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水鏡五国志 [第二部 烈日之巻]  作者: 子志
章之参 秋潦
35/115

畢にて

 朝会で王から私に告げられた命は、白に使いせよというものだった。

「紅に棟将軍がおられますが……」

「棟凱は暫し紅の旧領の統治に専念せねばなるまい。白へはそなたが行き、盟約を固めて参れ」


 紅の滅亡によって、碧は白と国境を接することになったが、当面白との同盟を継続し不可侵を保つ方針を固めた。昏と白、二国との関係を考えた時、当然同時に二国と争いたくはない。それを避けるには白との同盟を続けるのが手っとり早い。その上、白が内乱の火種を抱えているのは周知の事実であり、白と争うならその内乱に火が点いて白全体が疲弊してからでいい、という打算もある。


 そういうわけで、盟約を確認しより強固にするために遣わされる使者に、私が選ばれたわけだ。

 因みになぜこちらが白まで出向かなければならないのかといえば、紅の旧領を碧の方がやや多めに取った為、白の機嫌を取っておきたいからである。

 国益を考えつつ白を離れさせない外交を展開する荏宰相は、少なくとも凡愚ではない。

「かしこまりました」

 拝命した私は、退出しながらちらりと考えた。

 たぶんこの使いには、函猛の様子を見てこいという意味も含まれているに違いない。



「そういうわけで、昴まで行くことになった」

 邸に戻ると、私は家臣達にそう告げた。皆の顔をくるりと見渡して、思案する。今回の役目は外交使節だから、軍事でも祭事でもない。連れていく部下を選んでおかなければ。因みに副使として荏宰相の部下が付けられている。外交上の煩鎖な手続きや専門的な事は彼がやってくれる筈だ。

「漣瑛は当然付いてくる事になるが、連れていく兵は護衛だけだから檄渓を連れていくには当たらないし……暦監は宗伯府から動かしにくいしな……私の私臣から誰か……」

「じゃあ俺連れてってよ」

 背後から聞こえた声に、私はひょいと振り返る。窓枠に腰掛けるようにして、慎誠がへらりと笑っていた。

「いきなり出てくるな」

「いや、面白そうだと思って、つい」

 そんなふざけた事を言う慎誠に、漣瑛が冷たい視線を注いでいる。尉匡が苦笑し、範蔵が溜息を吐いた。省烈と衙楠は何やら話し込んでいる。何を話しているのかと見ていると、会話が一部聞こえてきた。

