて喉を狙ってきた棒を間一髪でかわす。逸れた棒に沿って懐に入り込み、剣の柄で脇の下を狙った。それは咄嗟に棒を手放した右手に防がれたが、私はその勢いのまま函朔を落馬させようと体当たりを掛けた。
「……っ!」
均衡を崩しかけた函朔の片腕が私の首の後ろに回り込み、もう一方の腕で私の喉を圧迫するように挟む。私が咄嗟に片手を間に挟まなかったら、最悪そのまま首を折られていたかも知れない。
それは回避できたが、依然として私の首は圧迫されているままだ。
「かん……さ、くっ」
何とか逃れようともがく私と、函朔の視線が一瞬交わる。
「鴻宵……」
函朔の瞳に、何かの感傷が流れた気がした。
「将軍!」
漣瑛の声が聞こえ、横から斬りかかった剣を函朔が腰の剣を抜いて防ぐ。その拍子に函朔の腕から逃れ、私は咳こんだ。
それと、ほぼ同時だった。
雷鳴にも似た、轟音が戦場を包み込んだ。
紀春覇の命を受けて、夜を日に継いで駆け続けてきた早馬の使者は、眼前に飛び込んできた光景に、とっさに馬を止めた。
「ああ――」
彼の馬は緩やかな丘の上に立っており、そこからは碧、白両軍が一望できた。
「間に合わなかった……」
天を仰いで、彼は呻くように言った。
その眼下に、濁流に押し流される両軍の姿があった。
信じがたい速さで押し寄せた水が私に触れる寸前、獣としての本能か、いち早く反応した残雪が跳びすさった。漣瑛の馬も、普段から残雪を追う癖がついているのだろう、一拍遅れたが素早く身を引いた。
その目の前を、凄まじい勢いで濁流がなぎ払っていく。
「な……」
濁流に両軍が飲み込まれる寸前、函朔が秋伊に手を伸ばすのを見た気がした。
呆然とする私の前を、濁った怒濤が過ぎ去っていく。
突如押し寄せた水流は、碧、白両軍の大部分を壊滅状態に追い込んでいた。
「何だ、これ……」
そう呟く事しかできなかった。激流は何もかも押し流していく。
白の計略?
いや、だって、この水は碧軍だけでなく、白軍の主力も押し流した。
秋伊も、函朔も。
「将軍」
同じく呆然と濁流を見ていた漣瑛が、我に返ったように馬を寄せてくる。その顔色が真っ青なのを見て、私もこんな顔をしているのか、と漠然と思った。
「漣瑛……とにかく、残っている部隊を確認しないと……」
混乱状態のままそう言った私の耳に、激しく撃たれる鼓の音が届く。はっと目を転じると、本陣からは離れた場所で碧軍とせめぎ合っていた白の右翼が、勢いづいて碧軍を押し、濁流に叩き込んでいた。
「まずい、残兵を集めろ!」
私は慌てて指示を飛ばしながら、崩れていく隊の救援に向かう。碧兵は混乱しきってしまっているようだった。襄斉と汪帛が青い顔をして必死に兵を督励しているのが見える。
「気を確かに持て!私はここにいる!まだ戦える!押し返せ!」
叫びながら、私は手近な白兵を車からたたき落とした。私の声を聞いた兵士がほんの少しだが落ち着きを取り戻し、白軍に向き直る。その動きが波及していくのを見ながら、私は白軍に深く切り込んでいった。
「将軍!無茶です!」
漣瑛の声が聞こえる。しかし、私は止まらなかった。一心に白軍の中心部を目指す。
この右翼はやけに落ち着いている。すなわち、あの激流の事を予め知っていたという事だ。
何故、誰が、あんな事をした?
