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水鏡五国志 [第二部 烈日之巻]  作者: 子志
章之参 秋潦
39/115

婚礼の日

 数日が立ち、大晦日。


 と言っても、この国では特に除夜や元旦を大々的に祝う風習は無いようで、静かに年を越した後は元旦に祭祀が行われ、二日目からはもう通常通りになる。祭祀を司る大宗伯の任にある私は、元旦の祭祀の為に忙しい年の瀬を過ごしていた。そういえば去年の元旦は私は不在だったから、暦監がうまくやってくれたようだ。

 ……だったら私は要らないんじゃ?と思ったのは内緒だ。


 因みに昏との国境でまた小競り合いが起こり、つい先日春覇が角容と共に兵を率いて向かった。今は小規模な争いで済んでいるが、拡大するようなら叙寧か私が征くことになるだろう。棟将軍はまだ紅の旧領にいる。紅の旧領はようやく落ち着いてきたらしく、近々邑が功績ある臣下に下げ渡されるだろうという噂だ。


 多分、王の側近の勢力が拡大することになる。


「鴻宗伯」

 暦監に声を掛けられて、私ははっと我に返った。ぼうっとしてしまっていたらしい。

「ああ、何だ?」

「元旦の祭祀の備えは整いました」

 渡された書類に目を通した私は、頷いて判を押した。そう規模の大きい祭祀ではないので、年越しはちゃんと家でできそうだ。

「それと、太子のご婚儀の儀礼についてですが」

 びく、と肩が揺れたのを、暦監に気づかれないように誤魔化しながら、私は意味もなく典礼の書物を引っ張りだした。

「宗伯府の関わる事が?」

「ご婚儀自体についてはございませんが、その後神殿への報告の儀がございます」

 そうか。国の跡継ぎになる人の正妃だ。当然、守護神に報告しなければならない。

「そうか……もう準備を始めるべきか?」

「いえ、それは明けてからでよろしいと存じますが、確認を幾つか」

 差し出される書類を受け取りながら、私はまたよくわからない寂寥感に苛まれていた。


 友人が遠くへ行ってしまう気がしているのだろうか。

 そんなの、まるで駄々をこねる子供みたいだ。


 周囲に気づかれないようにため息を吐きながら、私は書類の文字を追い始めた。



 その日も、邸に帰り着いたのは日が暮れてからだった。元旦は祭祀の為に夜明けに出仕しなければならない。あまり夜更かしはできないな、と思いながら、衙楠が開けてくれた門を潜る。子供達はもう居住区に帰ったのか、邸は静かだった。

「お帰りなさい。お疲れさまです」

 真っ先に登蘭が現れて、上着を預かってくれる。居間にしている堂に入った私は、少し目を瞬いた。

「勢揃いじゃないか。年の暮れだから?」

 後ろを見れば衙楠も門扉を閉めて入って来ている。

「ええ、まあ、たまにはよろしいでしょう?さ、お座りください」

 にっこりと微笑んだ尉匡に促されて、私は席に着いた。漣瑛も座り、衙楠も衙桐の隣に落ち着く。席を外しているのは淵夫妻と登蘭、総華、そして何故か慎誠。

「さぁさ、夕食ができましたよ」

 景気よく言って、盆を持った淵央が現れる。その後に続く奥さんや登蘭、総華も盆を持っていて、全員分の大ぶりの碗が運ばれた。最後にくっついてきた慎誠だけは手ぶらだ。手伝わないのか。

「慎誠さんから聞いてね、今年は将軍の郷里の風習に習った晩飯ですよ」

 そう言った淵央が私の前に置いたのは、ほかほかと湯気を立てる麺だ。

「……年越し蕎麦かっ」

「残念ながら蕎麦は手に入らなかったから小麦の麺だけどね~」

 へら、と笑った慎誠が席に着く。食事の用意を終えた皆も銘々座った。

「郷里の風習、って何なんだ?」

 家宰という立場柄私の隣に座っている省烈が麺を見て首を傾げる。

「としこしそば、っつったか?」

「うん……私の郷里では」

 立ちのぼる湯気の暖かさにどことなくほっとしながら、私は説明した。

「年を越す晩に蕎麦……麺を食べるんだ。長く生きられますように、って願いを込めて」

「へぇ……初耳ですね」

 変わった風習だ、と驚きながらも、どこの出身なのかと踏み込んでこないこの場所が心地よい。

 私は箸を取って、手を合わせた。

「いただきます……ありがとう」

 小さく続けた感謝の言葉を、聞き取った者がいたかどうか。

 この暖かい居場所に心底感謝しながら、私は麺を啜った。




 一月辛未。

 ついに花嫁が都に到着し、婚礼が行われた。婚礼は大規模に行うものではなく、太子の側近と儀礼に詳しい者、花嫁の縁戚など限られた臣下達だけで粛粛と行われるらしい。つまり私達その他の臣下は、婚儀が終わり花嫁が正式に妃となる翌日まで、花嫁を目にする機会は無い。