「いや、だから庭に仕掛けをだな……」

「それより窓枠に鉄線を張って……」

 防犯の相談でしたか。

 この場合防犯というよりは慎誠への対策だろうけれども。

「で、お前は何でまた急に付いて来ると言い出したんだ?」

「次に滅ぶのは白かなぁと思って」

 まるで明日の天気でも口にするかのように、慎誠がさらりと言う。全員がぎょっとしたように視線を向けた。

「……一応、俺は同盟の確認に行くんだけど」

「うん、それはそれでいいんだよ。状況が動くのは函猛がいなくなってからだろうし」


 いなくなってから。


 その言葉に、私は我知らず眉を寄せていた。この世界に来て、何度も戦に出てきたけれど、未だ人の死に鈍感にはなれない。それが知り合いなら尚更だ。

 そういう内心を辛うじて沈めて、私は慎誠の思考に同調してみた。

「やはり二つに割れるか、白は」

「だろうね」

 頷いた慎誠は、窓から離れてこちらへ来た。

「その前に様子を見とこうと思って。それに……」

 ぽん、と私の肩に手を置き、声を低める。

「敵になる前に、函朔の顔を見とこうよ」

 私は目を逸らし、小さく頷いた。


 無情な時の流れは、止められないのか。




 十一月に入って、日中でも少し肌寒い白の地へ行く。紅の旧領の過半を手に入れたことで、白への往来は格段にたやすくなっていた。

 (こう)へ向かう私達は、当然白の領内で何度か宿を取ることになる。そうして留まった邑の一つに、(ひつ)があった。

「お待ちしておりました」

 畢の官城の前で、私達は邑宰に出迎えられた。仮にも同盟国の使節だから、滞在する邑では官城の客舎に泊まり、それなりにもてなして貰える。

「世話をかける」

 邑宰に挨拶をして、私達は客舎に案内された。


 客舎の門を潜った時、そこを警備していた兵士が息を呑む気配がした。

 私は通り過ぎざまにその顔を見て、しかし何食わぬ顔で歩き続ける。客舎の部屋に落ち着いてから少し考えた私は、紙と筆を取り出して文を認めた。


 立場上話をするのは障りがあるし、その必要もまた無い。けれども誼がある以上、挨拶と忠告くらいはしておいていいだろう。


「漣瑛」

 手紙を書き終わった私は、漣瑛を呼んで袋に封じた手紙を渡した。

「これを門の番兵に渡してきてくれ。間違えるなよ、晨葎という兵士だ」

「は――」

 私の言葉を聞いて、漣瑛は一瞬怪訝そうな顔をした。まさかこんなところに私の知り合いがいるとは思いもしなかったんだろう。

「昔の知り合いなんだ」

 曖昧に誤魔化して、私はこれ以上は訊くなという構えをとった。


 手紙に記したのは、白が割れるという予見と、その時は自分の立ち位置をしっかり見極めろという助言。

 もう二年以上も前になるあの頃の記憶を手繰りながら、私は人知れず溜息を吐くのだった。



 その直後、客舎の門前では。

「失礼だが、晨葎殿か」

「え、あ、はい」

 鴻宵から託された文を携えた漣瑛が、番兵に声を掛けていた。いきなり名前を言い当てられた晨葎は、戸惑いながら漣瑛を見る。数秒凝視してからようやく相手が碧からやって来た将軍の従者だと気づき、慌てて頭を下げた。

「な、何か御用でしょうか」

 戸惑う晨葎を観察するように一渡り眺めた漣瑛は、その目の前に袋に入った文を差し出した。

「主から文を預かってきた。晨葎殿へ、私的なものだ」

 ぽかんとする晨葎が文を受け取るのを見届けた漣瑛は、確かに渡したぞ、と一言言ってから足早に立ち去っていく。残された晨葎は、震える手に掴んだ文を呆然と見つめていた。

 ――やっぱり、あの鴻宵さんだったんだ。

 一時共に起居した仲間が碧で将軍になっていたという驚きと、それでもまだ自分を覚えてくれていたという感動。

 晨葎は後で自室に戻ってからゆっくり読もうと、文を懐に入れた。



 夕方になると、私達は邑宰に食事に誘われた。使節としてはこういう事も断るわけにはいかないので、邑宰の元へ出かけて夕食を御馳走になる。我が家では、最近は淵央が腕を振るってくれているとはいえ、基本的に食事は質素な傾向があるので、振る舞われた豪華な料理に慎誠や漣瑛が密かに感動しているのを見て少し罪悪感を覚える。

 金が無いわけではないのだから、もう少し良い物を食べさせてあげるべきなのだろうか。

「流石においしかったねぇ」

 客舎に戻ると、慎誠が感心したように呟く。因みに客舎の門番は晨葎ではなかった。

「確かに料理は美味しいけれど肩が凝る」

「だめだよ、そんな事言ってちゃ」

 周囲に人が居ないのを良いことに軽口を叩き合い、私は自分にあてがわれた部屋の前で足を止めた。慎誠は隣、漣瑛は向かい側の部屋を使っている。

「では、明日」

 そう言って二人に別れを告げ、私は部屋の中に入った。漣瑛も部屋に入るようだが、慎誠は何か調べ物があるとかで、どこかへ行ってしまった。


 すっかり暗くなった屋外を反映して、室内は闇に満ちている。扉を閉めてしまうと殆ど真っ暗だった。私は手探りで灯の皿を探し、火を点けようと火打ち石を探った。


 不意に、ぞわりと背中を冷たいものが駆け上がった。

 何かはわからないが、嫌な予感がする。


 様子を探ろうと、私が感覚を研ぎ澄ませた時。


「――お久しぶりです、鴻宵さん」


 耳元で、声が聞こえた。


 とっさに剣に手を掛けるより早く、口を塞がれ抱き竦めるように拘束される。

 しまった!

