策謀
白の領内に入り、春覇を筆頭として妖魔の駆除に尽力していた私達のもとに、都で太子が再び白蛇に襲われたという報せが届いた。
幸いにも宗伯府の対応が間に合った為、太子も、ちょうど傍にいた公子詠翠も無事だと言う。
「まったく、後顧の憂いが絶えんな」
春覇が苦々しげに呟く。
まったくだ。私は肩を竦めた。
「気がかりではありますが、我々はまだまだ帰れそうにありませんね」
厄介な事に、妖魔は倒しても倒しても次が発生する。加護を失ってから日を重ねるに従って、数が増えているようだ。
白の都も、平穏というわけにはいかないらしい。前太子を排除し、後継の地位に納まった夷鉄が、不安要素を除くために他の公子達を迫害しようとしているという噂が聞こえてくる。いち早く昏に亡命しようとした公子が捕らえられて斬られたという情報もある。……秋伊は、どうしているだろう。
「申し上げます!」
不意に、伝令の声が響いた。私と春覇は目を見交わし、申せ、と声をかけた。
「昏が白の国境を侵し、奎邑を囲んでおります!」
来たな、と呟いたのは誰だったか。
「南辺の妖魔にいつまでもかかずらっているわけにはいかなくなった。早々に片をつけるぞ」
春覇が鋭い声で言う。それに了承を返して、私は兵士を動かした。
現在この周辺で確認されている妖魔は五体。これらを掃討してもまた次が出てくるだろうが、重要なのは、すべて掃討したという形式だ。
随分小狡い事を考えられるようになった、と内心苦笑しながら、私は馬を進めた。
南辺の妖魔が一通り片づいた頃、白の都から救援要請がきた。昏の侵攻が予想以上に激しく、白軍だけでは支えきれないという事だ。我々は軍議を開いた。
「此処は覇姫様にお任せしてよろしいですか」
開口一番、私がそう言うと、予想していたのか、春覇はすぐに頷いた。
「角容も鴻将軍にお預けしよう。こちらに人手はそう必要ではない」
大きな妖魔はあらかた片づいている。後は新しく発生するものを虱潰しに倒すだけだ。この地域だけなら、春覇一人でも十分なくらいだ。他の地域にも妖魔は発生していた筈だが、主立ったものは朱雀によってこちらにおびき寄せられている。
「それでは、ここはお願い致します」
私は此処に春覇と数百の兵を残し、残りの兵を率いて北上することにした。
「武運を祈る」
「覇姫様も」
春覇と別れの挨拶を交わし、馬に乗る。五万弱の兵のうち、檄渓と角容に一万五千ずつ任せ、私が残りを率いて北へ馬首を向ける。
「これより、白軍の救援に向かう。白領を縦断することになる。急ぐぞ!」
兵士達が喊声で応え、軍が動き出す。強行軍になるが、元々覚悟の上で選んだ兵達だ。何とか兵力を保って北上できる筈。
「昏軍の兵力は七万、帥将は叡循貴、それに璃黒零が同行しています」
進軍の最中も、情報を集め続ける。
黒零と、対峙する事になるのか。
人間達の闘争も葛藤もあざ笑うかのように、空は青く晴れ渡っていた。
白の都、昴では、不穏な噂が広まりつつあった。
曰く、碧軍の進軍は手際が良すぎる。妖魔対策にしては兵数も多いし、白の救援にかこつけて、返す刀で白を討つつもりではないか。
まことしやかに囁かれるその噂に、次第に疑念と不安が高まっていく。
「今のうちに碧軍を叩いてしまった方が良いのでは」
「いや、今はまだ、昏を追い返すのに碧の力を利用したい」
「第一同盟はどうなる」
様々に議論が交わされる中、公子秋伊はできるだけ目立たないようにひっそりと暮らしていた。他の公子達も同様だ。今は太子となった夷鉄は、継承権を持つ公子達を危険視している。いつ、どんな理由で罰せられるかわからない。彼らは生き延びる為に、ただただ息を潜めるようにして暮らしていた。
そんな秋伊に、来客があった。
人目をはばかるように日暮れ時に訪ねてきた男が告げた名前を聞いた途端、秋伊は走り出していた。
「函朔!」
門の内側に通されてこちらへ歩いてくるところだった人物に飛びつく。いきなり抱きつかれて、その人物――函朔は一瞬よろけかけたが、踏みとどまって秋伊の背に手を添えた。