 きっと綺麗な人なんだろうな。


 華やかな報せに浮き足立つ街を見ながら、私は蒼凌に寄り添う女性を想像した。……やっぱりうまく想像できなかったけれど。


 昏との小競り合いは、現在のところ膠着状態にあるらしい。春覇は暫く戻って来られないだろうが、大将軍が赴くほどでもない。

 何だか沈んだ気分が拭えない私は、こんな事ならいっそ戦に駆り出されていた方が良かった、なんて不謹慎な事を考えてしまった。




 その頃、白の王城、東宮では。

「あら……?」

 太子が職務の為に出かけている間、徒然に琴を爪弾いていた沃季は首を傾げた。彼女は方士のような特殊な力は持っていないが勘が良い。くるりと辺りを見渡した沃季は、窓に目を留めて顔を綻ばせた。

「お兄様」

 窓の傍に、いつの間にか久しぶりに顔を見る兄が立っている。沃季は明るく呼びかけたが、兄はどこか思い詰めたような顔をしていた。

「お兄様……?」

阿季(あき)

 呼ばれた愛称は、どこか切羽詰まったような響きを帯びている。

「どうなさったの、お兄様」

 沃季は琴から離れて立ち上がり、俯いている兄に歩み寄った。窓枠越しに立ち、首を傾げる。兄は周囲の様子を探るように油断なく目を配ってから、沃季を見た。

「阿季、白を出よう」

 兄の言葉に驚くかと思われた沃季は、ただふわりと微笑んだ。

「いずれそう仰ると思いました……でも駄目。行けませんわ」

「阿季!」

 焦ったように名を呼ぶ兄に、沃季は首を振って見せる。兄――沃縁は窓枠から身を乗り出した。

「阿季、お前もわかっているだろう?この国にいてはいずれ――」

「わかっております」

 目を細めて、飽くまで穏やかに、沃季は答えた。

「私は最期まで太子のお側に居ると決めたのです。お兄様のお気遣いには感謝しますわ」

「そんな……ともに死んでどうなるというんだ」

 太子と共にでもいい、亡命して生き延びよう、と必死に説得する兄に、沃季は悲しげな微笑を見せる。

「太子はこの国でけじめをつけるとお決めになりました。私もそれに殉じたいのです」

 白い指先を伸ばし、そっと沃縁の頬に触れた。

「ありがとう、お兄様。貴方がずっと私の為に手を尽くしてきてくださった事は存じておりますわ……辛い思いも、たくさんなさった事でしょう」

 そう言って窓枠に添えられた沃縁の手を握る沃季は、実の所兄がどんな仕事をしているのか、漠然とながら悟っていた。そしてそれが、すべて沃季、ひいては太子の為である事も。

「これからはどうか、ご自身の為に生きてくださいませ」

「阿季……」

 何か言おうとした兄を、手真似で遮る。飄々として見えて、その実一途なこの兄が次に言うことが、沃季にはわかっていた。

「お兄様まで私達に殉じることはありませんわ。私を哀れとお思いなら、どうか生きてくださいませ」

「そんな……!」

 沃縁が抗議の声を上げる。沃季は握った兄の手をそっと両手で包み込んだ。

「お願いです、お兄様。私の最後で最大のお願い……どうかお聴き届けくださいませ」

 思えば沃縁はずっと沃季の為だけに生きてきたようなものだった。沃縁はそれを悟らせないように飄々としてはいたが、ずっと兄を見てきた沃季にわからない筈がない。沃季はせめて、自分のいなくなった後は兄が自分自身の幸せの為に生きられるように願った。