 私の手から火打ち石が滑り落ちて、床で鈍い音を立てる。背後に居る男の手が手早く私の剣を外し、床に落として遠くへ蹴り飛ばした。もがこうとするも、男に後ろから押さえ込まれてしまえば体格差が物を言うのでどうしようもない。足を踏もうと膝を上げかけた瞬間、抱き竦められたまま壁に押しつけられ、男の足が私の足の動きを封じた。


 手慣れている。


「僕の事、覚えておいでですか」

 耳元で笑みを含んだ言葉が囁かれ、頬を白い髪が撫でる。


 忘れる筈がない。

 他ならぬこの土地で出会い、昏でも一度会った。


「まさか将軍になられるとは……驚きましたよ」

 ――沃縁。

 私は必死に身じろぎながら、至近距離にある瞳を横目で睨んだ。沃縁が笑う気配がする。

「そう怖い目をしないでください……僕はただ、貴方にお願いがあって来たんです」

 お願いにしては随分手荒だが。

 目を眇める私を気にした風も無く、沃縁は続けた。

「昴へ行って王や重臣方に会うのでしょう?僕をお供の端に加えてくださるだけでいいんです」

 何を、考えている?

 私は沃縁の考えを推測しようとした。

 沃縁は確か、反太子派に雇われていた筈だ。だとしたら、まさか、私と共に太子或いは太子派の重臣に会い、消すつもりか……?

「承諾して頂けますね?」

 脅かすように沃縁が私の口を押さえる手に力を込め、私の首筋に金精霊が寄る。私は足掻こうとしたが、腕を抱き込むように押さえられ足も封じられていてはどうしようもなかった。仕方なく精霊を使おうと目を動かした瞬間、首筋にぴりっとした痛みが走る。

「……っ!」

「無駄ですよ。この部屋の精霊は排除しておきました。おとなしく……」

 金精霊が浅く裂いた傷口に息を吹きかけるように喋っていた沃縁が、唐突に言葉を止める。

「……おや?」

 何だ、と怪訝に思った私は、腕を抱き込んでいる沃縁の手が胸元に触れている事に気づいて、息を呑んだ。


 いくらさらしを巻いていても、これだけ密着していれば、バレる。


「これはこれは」

 沃縁の声が揶揄するような笑みを含んだ。


「貴方……女性でしたか」

「――っ!」


 反射的にもがくが、一層強い力でぐっと壁に押さえつけられた。

「これはいい」

 肘と体で私の腕を押さえ込んだまま、沃縁の手が上へと上がった。

「頷いて下さらなければ……」

 ぱちり、と音がする。

 首元の留め金を外されたのだと気づいた私は、ざっと鳥肌が立つのを感じた。

 ……嘘、だろう。

 私の焦りをよそに、沃縁の手は私の羽織を留めていた腰紐を解いた。

「――わかりますよね?」

 嘘……!

 私は必死でもがいた。しかし、場慣れた男に力で勝てるわけがない。

 ぱちり。

 今度は肩口の留め具を外される。

「僕をお供に加えて頂けますね?」

 どこか甘えを含んだような沃縁の声が、耳に吹き込まれる。


 混乱する頭の中で、私は考えた。頷けば、どうなるか。

 十中八九、沃縁の目的は暗殺だ。そしてそれが行われれば、成否に関わらずその責任は彼を連れていった私にかかる。

 間違いなく、碧と白の戦争の引き金を引くことになる。


 それだけはできない、と、私は首を横に振った。

「ふぅん……」

 不満げに呟いた沃縁は、すい、と私の耳元に唇を擦り寄せた。

「だったら……僕の相手をしてくださるという事ですね」

 沃縁の手が私の帯に掛かり、一気に解いた。


 純粋に恐怖で体が凍り付く。


 じわりと眦に滲んだものがこぼれる直前、突如膨れ上がった炎精霊の気配が窓を突き破った。


「そこまでにして貰うよ」

 普段の緩さとは違う、平坦な声が沃縁に刺さる。沃縁は即座に私を放し、窓際に現れた相手に向き直った。拘束を解かれた私は、しかし動く事もできずにずるずるとその場に座り込む。


