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水鏡五国志 [第二部 烈日之巻]  作者: 子志
章之弐 業火
26/115

瞬息の交戦

 迅速な撤退を命じた私は、全軍にとにかく駆けさせた。騎兵三千は私に従わせて最後尾を駆ける。できるだけ被害を減らすためには、少しでも遠くへ逃げておかなければならない。

 後方に出した斥候が、紅軍がこちらを追って進軍を速めた事を告げた。

「急げ!追いつかれる前に砦に入るのだ!」

 国境より少しこちらに、比較的強固な砦がある。そこへ入ってしまえば、時間を浪費できない紅軍は敢えて攻めてくることはしないはずだ。


 紅の気候は暑い。夏を過ぎたばかりの今は灼熱と言っていい。

 ばてそうになる兵を励まし、時に馬に乗せながら、全力で砦を目指した。



 数日を僅かな休憩のみで駆け抜け、鈍る速度を必死に引き上げていると、漸く砦が見えてきた。

「あと少しだ!全力で駆けよ!」

 そう私が督励した時。

「申し上げます!」

 喉から出ようとしていた呼気が、動きを止めた。

「後方二里の距離に、紅軍!」


 ついに来た。


 すぅっと体温が引いて行くのを感じる。

 隔たりは僅か二里。

 歩兵に追いつかせてはならない。


 喉に張り付く息を、私は無理やり押しだした。

「騎馬三千は私の下で隊列を組め。残りはとにかく走れ!」

 兵士達が、諸将の励ましに従い、見えている砦に向かって全力で駆ける。私は手勢を纏め、集団からやや距離を置いて後ろに着いた。

「紅軍が見えました!」

 斥候からの報告を機に、私と私の手勢だけが逃走を停止し、反転する。

 土埃の向うに、赤い旗が見えた。

「深入りする必要は無い。砦に兵を収容する時間を稼がなければならない。何としても食い止めるのだ!」

 私の命令に、兵士達が喊声で応える。その声も、私の全身も、緊張を帯びていた。


 相手は五万。疲れ切った三千の兵で、どこまで対抗できるか。

 相手は、五国に名を轟かせる大将軍だ。


 飲みこんだ唾液が乾いて張り付いた喉を通り、痛みを生ずる。

 私は一隊の先頭に立ち、矛を握りなおした。

 少し距離を置いて、紅軍が停止する。軍の中程が割れて、兵車が二乗進み出た。それに合わせて、私も馬を進める。背後には漣瑛が付き従った。

 私が紅に居たころ以来になる錫将軍は、少し痩せて鋭さを増したように見えた。

 さすがは一国の実力者だ。その威圧感を真正面から受けて、私は怯みそうな体を叱咤して背筋を伸ばした。

「貴公が、鴻将軍か」

 錫将軍が言葉を発した。私は戦場の礼をもって将軍に敬意を表す。

「いかにも。そちらは錫将軍とお見受けいたします」

 会釈をした私が顔を上げると、次の言葉を口にしようとしていた錫将軍が、寸時言葉に詰まったように私の顔を凝視した。


 ああ、顔を覚えていたのか。少し距離が近すぎたかも知れない。


 私は一瞬素性をばらされる覚悟をきめかけた。最悪、本当に最悪の結果としては、この場にいる兵の口を封じなければならないかもしれない。でないと、私は碧にいられなくなるだろう。


 しかし、何を思ったか錫将軍は瞬き一つで何事もなかったかのように表情を戻し、言葉を続けた。

「その通り、私が錫徹だ。この度の碧軍の侵略横暴は目に余る。叩かせて貰うぞ」

「こちらもおとなしく叩かれるというわけにはまいりませんので。くれぐれも御身にはお気を付けください」

 挑発の言を吐いて、私は真っすぐに錫将軍を見た。無論まさかこの戦いで錫将軍を捕らえるというようなことは考えていないが、このくらいの虚勢は張らないと士気において負けてしまう。ただでさえ、著しく不利な状況なのだ。

「そうか。ならば早々に戦うとしよう」

「将軍」

 対話を切り上げようとする錫将軍を、私は呼びとめた。

「御子息は息災にしておられますよ」

「それはよかった」

 錫将軍には会話を続けようとする気配がない。再度呼びとめようとした私を、不意に将軍が顧みて軽く笑った。

「鴻将軍。国想いは結構だが、貴公に小細工は似合わんようだ。時間稼ぎはここまでになされよ」

 ばれていた。私はひそかに唇をかむ。


 錫将軍と開戦の対話をしながら、私の脳裏では常に碧軍が砦に入るまでの時間が計算されていた。あわよくばぎりぎりまで対話を続け、真正面から戦うのを避けようと目論んでいたのだ。