「そんな……お前を喪って、僕は何の為に生きればいい」

 弱々しく呟く沃縁に、沃季は優しい笑みを見せた。

「きっと見つかりますわ。お兄様ご自身の幸せが」

「……僕はお前を救えないのか」

 俯いた沃縁の頭脳が解決策を探す。

 妹が飽くまで亡命を拒むなら、救う手だては一つ。

 沃季を喪ってなお生き延びるくらいなら――

「いけませんわ、お兄様」

 普段他人に考えを読ませない沃縁だが、どういうわけか沃季にはすぐに悟られてしまう。

「公子を害す事ができたとしても、周りが黙っておりません。最悪、太子は王に誅殺されます。そんな不名誉をお与えにならないで」

 既に、八方塞がりだった。だからこそ太子は、名誉を保って潔く散る道を選んだのだ。

「これまでありがとう。幸せを心よりお祈り致しますわ」

 沃縁の手から、沃季の手がするりと離れていく。

「さようなら」


 その手はもう、二度と沃縁の手を取る事はない。




 夕刻。

 退朝してから自室で細々とした業務をしていた私は、ふと顔を上げて外を見た。冬の短い日が刻々と沈んでいく夕暮れ時。

 今頃、王城では格式張った婚礼の儀が始まっていることだろう。夕方から夜にかけて儀礼が行われ、夜が更け始める頃に新郎と新婦は寝室に入る。

「なんで……」


 なんでこんなに、苦しいんだろう。


 わけのわからない感情に、私は筆を置いて机に突っ伏した。そこにいた木精霊がひゃっとばかりに飛び上がって私の顔をのぞき込む。それをそっと手のひらで撫でながら、私はぐっと眉を寄せた。

「何なわけ……」

 苛立ちすら覚えて、目元に手を当てる。

「鴻宵、夕食の支度できたよ」

 総華がそう言って呼びに来るまで、私はそうしていた。


 いつも通りに夕食を終えて、普段より早く部屋に入る。八つ当たり気味に寝台に身を投げて、目を閉じた。現実逃避ぎみに寝る体勢に入る。


 きっと、少し疲れてるだけなんだ。



 うとうとと、微睡む。


 暗い、暗い闇の底に、私は立っていた。

 ここはどこだろう、と見渡した時、目の前の空間に小さな灯火が点る。その淡い明かりに照らされて、そこにあるものの輪郭がぼんやりと浮かび上がった。


 どこかの寝室のようだ。上等な布団の敷かれた寝台が見える。その傍に、人影があった。

 こちらに背を向けている、長身の男。背中しか見えないのに、私にはそれが誰なのかわかった。わかってしまった。

 そしてその腕の中に、一回り華奢な誰かがいることも。


 何なんだ、私は何を見ている?


 理不尽な夢に苛立ち、苦しくなる胸を押さえ俯いた私の前に、不意に朱が散った。


 ――え……?

 はっと目を上げた私の視界に映るのは、白い大蛇。人一人程の大きさのあるその大蛇の牙は赤く濡れていて。

 その牙の下に、物言わず倒れ伏す背中。


 何、何なんだ、これは。


 震える喉を叱咤して、私は朱に染まった背中の主の名を呼んだ。


「蒼凌!」




 はっ、と目が覚める。

 今になって、心臓がばくばくと跳ねていた。


 夢。


 ――何だ、あの夢は。

 私の中に、言いしれぬ胸騒ぎが募る。冬だというのに、汗が流れて額を伝った。じっとしていられなくて、窓を開ける。

 既に夜が深い。

「かわいそう」

「かわいそうにねー」

 不意に、窓から漂い込んできた風精霊の会話が耳についた。

「食べる?」

「食べちゃうー」

「ぱくりとね」

「かわいそう」

「食べられちゃうー」

「……っ、おい!」

 私は手近な風精霊を捕まえた。

 胸騒ぎが酷い。心臓がばくばくと、うるさい。

「何の……何の話だ」

 手が、震える。

「食べられちゃうー」

「死んじゃう?」

「死んじゃうかもー」

 風精霊は口々に言って、要領を得ない。

「だから……っ」

「蛇がねー食べちゃうんだよ」

 ひょいと風精霊にくっついてきた木精霊が言う。

「結婚した人をねー食べちゃうんだよ」

「……っ!」

 私は外していた剣をひっ掴み、窓から外へ飛び出した。何を考えている余裕もない。


 あの夢の通りに、なろうとしているのか。

 蒼凌が……?