 怖かった。

 自分でも信じられないくらい、濃密な恐怖だった。


「邪魔が入りましたか」

 そう呟いた沃縁は、既に退路を探っている。窓を破った炎精霊の威力に、己の不利を悟ったのだろう。

「まさか客舎に侵入してくるとは思ってなかったよ……助けが遅れてごめん、鴻宵」

 窓際に留まったまま沃縁と睨み合っていた慎誠が、不意に柔らかい声をこちらに掛けた。

 ぎりぎり眦で止まっていた涙が、一粒こぼれた。

「女の子脅すなんて思った以上に下衆だね」

「目的の為に手段は選ばない主義ですので」

 沃縁の言葉を聞いた慎誠は、少し目を細めた。

「そう……でもこっちも、鴻宵を利用して『反太子派』を討たれるなんて困るからね」

 え……?

 慎誠の口から告げられた内容を、沃縁は肯定も否定もしなかった。ただ薄く笑って、ゆっくりと剣を構えた。

「散れ」

「慎誠!」

 高い金属音と共に、弾け飛んだ刃が慎誠を襲う。それを炎で迎え討った慎誠の隙を突くように、沃縁は外へ躍り出た。

「また会いましょう、鴻宵さん」

 そんな言葉を、私の耳に残して。


 一瞬沃縁を追おうとした慎誠だったが、逃げ足の早さを見て諦めたのか舌打ちと共に目を戻した。まだ呆然としている私に歩み寄り、傍らに膝をつく。

「大丈夫?」

 慎誠は、そっと落ちていた帯を拾って私の手元に置き、羽織の前を掻き合わせるように押さえてくれた。動けない私に気づいたのか、顔を覗き込んでくる。

「……怖かった?」

「ぁ……」

 目元を指で拭われて、私はようやく慎誠に焦点を合わせた。知らないうちに震えていたらしく、歯が小刻みに音を立てる。

「ごめ……」

「仕方ないよ」

 抱き寄せられて、素直に肩口に顔を埋めた。不思議とこの時、慎誠の存在は私に無条件の安堵を齎してくれ、安心して身を預けられた。


 まるで兄弟みたいに。


「鴻宵もやっぱり女の子っていうかなんていうか……戦場では怖いもの知らずなのに、男に迫られるのは駄目なんだね」

「だって……っ」

 反論しようとしても続く言葉を見つけられず、結局私は歯を食い縛って慎誠の肩に額を押しつけた。慎誠が、震えを押さえ込むようにきつく抱き締めてくれる。

「よしよし、怖かったね」

 幼子をあやすような口調が不服だが、口には出さずに慎誠に縋りついた。

「哀」

 背を撫でて私の震えを宥めながら、慎誠が呼ぶ。窓から白っぽい塊が入ってくるのが見えた。

「漣瑛を呼んで」

「待って……!」

 思わず、私は声を上げていた。震えはまだ収まらず、涙も溢れて酷く情けない状態だ。こんなところ、漣瑛には見せられない。第一あいつは、私が女だとは知らない。

「鴻宵」

 諫めるように、慎誠が私の名を呼ぶ。

「俺は壊した窓とか直さなきゃならないし、今の鴻宵を独りにはできない」

 哀も心配げに膝元にすり寄ってきた。

「もう大丈夫……哀だっているし……!」

神凪(かんなぎ)

 昔の、名前で呼ばれる。

 その声音に、真剣さが籠もっていた。

「これから先、またこんな事が無いとは言い切れないんだよ」

 びくりと跳ねた私の背を、慎誠は宥めるように軽く叩く。

「漣瑛は鴻宵の従者だろ。彼には鴻宵を護る義務がある……だから、知っとくべきだよ」

 何を、とは慎誠は言わなかったが、言う必要も無く私にはわかった。慎誠の言うことが正論だという事も。

「大丈夫、漣瑛は信用できる……そうだろ?」

 そう言われて、私は小さく頷いた。慎誠が私の頭を撫で、哀に行け、と手を振る。それから、私を抱き締めていた腕を解いた。

「心配要らないよ」

 私の腰に慎誠の手が回る。解かれていた帯を、締め直してくれた。

「万一漣瑛が変な気を起こしたら、哀が噛み殺すから」

 にっこり笑って言われて、私は吹き出した。まだ震えの残る手で、頬を拭う。


「将軍、お呼びですか」

「いいからとっとと開けなさい」

 漣瑛の生真面目な声に続いて、哀の声が聞こえる。きっと言葉と同時に哀の尻尾が漣瑛を叩いたに違いない。漣瑛が反論しかけてまた急かされる気配があって、ようやく扉が開いた。