「ご健勝ですか、秋公子」
「余は何ともない。そなたは?けがはないか?」
函猛が世を去り、太子の与党が一掃された今、秋伊にとって函朔は僅かに残された味方だった。早くに函家を離れていた筈の函朔と秋伊に面識があるのは、偏に函猛が二人を引き合わせていたからだ。思えば、函猛は函逸が秋伊の味方になり得ない事を見越して、函朔と秋伊を会わせたのかも知れない。
「私は無事です。それより、公子」
話しながら室内へ入った函朔は、周囲に人払いを命じて声を低めた。
「公子のお立場が、今非常に危険な状態にあるのはわかっておられますね?」
「無論だ」
頷いた秋伊は、苦い顔をしている。
現状では、秋伊はいつどんな理由を付けられて排除されるかわからないのだ。公子夷鉄は自分に代わって王位を継承し得る公子達を煙たがっているし、王もそれを制御しようとする様子は無い。そしてその公子達のうち、国随一の将軍である函猛を傅として付けられ、将来を属目されていた秋伊は、王の次男である公子冶金に次いで警戒されているのだ。
「国を出られませんか、公子」
函朔が低く言う。その際どい提案にも、秋伊は驚かなかった。現状を考えれば、身を守る手段として亡命は十分に考え得るからだ。
しかし、秋伊は首を横に振った。
「余には伝が無い。運良く国を出られたとしても、受け入れてくれる者がおらぬ」
既に亡命を試みて失敗した公子がいる。公子夷鉄もこちらの亡命の動きが読めない程鈍くはないという事なのだろう。況してや、紅が滅んだ今、亡命先は昏か碧しか無く、そのいずれにも秋伊に手を差し伸べてくれそうな伝は無い。白と同盟を結んでいる碧は求められれば秋伊を白に差し出してしまうかもしれないし、昏にしたって秋伊を匿って得になるかと言えば難しいところである。つまりどちらの国にせよ、亡命してきた白の公子をどう扱うかは全くの未知数なのだ。
「伝なら、あります」
身を屈め、殆ど耳打ちするようにして、函朔が小声で言う。
「公子が亡命をお望みなら、鴻宵がうまく計らってくれるでしょう。碧に逃れさえすれば、安全は確保できます」
秋伊は目を見開いた。それから、ぐっと眉を寄せる。
「それは……あるまい」
脳裏に駆け巡るのは、もう二年以上も前の出来事。
「鴻宵は、余を恨んでいよう」
あの時、何も知らない秋伊が鴻宵を王城になど引っ張って行かなければ、鴻宵は牢に囚われる事は無かったに違いない。どういう方法を使ってかは知らないが、鴻宵が逃げ出せたから良かったようなものの、そうでなければ鴻宵はあのまま処刑されていたのだ。
冷酷極まり無い、朱宿として。
「それは違います、公子」
はっきりと否定を口にした函朔は、何故だか半分呆れたような、それでいて暖かい物に触れてでもいるかのような、柔らかい表情をしていた。函朔のそんな表情を初めて目にした秋伊は、気圧されたように口を噤む。
「鴻宵は、公子を恨んでなどおりますまい」
柔和な苦笑を浮かべたまま、函朔は言った。
「あれはああ見えて、無類のお人好しです」
冷静に、厳格に振る舞いながらも、どこか他人を切り捨てきれない甘さが、鴻宵にはある。
そう語る函朔を見て、秋伊は鴻宵の面影を想起し、目を伏せた。確かに、鴻宵には暖かみがあった。
「お選びください、公子」
瞬きの間に表情を厳しく引き締めた函朔が、秋伊に決断を促す。
「鴻宵を頼って亡命なさいますか、それとも、白に留まられますか」
「余は……」
秋伊は迷いを振り切るように頭を振った。答えは決まっているのだ。
「余は、この国に留まる。一人だけ逃げ出しても何にもなるまい」
荒れてはいても、白は自分の生まれ育った国だ。況してや自分は王族。国とその歩みを同じくしたい。
秋伊のその答えに、函朔は目を細めた。
「わかりました」
地に膝をつき、頭を垂れる。
「どうか、この函朔をお供の端にお加えください……どこまでも、お供致します」
「許す」
秋伊は函朔の顔を上げさせ、その手を取った。