「っ、冗談じゃない!」

 私は真っ直ぐ王城へ走った。夜中の事でだれもいないのは幸いだ。誰かが見ていれば、夜の底を単身疾走する私はさぞ怪しかったことだろう。


 王城の門まで走って、ようやく私は足を止めた。肩で息をしながら、頭を抱える。

「どうすれば……」

 今は夜中。王城の門は堅く閉ざされていた。

 これでは蒼凌の所へ行けない。

 守れない。

「何とかならないのか!」

 精霊を見渡しても、打てる手はありそうにない。精霊を蒼凌の所へ行かせたって、遠隔では何もできない。

 私はがくりと膝をついた。


 何も、出来ないのか。


 無力感に頭を抱える。


 嫌だ。

 何で、こんな所で……。

 こんな所で、失いたくない……!


「何やってんだ、こんな所で」

 不意に降ってきた声に、私ははっと顔を上げた。目の前に舞い降りてくる、一羽の鴉。

「……蕃旋」

「おう。こんな夜中に何してんだ」

 鴉の姿のまま首を傾げる蕃旋が、今の私には救世主に見えた。

「蕃旋、頼む、蒼りょ……太子を助けてくれ。命が危ない!」

「ぅわ!?」

 いきなり必死の形相で詰め寄った私に、蕃旋が驚いて身を引く。

「何だ何だ?」

「俺にも……俺にも、よくわからないけど、太子が危ないんだ。あの夢……それに、精霊達が」

「落ち着け、とりあえず落ち着け、な?」

 肩を叩く代わりなのか、頬を翼で数回払われて、私は口を閉じた。

「何となく……本当に何となーくだが状況はわかった。で?俺に太子を助けに行けって?」

「うん……頼む、だって俺は中に入れない」

 私が言うと、蕃旋はあぁ、と呟いて城門を見上げた。私は入れないが、鴉の姿の蕃旋なら入れる。

「頼むよ……今は蕃旋しか頼れないんだ」

 頭を下げる私に、蕃旋はちょっと思案げに翼を振るった。

「確かに入れるけどなぁ……この姿じゃ助けにならねぇだろ。刀も持ってきてねぇし」

 う、と詰まる私を見て、城門を見て、また私を見る。それから何か考えるように二、三度羽を啄んで、蕃旋は考えが纏まったかのように私を見た。

「その剣寄越せ」

「え?」

 蕃旋の嘴が示すのは、私が携えている剣。

「そいつを太子に届けてやる。それで助かるかどうかは本人次第だがな」

「……っ、ありがとう」

 そうだ、武器さえあれば、蒼凌ならきっと生き残れる。ついでにと剣と佩玉にありったけの加護を籠めて、蕃旋に渡した。蕃旋はそれを足で掴み、羽ばたく。

「じゃあな。お前家に帰ってろ。こんなとこうろうろしてたら怪しいだろ」

「でも……」

「届けたら報告に行ってやるから」

 ばさり、と空中高く飛び立ちながら、蕃旋が言う。仕方なく私は頷いて、祈るように手を組んでから踵を返した。




 遡ること一刻ほど。


 蒼凌は堅苦しい儀礼で凝った肩を解しながら回廊を寝室へと向かっていた。寝室では新婦が待っている筈だが、蒼凌の心中に浮き立つものは無く、面倒だという思いしかなかった。

 そもそも、蒼凌はこの婚礼に乗り気ではなかった。結婚などよりもやりたい事ややるべき事が山積していたし、第一会った事もない女性に興味が湧くわけもない。しかし、いい加減身を固めろと父王から強く言われては太子としては固辞するわけにもいかず、仕方なく受け入れたというだけの事だった。

 だから、相手の女性には申し訳ないが、さっさと部屋に戻りたいというのが正直なところだ。但し、婚儀の日の夜に新郎が新婦のもとへ行かないという事は許されないのが決まりである。それは新婦側の乳母が確認するので、ごまかす事はできない。

 こんなことで頭を悩ませるより、旅先でねぐら探しに窮する方がどれだけましかわからない。その方がずっと性に合っている。旅をしていたわずかな期間のなんと懐かしいことか。