「失礼します」

 私は漣瑛の方を見られずに俯いた。その拍子に服がまだ乱れていた事に気づいて、慌てて留め金を留めようとしたが、手が震えてうまくいかない。

「将軍、これは……!?」

 室内の状態を見て、漣瑛が息を呑む。その頭を、肩にいた哀の尻尾が叩いた。

「さっさと入って戸を閉めなさい。内々に済ませたいでしょ」

 白の領内で碧の使節が襲われたとなれば、両国の関係にひびが入るのは言うまでもない。慌てて哀の言葉に従った漣瑛は、座り込んだ私の傍に膝をついた。

「将軍、お怪我は」

「無いよ」

 答えたのは慎誠だ。既に木精霊を大量に集めて焦げた壁や床の修繕を命じている。今回の事件は無かったことにするのが、両国の関係にとっても私にとっても一番良い。

「怪我は無いけど、怖い思いをしたからね。落ち着くまで傍にいて貰いたいんだけど……」

 言葉を切った慎誠は、怖い思い、というのと私が結びつかないのか目を瞬いている漣瑛をじっと見据えた。

「君、口は堅いよね?これから先、鴻宵をちゃんと護っていく気はあるね?」

「無論です」

 唐突な問いだったにも関わらず、漣瑛は即答した。その様子を見て、慎誠は一つ頷く。

「じゃあ、頼んだよ。今の鴻宵は傷ついた普通の女の子だから」

「……は……?」

 漣瑛の訝しげな視線が向けられるのを感じて、私はびくりと肩を跳ねさせた。

 何だか居たたまれなくなって立ち上がろうと膝を浮かす。が、うまく足に力が入らずに失敗した。

「将軍!」

 反射的に支えた漣瑛が目を見開く。

 視線の先に、留め金の外れた私の衣服があった。襟と肩口が外されている為に、胸元が見えているかもしれないと気づいて、私は慌てて上衣の襟を掻き合わせた。

「え、あの、将軍……?」

 戸惑いに揺れる漣瑛の声に、後頭部を張り飛ばす小気味良い音が重なった。

「どこ見てんのよ!」

「え、だって……ぇえ!?」

 哀の控えめな怒声と、漣瑛の驚愕の声。本気で恥ずかしくなってきて、私は頭を抱えた。

「あの、将軍……」

 漣瑛がおずおずと声を掛けてくる。

「一体、何が……」

「この無神経男!」

 哀の尻尾がまた漣瑛を張り飛ばす。

「あんた慎誠の話聞いてた!?まだ震えてる子に遠慮会釈無く訊く馬鹿がどこに居るのよ!あんた彼女いないでしょ!」

「最後は関係無いでしょう!」

 すっかり漫才になった二人の会話を聞いているうちに、私の震えは少し落ち着いてきた。


 大丈夫、いきなりあんな事があったから驚いただけだ。

 それに。

 それに、沃縁の気配があまりにも平淡で、読めなくて、薄ら寒くなっただけ。


「もう、大丈夫」

 私が声に出すと、二人の口論がぴたりと止んだ。私は肩口の留め金を留めようとして、また留め損なった。

「将軍」

 漣瑛がやんわりと私の手をどけさせ、留め金を留めてくれる。

「あぁ、ありがとう……」

 礼を言う私を、漣瑛は少し複雑そうな目で見た。私は羽織の腰紐を締めながら自嘲気味に笑う。

 随分情けない姿を晒してしまった。

「幻滅したか?」

「いいえ」

 間髪を入れずに返ってきた答えに少し驚く。そんな私を数秒見つめて、漣瑛は頭を下げた。

「申し訳ありません」

「……え?」

 突然の謝罪に戸惑う私をよそに、漣瑛は言葉を連ねる。

「私がお守りしなければならなかったのに……気づく事もできなかったとは、慚愧の至りです」

「いや……」

 私は一考した。あれはどちらかと言えば沃縁が規格外なのだ。それなりに場数を踏んできた私ですら、易々と背後を取られた。

「それに……漣瑛では……」

 もしも漣瑛が異変に気づいて駆けつけていたら、恐らく漣瑛の命は無かった。沃縁と以前に対峙した時は知識も少なくて彼の力を評価できなかったが、今ならわかる。

