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水鏡五国志 [第二部 烈日之巻]  作者: 子志
章之参 秋潦
32/115

感傷

 橙の都、圭の東に寄り添うように築かれた邑、核。


 外出先から庵氏邸に戻ってきた函朔は、待っていたらしい庵覚に呼び止められた。

「函朔。お前さんに文が来てるよ」

「文?」

 函朔は首を傾げた。通常、庵氏邸に私兵宛の文が届くことなど無い。私兵達は大抵が流れ者の単身者であり、家族が居ても火急の用でもない限り連絡を取ることは無かった。

「急ぎみたいだから俺が預かっておいたんだ。早めに読みなよ」

「ありがとうございます」

 とりあえず礼を言って、文を受け取る。文の入った布袋の封をしている紐に付いた紋を見て、函朔は嫌な予感がした。

 白の函家の紋章だ。つまり、これは。

「家からの文?」

「わ」

 いきなり背後から声をかけられて、函朔は跳ねあがった心臓を押さえながら振り向いた。ここ暫く留守にしていたはずの仲間の一人が、へらへらと笑いながら立っている。この男の神出鬼没ぶりは今に始まった事ではないが、何度遭遇しても驚くものは驚く。

「慎誠!脅かすな」

「驚いた?ごめんごめん」

 誠意の欠片も感じられない口調で詫びて、慎誠は文に目を遣った。

「函朔ってひょっとして良い家の出?」

「関係無いだろ……」

 溜息を吐く函朔は、この男が少し苦手だ。嫌いというわけではないのだが、何となく考えの読めない感じがして気味が悪い。それに、最初鴻宵の代理としてやってきたというのも気に入らなかった。理由は自分でもよくわからないが。

 慎誠の目の前で文を読む気にはなれなかったが、庵覚が急ぎらしいと言っていたのを思い出して封を開ける。そこで、未だ傍に突っ立っている慎誠を睨んだ。

「向こう行けよ。人の文見る気か」

「見られちゃまずいことでもあんの?あ……恋人からとか」

「ねぇよ!いねえよそんなもん!」

 思わずむきになって言い返して、そんな自分に溜息を吐く。

「俺の故郷では溜息吐くと幸せが逃げるって言うんだよ」

「お前が傍に居ると幸せなんて全力疾走で逃げていくんだよ。第一お前の故郷の言い伝えなんか知るか」

「俺の故郷即ち鴻宵の故郷だけど?」

 この言葉に、文を開こうとしていた函朔は勢いよく振り返った。

 それはもう、慎誠が驚いて一歩引きかけるくらいの勢いだった。

「鴻宵の……?同郷なのか?」

「うん。あ、知らなかった?」

「知らねえよ」

 憮然として、函朔は文を綴じている紐を解く。開く前に、少し躊躇ってから、慎誠を顧みた。

「鴻宵……元気か?」

「うん。相変わらず」

「そうか……」

 複雑な思いを胸の底に押しこんで、今度こそ文を広げる。記された文章を目で追った函朔の顔が、さっと青ざめた。

「どうしたのさ?」

 そのただならぬ様子を見て、慎誠が首を傾げる。函朔は倉皇と文を畳むと、暫時躊躇うように俯いて、それから顔を上げた。

「悪いけど急用だ。俺は家に帰る。衛長に話してくる」

「家に?何かあった?」

 怪訝そうな慎誠に、函朔は青ざめた顔を向けた。

「……父が危篤だ」

 それだけ言って、庵覚のいる方へ走って行った。

「父が……へえ、函猛がね……」

 背後で慎誠がそう呟いたのを、函朔は知らない。




 碧の都、翠に辿りついてすぐ、白の函猛が矢傷が元で危篤に陥っているという報せが入った。

「紅が滅び、白から函猛が消える……大きく動きますよ、天下は」

 久しぶりに淵央の作った夕食を摂っている私にその報せを伝えた尉匡は、そう言って少し目を細めた。

 紅の錫徹に続いて、白の函猛という名将も消えようとしている。私の脳裏に、白で牢に捕らわれた時のことが蘇った。あの時、函猛は私を憎み、しかし函朔の諌めに従って私を生かそうとしてくれた。あれから、もう二年以上経つ。