「情けない話だ。余にはもう、そなた以外に信じられる臣がおらん」
俯く秋伊の様子が、この国の現状を映し出す。函朔は気を引き締めて、改めて秋伊を護ると誓った。
それが父の遺言であり、また自分の愛してやまないこの国の、微かな希望を護る事でもあると信じて。
奎邑を陥落させた昏軍が、次の邑である婁陰に向かった。
私達は、ちょうど畢の郊外の辺りをひた走っている。
「思ったより侵攻が速いな」
「どうやら璃黒零が表に出てきているようです」
馬を進めながら、檄渓と言葉を交わす。私は少し眉を寄せた。
正直、ここで昏と本格的にぶつかり合いたくはない。何とか手を引かせられないものか。
「申し上げます!」
早馬が駆け込んできて、私達は一時進軍を止めた。白からの使いだ。
「都より、増援の軍が出ます。碧軍には、その兵と合流の上、戦場に向かって頂きたく…」
白軍も兵力を増強する。私は檄渓に目を遣った。言葉は発せずに、目配せで意志を疎通する。
「承知した。では、東郊で合流しよう」
白の我々に対する警戒が強まっているという事だろう。表向きは同行し共に戦う友軍だが、その実、体の良い監視役であるに違いない。
「まぁ監視されて困るような行動をするつもりも無いしな」
「こちらは、ですね」
私の呟きに、檄渓が小声で返す。
その通りだ。
それぞれの思惑をはらんだまま、事態は着々と動いていた。
白の王城にて。
公子夷鉄は、兄である白王に策を献じていた。
「ふむ……しかし、そこまでする必要があるのか」
渋る様子を見せる王に、夷鉄はにじり寄って声を潜めた。
「このくらいはしなければ、後嗣が安定しません。乱が起こってからでは遅いですぞ」
自分が乱によって後嗣の座を手に入れたことは棚に上げて、王の不安を煽る。可愛がっている末弟の説得に、元来意志の強くない王はたやすく折れた。
「わかった。お前に任せる。良きに計らえ」
「はっ」
夷鉄は弛みそうになる口元を引き締めながら、神妙な様子を装って頭を下げた。
翌日、碧軍とともに昏軍の撃退に向かう軍の編成が発表された。
兵力は三万。既に昏軍と戦闘に入っている守備兵四万と合わせ、計七万となる。帥将は、公子秋伊。
「何を企んでおるのだ、夷鉄は」
青ざめた顔で考えを巡らせる秋伊の傍らで、函朔もまた難しい顔をしている。
「公子に出師を命じる意図はわかりません……が、少しでも落ち度があれば糾弾されるでしょう。くれぐれも、慎重に行動なさいますよう」
秋伊に言い含める函朔の視線は、命令書に記された佐将の名に向いていた。
秋伊に従って兵を率いる佐将の欄には、函逸の名が記されている。
「私がお側にいれば逸が良い顔をしないでしょう。私は目立たないように公子の周りの兵に紛れます」
そう言った函朔は、目を伏せてぐっと唇を噛んだ。
弟は、どう出るつもりなのか。
読めない自分が歯がゆかった。
都の郊外で、白の増援軍と合流する。その兵を率いているのが秋伊だった事に、私は何となく嫌な感じを覚えた。
秋伊は母の身分や本人に対する周りの評価から、白の公子の中での順位は高いが、まだ十歳かそこらの子どもだ。それを軍の帥将にするとは。単に後継争いの有力者である秋伊を都から遠ざけたかったのか、それとも何か別の意図があるのか。
それに、佐将の函逸。直接会うのは初めてだが、どうも私は彼に良い印象を抱いていない。
函猛の息子にして、函朔の弟。父が病床にあるのに遊びに出ていた不孝息子。父や兄の意思に反して、乱を起こした公子夷鉄にいち早く尻尾を振った男。
うん、碌な印象が無い。
どういう意図を持った任命なのかと内心不安を覚えつつも、一通りの挨拶を終えて進軍の方針を確認する。
「とにかく、戦場地帯までひた駆けるほかありますまい」
私が言うと、一応全員が頷いた。しかし、秋伊が真剣な表情を崩さないのに対して、函逸はどこか上の空だ。
この男、私を侮っている。
多少むっとしながらも表面にはおくびにも出さず、私は軍の配置を決めて散会した。飽くまでも碧軍は援軍ということで、白軍の後方を進むことになる。