 そんな風に考えていると、不意に別の人物の笑顔が脳裏に浮かんで、蒼凌は溜息を吐きたくなった。

 ――相手の女性の方もこんなことでは嫌だろうに……面倒な事だ。

 そんな内心は表に出さず、蒼凌は寝室の扉を開いた。


 寝台の端に座っていた新婦が、蒼凌が現れたのを見て立ち上がり、礼をする。それを受け、応えて新婦に歩み寄った蒼凌は、すっと彼女の白い頬に触れ、腰を抱き寄せた。

「太子……」

 新婦の口から、か細い声が漏れる。緊張しているのか僅かに震えながら、彼女は蒼凌の肩に顔を埋めた。

 蒼凌は彼女の背中に手を回し、ゆっくりと帯を解く。手つきは優しいが、その目には何の感情も無かった。


 する、と目の前にある女の肩から着物が滑り落ちた時、ぞくりと本能が警鐘を鳴らす。

 それが何かを考えるより早く、蒼凌はとっさに跳びすさった。

 襟が鋭利に引き裂かれて空中に舞う。

「あら?」

 直前までのたおやかな様子はどこへやら。女は口角をつり上げて蒼凌を見た。その唇を舐める舌は、人ではあり得ないほどに長く、二股に割れている。口の端からは鋭い牙が伸びていた。

「すばしこいのねぇ……もうちょっとで、その首食いちぎれたのに」

「な……」

 何者だ、と問おうとして、その質問の無意味さに気づいた蒼凌は、女の様子を注意深く伺った。

 見た目は、婚儀を交わした時と何ら変わりはない。ただ浮かべる表情は酷く楽しげで、その目は獲物を見つけた肉食獣さながらに爛々と輝いていた。


 明らかに、人間ではない。

 どこで新婦とすり替わった?