「昏はどう動いている」

「今のところ大きな動きは無いといえるかしらね。碧と白が紅に攻め込んだ時に碧の北辺に攻めてきたけれど、叙寧が砦を守りきったし」

 と、これは私の足元で干し魚をぱくついていた哀が答えた。

「それより白に関して慎誠から補足があるわよ。……聞く?」

 どこか躊躇うような哀の言い方に、省烈がひょいと眉を上げる。

「何もったいぶってんだよ」

「聞きたいか聞きたくないか。鴻宵に訊いてるのよ。ちょっとばかり個人的なことにもなるから」

 個人的な事なら、何故皆の前で話すのだろう。内心首を傾げながら、私は答えた。

「聞こう」

「……危篤の報せを受けて、函猛の長男が国に帰ったわ」

 ぱしゃ、と私の手で揺れた湯のみの中で茶が撥ねた。皆が訝しげな視線を寄越す中、私は哀を見下ろす。

「白に、仕えるのか」

「さあ、そこまでは。でも函猛の死で白が不安定になれば可能性は高いわ。愛国心の強い人みたいだから」

「……ああ、そうだな」

 私の脳裏の風景が、先程より少し巻き戻った。

 畢の邑で泊まった宿で、私は函朔の故国への愛情を知った。白に害を為すなら許さない、と言った真剣な眼差しを思い出す。


 あの瞳に、今度は戦場でぶつかる日が来るというのだろうか。


「あの、将軍。函猛の息子と、面識が……?」

 私の様子を奇異に感じたのか、遠慮がちに尉匡が問うてくる。ああ、と言った私は視線を遠くに投げた。

「函猛の長男は国を出て流れ者をしていてな……私がまだ碧に仕える前、短い間だが共に旅をしたことがある」

 誰かが息を飲んだ。空気が重くなりそうなのを察して、私は敢えて笑う。

「この時勢ではよくある事だ。さあ、もう休もう。登蘭、風呂の用意を頼む」

 立ちあがって部屋を後にしながら、私は少しだけ切なくなって、胸を押さえた。



 翌朝、早朝に出仕の為に家を出る。冬の迫るこの時期、早朝ともなれば冷え込んで、吐く息が白く染まった。その白さを楽しむようにわざと息を細く吐いたり一気に吐いたりしながら、足を進める。高官になると馬車で出仕する者も多いが、私は歩く方が性に合っているので毎日歩いている。つまり道連れで漣瑛も歩くわけだが、最近ふと気づいた。


 長身の漣瑛に傍を歩かれると、男に比べるとどうしても小柄な私の背の低さが目立つ。

 うん、何故これまで気づかなかった、自分。慣れか。


 何しろ私の身長は漣瑛の肩より低いくらいだ。肩幅が無いのと相俟って武官としてはかなり華奢に見えるに違いない。

 私は今年十八になった。これまでは年齢のせいだと誤魔化せた部分もあったが、そのうち難しくなってくるかも知れない。

 すなわち、男だと言い張れなくなってくる。

 尉匡に見抜かれた事が、私の中に不安要素として沈殿していた。

「おはようございます、鴻将軍」

「おはようございます」

 位が下の相手にも、礼儀に外れない範囲で出来るだけ丁寧に挨拶を返す。高慢は敵を作り、卑屈は侮りを生む。なかなかに難しいものだ。

 考え事をしていても足は進むもので、王城に近づくにつれて人が増えてきた。この国ではこの時間に、堂に上れる高官もそれ以下の役人も、そしてそれについてくる従者や部下も一斉に出仕するのだから、案外賑やかになる。

「おはようございます、鴻将軍」

 挨拶をしてきた人間の顔を見て、私は内心驚いた。

「おはようございます、絽氏」

 諫議大夫、絽宙(りょちゅう)。すなわち、王の傍で反太子の心理を煽っている男の一人だ。

「聞きましたぞ。紅ではお手柄でしたな」

「そんな事はありません」

 私を取り込めるか見極めに来たのか、或いは既に抱き込みに来ているのか。他愛ない話の受け答えにも、私は細心の注意を払った。

「そもそも紅の半ばまで占領出来たのも将軍のお働きによるものですからな」

「私は王命に従ったまでです」

 何くれとなく話しかけてくるのを振り切る事も出来ず、並んで堂に上る。恐らく、他の者達に、我々は親しいのだと見せつけたいのだろう。ひとまずその思惑に乗ってやる事にして、私はにこやかな応対を心がけた。


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