「秋公子」
皆が自軍に向かう中で、私はさりげなく秋伊に声を掛けた。
「初めての戦でままならぬ事もおありかと存じますが、落ち着いておられればご心配にはおよびません。我らが手助け致します」
合流してからずっと、何やら不安げな空気を漂わせている秋伊に対して、今の私が掛けられる精一杯の言葉だった。
「……忝ない」
一瞬顔を歪めかけて、すぐに平静を取り繕った秋伊が、軽く頭を下げて背を向ける。それに付き従う一団の兵士の中に、見覚えのある姿が見えた気がした。
その頃、昏の都では。
将軍府の中核に当たる場所で地図を広げる将軍の元に、先触れも無しにずかずかと訪れた者がいた。地図を見ていた将軍は驚きもせず、ちらりと相手を一瞥したのみで視線を戻す。
「戻ったか」
地図に目を落としたまま簡潔に声を掛けると、訪問者は不満げに鼻を鳴らした。
「何だよ、もうちょっと労ってくれてもいいんじゃねーの。三年もあのど田舎で叛乱民ども相手にしてたんだぞ。お前はさっさと先に帰りやがって」
「文句を言うな。仕事だろうが」
抗議をばっさりと切り捨て、将軍は顔を上げた。
まだ若い将軍である。布で纏められた灰色の髪と、温度の無い深紫の切れ長の瞳が怜悧な印象を与える。
「それで、報告は」
「もう聴いてんだろ。わざわざ俺から言う意味があるとは思えねぇな」
ぞんざいに言って、訪問者は勧められもしないのに椅子に腰を下ろした。こちらは赤銅色の長い髪を一つに編んだ、がっしりとした男である。右目は機能を失って久しいのか、綾絹の眼帯に覆われていた。
「職務だろうが」
「うるせぇよ。そんな無意味な事より、今白が面白ぇ事になってるって?」
眉をしかめられるのも意に介さず、訪問者は地図を覗き込む。将軍は溜息を吐き、地図に目を戻した。
「循公子と璃氏が攻略にかかっている。目下白と碧の連合軍が向かって来ているようだな」
地図には双方の軍の現在位置と、その兵力が書き込まれている。
「連合軍総計十二万に対してこっちは七万?まずいんじゃねぇの」
眉を寄せる訪問者に、将軍は鼻を鳴らす。
「本気でやり合う必要は無い。すぐに撤退を命じる」
「ぁあ?」
訝しげな視線にも動じず、将軍は地図を畳んだ。
「少しは頭を使え。こちらが撤退すればすぐに白と碧が潰し合いを始めてくれる。我が国は漁夫の利をさらえば良い」
「そううまくいくのかよ」
「いく。白の公子夷鉄は視野が狭い」
喉の奥で笑って、将軍は訪問者を顧みた。
「今回は貴様の出番は無いという事だ」
「ちっ……ようやく辺地から表舞台に戻って来れたってのによ」
訪問者は舌打ちをしてがしがしと頭を掻く。
「本当にあの坊ちゃんだけで大丈夫なのか?白をぶっつぶす大戦なんだろ」
まだ納得がいかないらしく食い下がる訪問者を、将軍は軽く睨んだ。
「口のききかたに気をつけろ、束憐。公子を坊ちゃん呼ばわりするなど、私以外に聞かれたら処刑ものだ」
「へいへいっと」
「それに、循公子はそう見下げたものでもない」
将としての才能はなかなかのものだ、と言う将軍に、訪問者、束憐は呆れた目を向けた。
「お前の方がよっぽど不敬じゃねーの」
「正当な評価だ」
淡々と言い切った将軍は、机の上にあった書類を数枚、束憐に放った。急に放られたにも関わらず、束憐は危なげなくそれを受け取る。
「何だ?」
「貴様の留守中の循公子の業績だ。昨年からは戦死した畔将軍に代わって四将軍に数えられている」
その説明に、束憐はへぇ、と口角を上げた。
「そりゃなかなかだ。つーかあの肥満爺はまだ四将軍なのかよ。あれが生き残ってる事の方が俺はびっくりなんだが」
「害虫はしぶといものだ」
束憐の暴言に同意どころか上塗りするような言葉が返される。束憐は軽く笑った。
「もう三将軍でいいんじゃね?このご時世に家柄だけの将軍なんざいらねぇよ」
四将軍。それは名の通り、昏の有力な四人の将軍を指すものであり、地位としては碧の大将軍に匹敵する。
