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水鏡五国志 [第二部 烈日之巻]  作者: 子志
章之弐 業火
27/115

斜陽

 九月己巳。

 私の率いていた軍勢は、都へ帰還した。

「ここからですね、問題は」

 こそりと耳打ちしてきた檄渓に頷きを返して、行く手に見えてきた王城を睨む。


 結果的に紅の領土を大きく削った今回の出兵は、成果から言えば勝ちとなる。但し、私が錫徹と遭遇するや否や撤退を決めた事は、王の耳に入っているだろう。

 憂いを胸に、私達は城門を潜った。



 復命した私の前に、温度の無い王の顔がある。

「鴻宵。紅軍と出会った途端に逃げたとは真か」

「相手は錫徹率いる五万の軍勢でした。長く戦えばこちらが不利と考え、撤退を選びました」

 私は冷静に答える。何を言われても態度を崩さないつもりだ。後ろにいる檄渓も心得ているのか、通ってくる呼吸は静かだ。

「ふむ……」

 一応私の言い分を認めたのか、王は思案げに視線を投げる。一度春覇を見て、それからその隣に焦点をずらした。

「大司寇。法に照らせば、鴻宵の撤退はどうか」

 指名された至鶯は、表情を変えずにおもむろに頭を下げた。

「軍の法は常の法にあらず、司馬の職責にて、私は申す所を存じません」

「強いて申せ」

 自分の管轄ではない、と言った至鶯に、王が敢えて発言を促す。至鶯は春覇に軽く目礼してから、存念を述べた。

「鴻将軍は紅の十余邑を攻略し、錫徹を白より去らしめました。出兵の目的は果たしております。また、錫徹の率いる大軍に一矢報いて速やかに撤退し、徒に兵を損じなかったと聞き及びます。功はあれど罪は無しと判じます」

 公正で知られる司法官が、罪無しと判断した。私は少し心が軽くなるのを感じたが、まだ予断は許されない。

「ならば大司馬。そなたはどう見る」

「はっ」

 ぴしりと折り目の正しい礼をして、春覇が言を挙げる。

「鴻将軍は王命に従い進軍し、国の兵を損なわぬ為に引き上げました。良将は勝てぬ戦はしないと申します。増して撤退に際して敵の中軍旗を奪い取り、一矢を報いました。その功績は大きく、罪する所無しと存じます」

 軍事を司る司馬として、春覇ははっきりと言い切った。王は頷き、こちらに目を戻す。

「よかろう。罪無しとして功を認め、絹二十匹を与える」

「ありがたき幸せ」

 どうやら、紅の領土を大量に奪った事で王はとりあえず満足したようだ。これまでの王命が強引だっただけに、理不尽な処罰が無かった事に安堵するが、これからを思うと気が重い。


 碧の国内にはあろう事か、王と太子が対立するという図式が顕れつつある。


 外に目を転じれば、今回の紅攻めは明らかに勝ちすぎた。恐らく、紅人の怨みを買っている。事によると錫徹が白を後回しにしてこちらに注意を向けてくる可能性もあった。


 気分の晴れない私は、堂から退出するとすぐに檄渓の袖を引いた。

「紅方面の偵牒を密に。今回版図に加えた邑の動きに気をつけろ」

「はい」

 目で頷いて、檄渓は足早に将軍府へ向かっていく。私は宗伯府へ向かおうとして、ふと漣瑛を振り返った。

「今慎誠は家にいるだろうか」

「わかりません。何も報せは来ていませんが」

 私にずっと付いている為に、漣瑛も帰還後まだ家に帰っていない。私は少し考えて、漣瑛に指示を与えた。

「家に使いしてくれ。慎誠が居たら宗伯府に寄越して欲しい。居なければ哀に来させてくれ」

「わかりました」

 一礼して、漣瑛は踵を返す。私は今度こそ宗伯府へ向かった。


 暫く後、宗伯府には慎誠が来た。

「賞はあったが罰は無かった」

「それは大慶」

 人払いをした執務室で、まずは報告する。

「こちらで動きは」

 その後の都の事を訊けば、慎誠は首を横に振った。

「特に無いかな。君側の鼠は戦略が全くわかってないだけで、鴻宵を排除する気は無いみたい。というか、取り込めるかどうか様子見中、ってとこかな」

 あの無茶な王命は、私への悪意というよりは戦略眼の無さが産んだものらしい。それにしても王自身がその命令の不条理さに気づかなかったという事実が気を重くさせる。

「太子が邪魔なら春覇も邪魔だろう……そのうち私も邪魔になる」

「だろうね」

 私は溜息を吐いた。春覇が蒼凌を敬愛している事は周知の事実だ。蒼凌を排除するにはまず春覇を除かなければ、と誰でも考えるだろう。そういう目で見た時、私は春覇に近い。元々春覇の推挙で仕官した身だ。