 或いは、新婦は初めから存在せず、ただ命を奪うために遣わされたこの妖孼が人間のふりをして隙を窺っていたのか。

 前者だとすれば、本当の花嫁は――


「安心して頂戴」

 一瞬のうちに巡らされた蒼凌の思考を読みとったのか、女が声をかける。

「花嫁なんて最初からいないわ」

 安心などできるものか、と蒼凌は内心毒づいた。

 花嫁が最初からいないという事はつまり、この結婚自体が仕組まれたものだったという事。すなわち、蒼凌を暗殺するために手の込んだ方法で妖孼を送り込んだのだ――父王が。

「そこまで憎まれたか」

 眉を寄せて呟きながら、蒼凌はじりじりと後退した。妖孼から目を離さないようにしながら、普段剣を掛けてある棚の傍まで下がる。

「残念でした」


 剣が、無い。


 とっさに扉まで走ろうとした蒼凌の前で、女の姿が膨れた。いや、そう見えたのは、それまで女の姿をしていたものが本性を現したからである。

 それはちろちろと舌を覗かせる白蛇だった。胴の太さが一抱えほどもあり、そこに乗った頭もまた人の頭より大きい。人一人丸呑みにするのはわけないだろう。

 その蛇の長い体が、信じ難い速度で動いた。扉へ向かっていた蒼凌が反射的に後退しなければ、その頭にあっさりと飲み込まれていただろう。

 それは免れたものの、退路を塞がれる形になった蒼凌は軽く舌打ちした。窓から出ようにも、あの速さでは追いつかれてしまうに違いない。

「思ったより生きが良くて美味しそうだわぁ」

 蛇が鎌首を擡げ、赤い舌を踊らせる。油断なく対峙しながら、蒼凌は横目で武器になりそうなものを探した。寝台、水盤、水瓶。寝室であるのが災いして、大したものは無い。

「諦めておとなしく食べられなさいな」

 大蛇がかぱりと口を開ける。蒼凌はとっさに燭台に手を伸ばそうとした。


 刹那。


 ばんっ、と派手な音を立てて、窓が外側から開かれた。飛び込んできた何かを認識するより早く、ばさりという羽音が耳に届く。

「うげっ、白蛇かよ」

 心底嫌そうに呟いたそれは、大きめの鴉だ。飛び込んだ勢いでぐるりと室内を一周した鴉の、燕脂色の瞳が蒼凌に向く。

「はぁ!?太子ってお前かよ……」

 何やら不満げにぶつぶつ言っているが、蒼凌の知る限り鴉に知り合いはいない。

 半ば呆気に取られている蒼凌に、鴉は足に提げていたものを差し出した。

「まぁあいつからの頼みだからな。ほらよ」

 投げつけるように渡されたそれは、黄の佩玉の付いた剣。蒼凌は反射的に手を伸ばし、それを受け取った。手にすると同時に柄に手をかける。

「誰かは知らないが助かった」

「礼ならその剣の持ち主に言え。じゃ、確かに渡したからな」

 そう言い捨てて、鴉はまた窓から出ていった。

「邪魔をするか赤鴉!」

 かっと口を開いた白蛇が突進してくる。蒼凌は剣を抜いた。白蛇の牙をかわしながら踏み込んで、一閃。

 どさりと、大きな首が足下に落ちた。飛び散った血の生臭さに顔をしかめながら、蒼凌は剣についた血糊を拭う。

「この剣は……」

 見覚えのある佩玉に、知らず目を細めながら、蒼凌は寝室を出て侍臣を呼んだ。




 気を揉みながら待っていた私の元に舞い込んできた蕃旋は、ばさりと身震いするように羽を振るった。

「ったく……俺は蛇は嫌いなんだよ」

「蒼凌は!?」

 私が急き込んで訊くと、蕃旋は落ち着けというように私の肩に乗った。

「心配すんな。ちゃんと剣は届けたし、死にはしねぇよ」

「そ、か……」

 安堵の息を吐いた私は、はっと顔を上げた。

「そうだ、花嫁!花嫁は?無事なのか?」

「ぁあ?」

 当然の問いの筈なのに、咎めるように額を嘴でつつかれた。

「ぃっ……」

「お前な、ありゃどう見てもその花嫁が白蛇だったんだよ」

 私は目を見開いた。

 花嫁が?それは、花嫁が途中ですり替わったのか、それとも……

「なんで……」

 ぽつりと、力無い呟きが漏れた。

「なんで、親子で殺し合わなきゃならないんだ」

 暗澹とした気分で肩を落とす私の頬を、蕃旋が頭で小突く。

「権力ってのはそういうもんなんだろ……つぅか太子ってあいつかよ。どうなってんだ」

 そういえば、蕃旋は昏で蒼凌とも会っているんだった。私は暗い思考を振り払うように頭を振り、蕃旋にあの時蒼凌が昏にいた経緯を話す。

「ふぅん……」

 呟いた蕃旋は、ひょいと私の肩から飛び降り、目の前の机に移った。

「ま、何にせよ良かったな、助けられて」

「うん、ありがとう」

 私が素直に礼を言うと、蕃旋は照れたように羽を啄んでから、窓枠に飛び移る。

「じゃあな。早く寝ろよ」

 そう言い捨てて、漆黒の翼は闇に消えていった。




 夜明け前に、急使が各家の門を叩き、太子暗殺未遂事件があったことを告げた。それに伴い、まだ早い時間に、重臣達は急遽堂に集まっている。

「太子はご無事なのか」

「刺客は失敗したとは聞いたが……」

 不安げなざわめきがそこここで聞こえていた。

「将軍」

 重臣の間を縫うようにして近づいてきた檄渓も、珍しく心持ち青ざめているようだ。

「何があったのでしょう」

「わからない。憶測で話すのはよそう」

 まさか顛末を把握しているとは言えない私は、そう言って首を振った。私の表情もさぞ憂色に染まっていることだろうが、その理由は他の臣下達とは違う。


 公にはされないだろうが、これは恐らく王からの刺客だ。

 王宮内の権力闘争が、ここまできている。


 やがて、堂に太子が現れた。重臣達の間に、安堵のざわめきが満ちる。

「心配をかけてすまない。私はこの通り無事だ」

「おお、太子……」

「ご無事で何よりでございます」

 口々に声を上げる重臣達に頷いて、太子は少し目を伏せた。

「私を襲ったのは妖怪だ。どうやらどこかで花嫁とすり替わっていたものらしい」

「それは差し向けた者がおったのでしょうか」

 荏宰相が緊張した面もちで訊く。何者かの差し金とすれば、これはゆゆしき事態だ。

 張りつめる重臣達を前に、太子はやや表情を和らげて、首を振った。

「元来そうして人に紛れ込んで人を食う妖怪のようだ。何者かがけしかけたということはないだろう。……本物の花嫁には、気の毒なことだった」

 そう静かに呟く太子の言葉が偽りだと、見抜けた者が何人いただろう。


 蒼凌は敢えて王と真っ向から対立するのを避けたという事だ。王側に選択の余地……まだ引き返せるという余地を残したことになる。


 ここから、王側がどう出るか。

 内乱などしている場合ではないのに、と内心舌打ちをしつつも、私は状況を静観する事しかできない。


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