「あれが碧の大将軍鴻宵だ。あれを討ち取った者には恩賞を弾むぞ!」
そんな声が白軍の中から響き、兵士達が歓声を上げて押し寄せてくる。私は声の主を睨んだ。
「函逸!」
私の怒声を浴びても、函逸はせせら笑っていた。
それを見て、理解する。
あの濁流の堰を切ったのは、この男だ。
「貴様、自軍まで……!」
声が掠れるのにも構わず、私は吼える。
信じられなかった。この男は、味方の本陣を囮にして、敵軍諸とも押し流したんだ。
「丁度良かったのだ」
冷笑を浮かべたまま、函逸は言う。
「白としては別に同盟国である碧と争うつもりなど無い……しかしながら甚だ遺憾な事に、叛徒公子秋伊とその配下が独断で国の総意に背き、鴻将軍の兵を襲った。私はそれを止めようと尽力したが、既に碧軍は壊滅、やむなく反乱軍を討って帰途につく」
にやりと笑って、函逸は私を見た。
「なかなか佳い筋書きだろう?」
「貴様ッ!」
怒りに眼前が白くなる心地がする。そんな私に、右翼の白兵が殺到した。それを矛で殴り倒しながら、がむしゃらに前に進もうとする。
「将軍!」
漣瑛の声と精霊達の悲鳴が重なって聞こえた気がした。
はっとするより早く、肩に衝撃を感じる。
矢が二本、左肩に深々と突き立っていた。一本は鎧の革を貫通して、体まで届いている。
「……っ!」
その衝撃に押されるように落馬した私は、坂になった地面を転がって濁流に落ちた。
全身に冷たさを感じた時、何か叫ぶ声と、続く水音を聞いた気がした。
鴻宵が矢を受けて濁流に転がり落ちたのを見た漣瑛は、迷わず水に飛び込んだ。濁流から当初の勢いは失われており、何とか流れに捕らわれずに動ける。鎧の重みに沈みそうになって、漣瑛は兜をかなぐり捨てた。視界の利かない水の中、手探りで主君を探す。
華奢な手首を探り当てた漣瑛は、ぐったりと力の抜けた体を抱き寄せて水面に向かった。
「ぷはっ!」
何とか水面に顔を出した漣瑛は、流れの弱まった水の中に留まっている壊れた兵車に縋って体勢を保った。
「将軍!しっかりしてください!」
意識の無い鴻宵に必死に呼びかける。そこへ、白軍が押し寄せようとした。
「――漣瑛さん」
呼びかけられて、漣瑛はいつの間にか水際に立っている男がいることに気づいた。こちらに背を向け、寄せてくる白軍を迎え撃つように立ちはだかっている。
「そこから、動かないでください――絶対に」
静かに言った男が、何かを呟くように唱え、手を振る。
先頭近くにいた白兵の武器が、相次いで砕けた。
「え……」
突然の事態に目を見開く兵士達に、砕けた刃は容赦なく襲いかかる。
響きわたる絶叫。漣瑛は思わず顔をしかめた。
濃い血の臭いが立ち上り、兵士達の足がすくむ。
「さぁ」
平然とそこに立つ男は、ゆっくりと口角をあげた。
「次に死にたいのは、どなたですか?」
誰も進み出ようとはしない。函逸が顔を歪めた。
「貴様は……」
「ああ、お久しぶりですね、函氏」
何食わぬ顔で挨拶をして、沃縁は倒れた兵士の手にあった弓を拾い、おもむろに矢をつがえた。
「退いてください、函氏」
ゆっくりと弦を引きながら、沃縁が言う。
「迂闊に僕の射程に入ったのが運の尽きです」
さっと函逸が青ざめた。沃縁の口元に、ちらりと笑みが浮かぶ。
「僕の射る矢は決して外れない……ご存じでしょう?」
函逸は、唇を噛んで沃縁の手元と、その背後に庇われた鴻宵を見比べた。それから大仰に舌打ちをして、馬首を返す。
「退け!」
沃縁たった一人の前に、一万近い白兵が退いた。漣瑛はふと、以前に鴻宵が言っていた事を思い出す。
――沃縁は、金精霊を操る。だから、万一沃縁と争う事態に陥ったなら、絶対に刃物を持ち出してはいけない――。
まったく、また大変な人間を味方につけたものだ、この主君は。
ぐっと鴻宵を抱く手に力を籠めた漣瑛の前に、沃縁が手を差し出す。
「鴻宵さんは」
「水はあまり飲んでいないようですし、矢傷も命に別状は無い筈です」
その手を借りて水から上がりながら、漣瑛は答える。鴻宵の体を地に横たえ、鏃が残らないよう慎重に矢を抜いた。
鴻宵が、小さく呻く。
「将軍、聞こえますか」
傷口を縛って応急処置を施しながら、漣瑛は声をかけた。傷は重くはないが、暫く左腕を吊ることになるだろう。漣瑛の声が届いたのか、鴻宵がうっすらと目を開けた。
「漣……瑛……」
「はい」
意識をはっきりさせようと瞬きを繰り返す鴻宵を見ながら、漣瑛の胸に浮かんだのは、この人はやはり女性なのだな、という些か場違いな感想だった。傷の治療の為に触れた肩は普段の見た目から想像するより更に華奢で、こうして横たわっていると、とても男には見えなかった。
「対岸の生き残りが渡河を始めたようですよ」
沃縁の言葉に顧みると、だいぶ流れも遅く、水量も減って浅くなった流れを渡ってくる一隊が見えた。鴻宵が起きあがろうという動きを見せたので、漣瑛はその背中に手を添えた。上体を起こした鴻宵は、周囲を見渡して唇を噛む。
「惨敗、か……」
小さな呟きが、苦く響いた。




