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鴻家の現状

 こうして、鴻宵の家に臣下が一人増えた。

「だから、疲れてる時はこっちの茶葉なんだよ」

「そんなに急には覚えきれません。大体どうしてこんな使用人まがいのことまでしなければならないんですか」

「護衛から身の回りの世話まで全部こなしてこその従者だろうが。うちは人手が絶対的に足りてないんだよ。文句言う間に覚えろ」

 新しい従者は、現在範蔵の容赦ない教育を余すところなく受けている最中だ。

 夕食後の茶を飲みながらのんきに聞いていた鴻宵だが、人手が足りない、という言葉が胸にさくっと刺さった。

「もっと積極的に臣下を募集すべきなんだろうか」

「日雇夫の募集みたいに言わないでください。手が欲しいのも確かですが、それ以上に信用できない者は入れたくありません」

 思わず零れた呟きに、尉匡の苦笑が返ってくる。その言葉に、鴻宵の表情も苦くなった。


 つい数ヶ月前の事だ。紀春覇付きの将軍が、昏との戦で戦死した。

 鴻宵はその時たまたま都の司馬府の留守を預かっていてその場にはいなかった。戦場から戻ってきた春覇もあまり話したくなさそうな顔をしていたので鴻宵は敢えて深く訪ねることをせず、公式に詳細が発表されたわけでもないが、漏れ聞こえてきた情報によれば、家臣の中に当主に怨みを持つ者が居て、戦の折に主君の首を手土産に寝返ったということらしい。寝返りによって碧軍全体も痛手を受け、国境線を下げて撤退を余儀なくされたという。

 そういうことがあると、臣下の召し抱えにも一層慎重にならざるを得ない。


「それに、こんな破天荒な家に仕えたくないと思う向きもあるでしょうしね」

「確かに」

 鴻宵は苦笑交じりに頷いた。

 いったいどの辺りが破天荒なのかと言えば、差し当たって全部、と答えるほかあるまい。


 まず、たかだか九ヶ月で大夫まで登るという異例の昇進。

 普通仕官先を決める時、基準にするのはその主君が栄達出来るか否かという所だ。それにくっついて高位に上れるか、というのがかかってくるからである。

 しかしながら、この異様な昇進の速さは逆に人々に不安を抱かせたらしい。登るのが早ければ転落も早いのではないか、と疑って様子見をしている者も多いということだ。

 次に、その昇進の早さに似合わず、鴻宵が利権に見向きもしないというところである。戦場ではまるで功を焦るように単身で突撃をかけるような際どいことまでやるくせに、他家から差し出される甘い汁や贈られる金品には絶対に手をつけない。利に興味が無いくせに、功には貪欲にも見える。では名誉が望みかといえば、挙げた功績を誇る様子も無い。

 はっきり言って、目的が何にあるのかわからない。そこが、一種不気味な感覚を抱かせるのである。

 更に、この邸の状況である。

 功ある者に邸が与えられるという時に、わざわざこのような辺鄙で狐狼の居住区の目の前のような場所を割り振ったのは多分に大司空の嫌がらせを反映しているのだが、鴻宵は不満を漏らさないばかりか喜んで住んでいる。あまつさえ狐狼の子どもの面倒まで見始める有様である。

 そして何と言っても、この家の主従の感覚は普通とは異なっている。主君である鴻宵が、崇められるのは嫌だと言い、特に範蔵などは知り合いなので急に恭しく話されるのは気持ち悪いとまで言い切った為に、誰にでも丁寧に話す尉匡を除けば皆主君に対して対等に口を利く。鴻宵自身も、邸にいる時は口調がだいぶ砕ける。しかしながら立場をわきまえなければならないとわかっていないわけではない為、一歩外に出れば鮮やかに切り替えて見せるのだ。このことを、じつはまだ漣瑛は知らない。


 斯くして常識外れの下大夫、鴻宵には極端に臣下が少ないという現状に至るのである。


「明日は漣瑛を連れてご出仕なさるのでしょう?不都合が起こらなければ良いのですが」

「大丈夫だろう。頭は悪くなさそうだし」

 そう言って茶を啜る鴻宵の背後では、漣瑛が仕事の多さに頭を抱えながらも真面目に範蔵の教育を受けている。

 それを見やって苦笑した尉匡だが、確かに大丈夫そうだと見て話題を変えた。

「教育と言えば、このところはお帰りがお早いようですが、棟将軍のご講義は終わったので?」

「まあ、大方の所は」

 苦労を思い出したのか、鴻宵の視線が遠くへ彷徨う。


 鴻宵は下大夫の位に登ると同時に将軍職を拝命し、大将軍の一人である棟凱の麾下に移ったのだが、そこで棟将軍に戦略、戦術及び機の見方という物についてみっちりと叩き込まれる羽目になったのである。