「そう言うな。確かに冒溢は使えないが冒家の財力は重要だ」
冒溢、叡循貴、そしてこの場に居る二人――束憐と絡嬰。その四人が、現在の昏の四将軍である。しかしながら、四人の実力には歴然とした差があった。
家柄と一族の大きさによって四将軍に数えられるが、目立った功績の無い冒溢。
王族という立場と、璃黒零を掌握したことから一躍大軍を任されるようになり、近年力を示し始めている叡循貴。
三年前に正体が玄武であることを暴かれて姿を消した峰晋の後を先日引き継いだ、知謀の将である絡嬰。
卓越した武力と恐れ知らずの躊躇無い用兵によって敵を粉砕し、一兵士からここまでのし上がってきた束憐。
「まぁ爺はどうでもいい。耳に挟んだんだが、碧に面白ぇのがいるんだって?」
元来気まぐれなのか、話題をあっさりと切り替えた束憐が、書類を弄びながら言う。絡嬰は軽く眉を上げた。
「鴻宵の事か」
「そう、そいつ」
にぃ、と束憐の口角が吊り上がる。
「戦の度に真っ先に敵陣に突っ込むんだって?いいねぇ、気が合いそうだ」
「馬鹿を言え。貴様と鴻宵は寧ろ相容れん人種だろう」
束憐の手から役目を終えた書類を取り返しながら、絡嬰は鼻で笑った。
「『殺さずの将軍』と貴様のような破壊好きの狂犬の気が合うわけがない」
「違いねぇ」
肩を竦めた束憐は、ぎらつく目を絡嬰に向けた。
「だが手応えはありそうじゃねぇか。早いとこぶつかってみてぇもんだ」
「それは残念だな。当分貴様と鴻宵をぶつけてやる予定は無い」
ばっさり切り捨てた絡嬰に、束憐が不服そうな顔をする。
「何でだよ」
「貴様と違って鴻宵は頭を使うからな。直進するだけの貴様の軍など危なくてぶつけられん」
「けっ」
不満そうな顔を崩さない束憐だが、それ以上言い募る事はせずに、一つ欠伸をすると首を回した。
束憐にはわかっているのだ。当分ぶつける予定が無いとはいえ、この時勢、互いの立場から言っていずれは対峙する事になる。しかも恐らくそれは、絡嬰の手によって最良の形で整えられた舞台の上で、という事になるのだろう。
「まぁ、それじゃあ俺は暫く休養でもするさァ。だがあんまり退屈させてくれんなよ」
「出番が来れば嫌でも引き出してやる。それまでおとなしくしていろ」
「退屈に耐えられなくならねぇ限りはな」
背中ごしにひらひらと手を振って、束憐は去って行った。絡嬰は軽く息を吐き、出陣している叡循貴に使いを出すべく側近を呼ぶ。
「さて」
小さな呟きが、静寂に落ちた。
「せいぜい化かし合って、互いに深く傷つけ合うがいい」
秋伊率いる白軍の後ろを駆けて、戦場へ向かう。次々に先駆けしては報告をもたらしてくる偵騎から情報を得ながら、進路と速度を調整して走った。
「見えました!」
前方から伝令が来る。
昏軍はこちらの進軍を見て邑の包囲をやめ、平地に陣を敷いていた。程なく白軍が停止する。開戦前の挨拶の為に、秋伊と函逸が前に出た。昏軍からは叡循貴と黒零が進み出る。
何を話しているのかは、聞こえない。
やがて、開戦の鼓が鳴った。
昏の中軍。
兵車の上から戦況を眺めて指揮を執る循貴の横で、黒零は眉間に皺を刻んでいた。
「頃合いを見て退け、とはどういう事だ」
そう呟く彼の脳裏に浮かんでいるのは、都にいる四将軍の一人、絡嬰からの書状だ。軍師という立場にある彼からの指示には、基本的に従わなければならない。しかしながら今回、黒零はその意図を掴み損ねていた。
退けば、手には何も残らない。兵を動かした労力の分、損になるのではないか。
「退いた後、帰還せよとは書いてありませんよ」
指揮の合間を縫って、循貴が黒零に告げる。
「それは……」
「一度退いて機を伺えという事です。我々が退けば、必ずや白と碧が仲違いを始めるだろうという読みですね」
そう言って、循貴は兵車上から一渡り戦場を眺めた。黒零は難しい顔をする。
「そううまくいくものだろうか」
「ええ、いくと思います」
戦況に目を向けたまま、循貴は冷笑にも似た薄い笑みをその頬に浮かべた。