 沃縁はかなり優秀な方士だ。下手をすると、五国方士に並ぶかもしれない程の。

「そういえば、慎誠はあいつが反太子派の重臣を暗殺しようとしてるような事を言っていたけど」

 ふと思い出して、私は哀に向かって言った。哀がひょこっと尻尾を上げる。

「私はよく知らないわ。でも、慎誠の掴んだ情報だとそうなるみたいね」

「それはおかしい」

 思わず、私は言った。哀が首を傾げる。私の脳裏には、あの盗賊事件の事があった。

「あいつは反太子派に荷担してた筈だ」

「いや、太子派だよ」

 割り込んできたのは、いつの間にか窓辺に戻ってきた慎誠だった。どこから調達してきたのか板を割って窓を造りながら、話し始める。

「確かに先日まで反太子派に雇われて色々やってたみたいだけどね。どうやら、雇い主に身上がバレて逐われたみたい」

「身上?」

 頷いた慎誠は、釘を打ちながら器用に話す。

「繋がりを隠してたからなかなかわからなかったけどね。沃縁には妹がいる。名前は沃季――白の太子の妾だよ」

「しょ……」

 私は何故かぎくりとした。


 白の太子は確か、蒼凌とそう違わない歳だった筈だ。いや、年齢と身分を慣習に照らし合わせれば夫人の二人や三人居る方が普通という事にはなるけれど……蒼凌の身辺にそんな気配が無い分、違和感がある。

 それとも、私が知らないだけで蒼凌にも――


「鴻宵?」

 訝しげな哀の声に、はっと意識を戻す。逸れていた思考を慌てて回収し、慎誠に先を促した。

「……つまり、沃縁は最初から太子に同情的だったわけ。彼がやった事を見てみると、不思議と太子派への被害が抑えてあるから、不審に思って調べてみたら当たりだったよ」

 慎誠は結構意欲的に白の情報を収集してくれていたらしい。

 言われてみれば、慎誠の言うことは正しそうだ。以前の盗賊騒ぎの時も、屋敷が襲われたのは全て当主不在の時だったし、昏でも沃縁は結局蒼凌を取り逃がしている。

「スパイだったわけか」

「独断でやってたみたいだけどね」

 出来た窓を枠に填めながら、ふと慎誠はこちらを向いた。

「そういえばあいつ、『鴻宵さん』って呼んで……なんかなれなれしい感じだったけど、知り合い?」

 私は少し困って、微苦笑を浮かべた。

「以前畢で起こった、盗賊騒ぎを知ってるか」

「ああ、あの反太子派の仕業って噂されたやつ」

 あの頃慎誠はまだこちらにいなかった筈なのに、本当によく調べている。私はぽつぽつと語った。

「私はあの時、畢にいた」

 漣瑛がちょっと目を見開く。しかし私が以前は旅暮らしをしていた事を聞いているんだろう、何も言わなかった。

「友人と旅をしていて……泊まっていた宿に、たまたまその盗賊が逃げ込んできて、役人が追った」

「それ……」

 その結末を知っていたらしい慎誠が、微かに顔を歪める。私は言葉を探して、結局語るのを避けた。

「私と友人は生存者を保護したんだ……方士から護る為に」

 そして、気づいた。

「その二人の生存者のうち、一方が犯人だったわけだ。つまり、それが沃縁だった」

「あれも、あいつだったんだ……」

 慎誠が呟く。私は少し遠い目をした。

「もう一人の生存者が晨葎……今はここの番兵をしてる」

 漣瑛が、あ、という顔をした。そこで口を噤もうとした私を、哀が見上げた。

「じゃあ、その時の友人って?」

 私は軽く目を伏せた。

「……函朔だよ」

 哀の尻尾がぴんと立ち上がった。言葉を探すように、視線が左右にさまよう。その様子に苦笑して、私は哀を抱き上げた。

「大丈夫……大丈夫だよ」


 その言葉は哀に対してのものなのか、自分に向けたものなのか。

 自分でも、わからなかった。


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