ついにその時は訪れる
張が近づいている。
すなわち、紅の領土の半分近くを取ってきたということになる。進むにつれて、侵攻は容易になった。味方の邑が次々に落とされていくのを見て恐れ、降伏してくる邑が多数あったからだ。それらの邑主を更迭し、兵を配して進んでいくこの速さは、恐らく碧始まって以来の快挙に違いない。
しかし、武将達の表情は晴れるどころかどんどん暗くなっていった。
「……錫徹が出てくる前に、引き返したいものだが……」
恐らく難しいだろう希望を呟いて、私は檄溪以下味方の武将達と顔を見合わせた。
もしも錫将軍が出てくれば。
勝ち目は、無い。
「申し上げます!」
その報せが来た時、私は喉の渇きを覚えた。
来た。
いずれ来ることはわかっていた。わかっていながら、この現状をどうする事も出来なかったのだ、私は。
王命に抗することも、より良い策を見つけることもできないまま、ついにその時を迎えてしまった。
「紅の大将軍、錫徹が兵五万を率いてこちらへ向かっています!」
好き勝手に紅の領土を荒らす碧軍に痺れを切らし、これまでずっと白を向いていた錫将軍が背後を振り返る、その時を。
「どうすべきか」
空気の沈みきった軍議の席で、私は苦渋の決断を強いられていた。
「錫徹が来れば戦えば良い。不敗を誇る鴻将軍ならば出来ましょう」
張を目前にやってきた王の使者は、楽観的な観測を述べた。私に対する悪意を籠めて嫌味で言われたのかと思えば、どうもそうではなさそうな事に、逆に慄然とする。
これまでの勝ちに味を占めて、王側の観測が異常に甘くなっている。たかだか二万の兵で、五万の兵に勝てるわけがない。そんな奇跡を許すほど、錫将軍は甘い相手ではない。
鎧袖一触、蹴散らされてしまうのが落ちだ。
この状態を危惧しながらも、私はこれまで軍を止めることが出来なかった。止めれば王命に逆らうことになり、私の地位はおろか命すら危険にさらされる。それはここにいる武将達も同様だ。
だが一方で、このまま戦えば行く先は敗戦であることも目に見えている。錫徹の軍にまともにぶつかれば、徒に兵士を死なせ大きな損害を被ることは避けられない。
八方ふさがりだ。
私は大きく息を吐いた。
どちらを選んでも、もう私は無事には済まない。
ならばせめて、無駄な人死にだけは避ける方法を選ぶべきだろう。
「撤退しよう」
私が言うと、軍議は安堵の雰囲気に包まれた。しかしすぐに、また違う不安が満ち始める。
「王命に反する事になります」
敵前逃亡の誹りを免れない、と、檄溪がこの男にしては珍しく固い表情で言った。彼もまた苦悩し、しかし良策を見つけられなかったのだろう。私は一度深呼吸した。
八方ふさがりの状況を打開するためだ。命がけでなくてどうする。
「戦えばいいのだろう」
努めて軽く言った私に、皆が訝しげな眼を向ける。私は地図を広げ、檄溪に言った。
「命知らずの騎兵を三千、選りすぐってくれ」
「将軍……!」
一言で私の意図を悟ったらしい檄溪が絶句する。武将達はあるいはざわめき、あるいは疑問の声を発した。
「何をなさるおつもりか」
問いを発したのは棟家の将だった。私は軽く笑う。
「戦えば敵前逃亡ではない。多くの兵を死なせるには忍びないので、私が行こう」
「死ぬおつもりか!」
顔を青くして立ちあがったのは至家の将だ。
「死ぬつもりはない。捕虜になるつもりも。その為の策を練っているところだ」
言い切った私に、武将達は言葉を無くした。ややあって、檄溪が、騎兵の選定に行きます、と静かに言った。
一方、紅軍の幕舎では。
地図を睨みながら考えを巡らせているらしい錫徹に、水を運んできた副官が声をかけた。
「将軍、こんなに兵を急がせて大丈夫でしょうか。碧軍に追いつく頃には疲れきっているのでは……」
危惧する副官にちらりと目を遣って、錫徹は首を振った。
「碧軍も疲れている。数も二万だ。この勢いのまま行けば勝てる」
「しかし、碧の鴻宵という将軍は有能だと聞いていますが……」
なおも不安げな副官に、錫徹は目を伏せたまま頭を振った。その様子がどこか無念そうに見えて、副官は首を傾げた。
「いかに鴻宵が良将でも、既にある条件を覆すことはできない。不運だということだ」
「はぁ……」
錫徹からすれば、良将と名高い鴻宵がここまで深入りしてきたのが解せなかった。
どうやら碧の朝廷に不穏な動きがあるらしいと聞いて、そのせいで意に染まぬ進軍を強いられているのだろうと見当を付けている。錫徹の言葉に不得要領の返事をしながら、副官は、将軍は実は万全の状態の鴻宵と対峙してみたかったのではないか、と漠然と思った。
「進軍を急がせるのは、それゆえだ」
「はい?」
目を瞬く副官を後目に、錫徹は地図をなぞる。
「鴻宵には恐らく、この戦いに勝ち目が無い事がわかっていよう。良将は勝てぬ戦いをしないものだ。とすれば……」
錫徹の眉間に、くっきりと溝が刻まれる。
「迷わず逃げるぞ、あの男は」
「え?」
予想外の言葉に茫然とする副官に、錫徹は独り言でも呟くように告げた。
「鴻宵は機を見るに敏だ。勝てないと見ればさっさと退くだろう。追いつけなければ、痛手を蒙るのはこちらだ」
何しろ白の戦線を部下に任せて錫徹自ら出向いているのである。それが無駄足だったとなれば、紅の軍事費と将軍への信頼度に与える影響は大きい。何としても追い付いて、何らかの戦果をあげなければならない。
「明日も走るぞ。休んでおけ」
「はぁ……」
結局錫徹の思考を理解することは出来ないまま、首を傾げながら副官はさがった。
「鴻宵、か」
一人になった錫徹は呟いた。彼に捕らえられた息子の顔がちらつく。
「政争なんぞの餌食にするのは惜しい将なのだがな……」
溜息に紛れた独り言は、誰に聞かれる事もなく夜闇に溶けた。