「惜しいな。貴公ほどの人物が小細工を弄してまで下らん命令を守るとは」

 錫将軍が呟くように言う。目が合うと、真剣な目で私を見据えた。

「そこまでする価値があるのか。貴公ならもっとうまい生き方ができように」

 暗に、碧を捨てることを示唆している。私は苦笑を浮かべた。

「自分で決めた事ですから」

「……そうか」

 今度こそ私に背を向けて、将軍は自陣へと戻った。私も馬首を返し、元の位置に戻る。

「進め!」

 進撃を告げる太鼓が鳴る。三千の騎兵が、五万の軍勢を食い止めるべく猛然と駈け出した。



 目的は勝利ではない。時間を稼ぐだけ。


 数の少ない兵を、私は小さくまとめた。生憎丘陵地帯ではないが、何もない平原は避けて通ってきたので、方々に林がある。林の中を大軍が抜けるのは困難だから、林の間の道を通らせないようにすれば十分に時間稼ぎは出来るはずだ。

 隊を分けられたとしても、林を抜けていたのでは主力軍にはもう追いつけないはず。


 しかしこの戦、こちらが止まっていては恐らく勢いに負けて覆滅させられる。

 私は決心した。


「周囲と離れるな。小さくまとまって進め。決して立ち止まるな。突撃!」

 隙間なく纏まった騎馬隊が、一丸となって紅軍の中軍と左翼の間に飛び込む。意表を突かれた紅軍が立ち騒いでいる間に、一気に中程まで駆け抜けた。

 錫将軍の兵車が、近い。

 我に返った紅軍は、私の狙いを将軍だと判断し、反射的に中軍を守るべく集まりだす。押し包まれる形になった隊列は、周りから少しまた少しと兵を削られていった。包囲網が完成する前に、中軍の傍を掠る形で駆け抜ける。

 駆け抜けざま、私は紅の中軍の旗印を奪い取った。一瞬錫将軍と目が合った気がしたが、私は速度を緩めることなく駆け抜けた。


 紅軍の波の中を抜け、砦への道に立ちふさがる。奪い取った旗印を、そこに突き立てた。

「これが碧軍の意地だ、錫将軍」

 不意を突かれ十分に応戦できないままに中軍を脅かされたと知った紅軍に動揺が走る。私はちらりと背後に目を遣った。碧軍の主力はほぼ砦に入っている。私の率いた兵は、五百ほど減っていた。

「退け!」

 号令一下、私の隊は踵を返して駈け出した。これもまた、紅軍に反応する暇を与えないのが肝要だ。

 紅軍のざわめきの中に、錫将軍の笑い声を聞いた気がした。




 あっという間に紅軍の中を一文字に駆け抜け、奪った旗印を見せつけたと思ったら途端に袂を翻して走り去っていく。

 そんな破天荒な用兵をしてみせた鴻宵を見送る紅軍は、戸惑いを禁じえなかった。殆どの者は、何が起こったのかすら分かっていない。

「追いましょう!将軍!」

 慌てて錫徹に声をかけた副官は、錫徹の指揮が珍しく迅速さを欠いていることに内心首を傾げた。しかも彼は、副官が声をかけたにも関わらず追撃命令を下さずに黙っている。

「将軍?」

 怪訝に思って呼びかけた時。突如、錫徹が笑い始めた。それも、見たことが無いほどの哄笑である。

「将軍?」

 ぎょっと身を引く副官に、錫徹はなおも笑いながら言った。

「なんという男だ。そうは思わんか」

「はぁ……」

 副官としては、追撃の方が気になってそれどころではない。第一、何故錫徹がこんなにも笑うのか、彼には分らなかった。

「将軍、追撃は……」

「よい。あれを追っても益はあるまい」

 あっさりとそう言って退却を命じる錫徹に、副官は愕然とした。

「そんな……それでは我が方の損害が大きすぎます」

「致し方ない。早急に白の戦線へ戻るほかあるまい」

 錫徹は気にした様子もないが、実のところこの侵攻で紅は領土の半分近い広大な土地を碧軍に奪われた。宰相すら碧に奪われた状態で、紅には既に衰退の兆しが見えていると言っても過言ではない。損失はあまりにも大きい。

「将軍……!」

「碧には有望な人間も多いが、上に軋轢があるようだ。鴻宵を排除するようなら早晩自滅するだろう。それから借りを返しても遅くは無い」

 そう副官に諭して、錫徹はふと空を見上げた。鴻宵の顔を見たときの驚きと、二年近く前の記憶が去来する。

「なるほど、朱雀を拒絶しただけの事はある……」

 笑みを含んだ錫徹は、誰にも聞こえない声で小さく呟いた。




 紅軍を振り切って砦に入った私は、体勢を立て直しつつ都に使者を立てた。

 再度侵攻するか、都に帰還するか王の判断を仰ぐためだ。

 我々としては当然このまま撤退したいと考えているが、独断で引き揚げれば、何故王の指示を仰がないのか、とつけこむ隙になるだろう。但し再度兵を進めるとなれば錫将軍も何らかの手を打ってくるだろうから、これまでのように容易にはいかないだろうが。


 兵を休ませ、軍備の手配をしながら返答を待った私の下に届いたのは、撤退命令だった。


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