「距離を置くふりでもしてみるか……いや、しかしそれはそれで不自然だな」

「そうだね。それに、棟将軍もどちらかというと太子や春覇寄りだし、離れるのは却って得策じゃないかもしれない」

 他の高官達と違って、私には一族という後ろ盾が無い。だから、春覇や太子から離れないと見られると諸共に葬られる危険がある。

 しかし現時点では、結局どうにも身動きは取れなかった。

「まぁでも、鴻宵自身実力者として評価されつつあるから、抱き込みの動きはあるだろうね。そこでどこまでうまく立ち回るかが鍵になる」

 慎誠の言葉に、私は小さく溜息を吐いた。

 まったく、腹の探り合いなんて面倒な事この上ないというのに。

「……気をつけておく」

 力なく呟いた私は、慎誠に引き続き情報を集めるよう指示して、話題を変えた。こっちが本題だ。

「結果的に、碧は紅の半分近い土地を削った」

 無茶な王命に引きずられての事とはいえ、その成果は事実だ。そこに基づいて、頭を切り替えなければならない。

「はっきり言って、紅を滅ぼせる」

 宰相依爾焔を捕らえた今、紅の国政を動かせる程の器量を持った人間は錫徹ただ一人と言っていい。極言すれば、錫徹の軍を破りさえすれば紅は落ちたも同然だ。

「しかし錫徹が取られた邑を奪い返しに――」

「来ないよ」

 断言した慎誠を、怪訝な目で見遣る。慎誠はどこか寂しげな顔で笑った。

「紅の都にいる知り合いが報せて来たんだ。紅王は碧を……もっと言えば鴻宵を恐れて碧に和睦を乞おうとしてる」

「錫徹が許すものか」

「それに碧も生半可な誠意では許すまい、と王も考えた」

 慎誠が続けた言葉に、私は首を捻る。慎誠は悲しげに言った。

「その両方を解決できる方法は、つまり……錫将軍の首だよ」

「馬鹿な!」

 思わず、私は叫んで腰を浮かした。

 錫徹を殺せば、紅には人材が居なくなる。第一錫徹の部下の軍人達が黙ってはいまい。国力を尽きさせた上で内乱を引き起こす羽目になる。そんなもの、碧と講和できたって何の益も無いじゃないか。

 それらの事を言い募ろうとした私に、慎誠はわかっている、という手つきをした。

「怯える者に大局は見えないものだよ」

「ああ――」

 私はうなだれた。錫徹が王に殺されるような事になれば、他国が手を拱いていても紅は自滅するだろう。また錫徹が王の手にかからず逆に王を弑する事になれば、政情も人々の気運も不安定な今の紅はたやすく混乱するに違いない。その混乱を、碧も白も逃さない。

「紅は滅ぶ……」

 五国の南方の雄が、こんなにも呆気なく消える。

 私はふと朱雀を思った。ひょっとすると、朱雀の加護が極度に弱まった事が、この落日を招いたのかも知れない。

「……爾焔に、会ってきてくれ」

 東方の角邑に幽閉されている爾焔は、そして錫雛は、この事態を見てどんな思いでいるだろう。

 私の指示に、慎誠は眉をひそめた。

「この時期に、鴻宵が紅の捕虜に使いを出すのはあんまり良くないんじゃない?」

 紅に関心が集まっているこの時期に私が爾焔に使いを出せば、何を企んでいるのかと人目を引くことは免れない。まして角邑は太子の領地だ。現状では余計に痛くもない腹を探られかねない。

 そう言う慎誠に、私はふっと笑った。

「角に使いを出す理由なんてないさ。私は領地の蒼浪の様子を見に家臣を使わすだけだ。でもその家臣は不真面目な奴だから、帰りにふらっと手近な邑に寄るかも知れないし、そこでふと主君が捕らえた捕虜の存在を思い出して様子見に行ったりはするかも知れないな」

 東方の端、海の近くにある蒼浪は角邑に近い。蒼浪から都へ戻る途中、ほんの少し北へ行けば角邑に立ち寄れる筈だ。もっともらしく私が言うと、慎誠は一瞬目を瞬いてから吹き出した。

「なるほどね」

「というわけで蒼浪の邑宰に届け物でもしてこい」

 そう言った私は、その日のうちに慎誠に近況を記した文を持たせて送り出した。


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