 無論、ありがたい事ではある。将軍になったばかりの鴻宵は兵の動かし方もわからないに等しく、碧随一の兵略家と呼ばれ「神算」の異名をとる棟将軍の教えを受けられるのは幸運以外の何物でもなかった。

 但し、それが尋常の教えならば、である。

「本当、死ぬかと思った……」

 その一時期、鴻宵は毎日執務が終わってから翌朝の出仕まで、殆ど寝る間もなくしごかれ続けた。

 最初兵法の基本と指揮官の心得に始まった講義は、すぐさま地図を広げての実践となった。仮定された戦場でいかに兵を動かすか、実際に答えさせられるのである。次々と浴びせられる質問、戦況の変化に、素早く次の動きまで考えて解答しなければならない。下手なことを言えば、殴られる事こそ無かったが、きちんと「凱旋」出来るまで何度でも何時間でも考えさせられた。

 棟将軍という人は、声を荒げたり威嚇したりするわけではないのに何故かどんな偉丈夫よりも怖い師だと、鴻宵は思う。

「しかしあれだけしごかれたということは、それだけ鴻将軍を買っておられるということでしょうね」

「どこを買われたのか正直疑問だが」

 溜息を漏らした鴻宵は、今日はもう風呂を使って寝る、と言い残して席を立った。



 翌朝、鴻宵に従って朝廷へ向かった漣瑛は絶句した。

「おや、お早いですな、鴻将軍」

「おはようございます、虞将軍。矢傷はもうよろしいので?」

 周囲の年かさの大夫達に物おじせず、毅然としながらも礼儀正しく挨拶をかわしてゆく鴻宵は、その年齢の不足を微塵も感じさせない。家の中で過ごす時とは、だいぶ趣を異にする様子に、漣瑛は戸惑いを覚えた。朝会の行われる堂に消えてゆく背中を、唖然と見送る。

「驚いたか?」

 堂へは登れない従者達の待機場所へ向かいながら、範蔵が小声で訊く。その声音は、どこか楽しんでいるようでもあった。

「少し。しかし、考えれば当然のことですね」

 そう答えた漣瑛は、ちらりと範蔵を見た。この男も、家では主君である鴻宵にぞんざいな言葉づかいをしているのに、一歩外に出ると別人のように丁重に接するのである。

 しかし一般的に考えればそちらが普通なのであって、鴻氏邸の状態が異常なのだ。

 仕官を望んで第一に心臓の強さを尋ねられるのもむべなるかな。

「むしろ何故邸内があんなことに?」

「まあ、何と言うか……将軍ご自身の希望と、とある男の悪影響だな」

 範蔵が言うには、どうやら例の将軍の古い知り合い――ふらふらと放浪している臣下なのかそうでないのかわからない男――は相当な楽天家で、将軍が邸を構えてすぐにその男に後事を任せて出陣したところ、いつの間にやらこうなっていたらしい。

「何ですかそれは」

「まあそう言うな……お、章軌殿」

 ぼそぼそと会話していた二人だが、不意に範蔵が声を上げて視線を彼方へ投げた。漣瑛がつられて振り向くと、琥珀色の髪をした男がこちらに向かってくるところだった。その首元に枷が見える。

 ――あれが、覇姫様子飼いの狐狼か。

 噂に聞く人物の出現に背筋を緊張させる漣瑛をよそに、範蔵はその男に近づいていく。

「章軌殿、覇姫様はご息災ですか」

「ああ」

 言葉少なに頷いた章軌は、範蔵の後ろに居る漣瑛を見て問うような目つきをした。範蔵が漣瑛の背中を押して前に出させる。

「鴻将軍の新しい臣です。明日からこやつが鴻将軍のお伴をします。お見知りおきを」

「漣瑛と申します」

 漣瑛が頭を下げると、章軌は納得したように頷いた。それから、少し躊躇いがちに範蔵を見る。

「総華は、元気にしているか」

「ええ、それはもう。よく働いて下されています」

 そうか、と言った章軌の口元が、僅かに緩む。

 漣瑛は内心首を傾げた。総華と章軌の間に、どんな関係があるのか。その疑問を汲みとったかのように、範蔵が漣瑛を見てにっと笑った。

「章軌殿は、総華殿の兄上だ」

 漣瑛はぽかんとするしかなかった。


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