「何故だ」
「ご覧ください」
循貴が戦場を指し示す。
「白の中軍……公子秋伊の本陣から出る命令は悪くない。やや型どおりなきらいはありますが、卒のない指揮と言えるでしょう」
前線では激戦が繰り広げられているのに、こちらの中軍は落ち着いたものだ。絡嬰の指示に則って、本気で戦うつもりは無いのだろう。
「しかしながら、右翼が従っていませんね。左翼も機敏さに欠ける。後ろに碧軍さえいなければ、このまま押し潰してしまいたいくらいです」
その碧軍は、未だ静観を保っている。飽くまで援軍という立場を貫くつもりなのだろう。白軍が明らかに不利になって要請してくるまで動くまい、と循貴も黒零も見ている。
「つまるところ、初めからばらばらなのですよ、あの軍は」
公子秋伊の率いる中軍、函逸の預かる右翼、それに連動する左翼、そして碧軍。全てに統一性が無い。
「我々という敵が無くなれば互いに争うでしょう。それを見越しての、絡将軍の指示です」
そう説明した循貴は、部下に命じて旗を変えさせた。左翼に後退を命じ、頃合いを見て敗れたふりをするように指示する。
「ついでにこちらを甘く見て油断してくれれば御の字です……白の領土は我が国のものになりますよ」
それは、昏にとって喜ばしい事である。
それを理解しながら、黒零の表情から険しさは消えなかった。
陰謀渦巻く宮廷のただ中に居ながら、外界の何をも知らされる事なく少年時代を過ごした黒零にとって、外の世界の謀は未だに馴染まないものだった。それではこの世間を渡っていけない、とわかってはいる。しかしどうもやはり、不向きなようだ。
「左翼、敗走します!」
軍吏の声が、遠く響いた。
昏軍が押され始めた。
特に左翼の崩れが大きく、対する白軍の右翼はここぞとばかりに追撃をかける。
「やけに手応えがありませんね」
漣瑛の言葉に、私は堅い表情を向けた。側に来ていた檄渓と角容と目語する。
二人とも一様に、苦みを帯びた顔をしていた。
「昏軍に間諜を紛れ込ませられるか」
「既に試みましたが、軍の編成法を変えたようで未だ成功していません」
私の問いに答えたのは角容だ。あまり強烈な印象の無い、穏和そうな男だが、行動には卒が無いらしい。
檄渓も同様に間諜の送り込みに失敗したらしく、昏軍の近くに偵騎を潜ませて様子を見させるに留まっている、と報告した。
「しかし、敗走は明らかに偽りですね」
「間違い無いだろうな」
昏軍と白軍の兵力は同等。最近頭角を顕してきた叡循貴が、戦の指揮は初めてで、しかも配下を掌握しきれていない秋伊に敗れる筈がない。
檄渓の言葉に頷いて、私は戦場を遠望した。
一般に、軍隊が偽りの敗走をする理由は、伏兵があるからだ。敗れたふりをして追撃の兵を引きつけ、退路を断って撃滅する。
しかしこの場合、昏軍の狙いがそこにあるとは考えにくい。何故なら、白軍の後ろには更に同等の兵力を持つ我々碧軍が控えているからだ。碧軍が追撃に加わらない以上、敵の包囲纖滅は実現しない。
では、何故敗走するのか。
「本国で何か、撤退を必要とする程の異変が起きたか、或いは……」
こちらに、昏軍は撤退したと思わせるのが狙いか。
「昏側の事情でない場合……厄介ですね」
私と同じ思考をたどったらしい角容が呟く。
その場合はつまり、昏は白と我々の間に軋轢が起こるのを待ち、その隙を衝くつもりでいるということだ。
そしてその軋轢が起こることは避けられない。
私達の目的もまた、白との軋轢があって初めて成し遂げられるものであって、私自身がその軋轢を起こすべく動いているからだ。
沈思した私は、最悪、白の領土の北半分を諦める覚悟を決めた。
白と碧の諍いにつけ込んで漁夫の利をさらおうとする昏軍を追い返すことは難しい。どうしても領土を奪われることになるだろう。
それに白の北半分を諦めても、碧は十分、昏に対抗できるだけの国力を保有する事ができる。
「ここからが本当の戦だ」
低く言った私に、二人の将軍は頷きを返した。
昏軍が、敗走していく。




