鴻氏邸
さて、これはどういう状況か。
あの後、漣瑛は本当に鴻将軍に仕えていいのかと再三念を押されたが、是非仕官したいと押し切った。
元から命を捨てた気で郷里を出てきたのだ。主君に仕えて戦場で死ねるのなら本望というもので、仕官出来ずに野垂れ死ぬ自分を何度も想像した漣瑛に迷いは無い。
しかしながら、漣瑛の意志の固さを見た尉氏は、それでもこう言ったのだ。
「まあ、でも、一度この屋敷を見てから決めなさい。それでも意志が変わらなければ、将軍のお許しを頂いてお仕えすることになります」
そして、現在の状況に至る。
暫し言葉を失っていた漣瑛は、傍らで涼しい顔をしている尉氏を顧みた。
「あれは、どういう?」
「見ての通りですね」
漣瑛はもう一度前を見た。それでも、情景は変わらない。
漣瑛の目の前に見えているのは、曲がりくねった回廊をいっぱいに使って走り回る子供達の姿だった。
「え、将軍の……?」
「まさか」
言下に否定されて、何となく安心する。
地方に流れてきた情報しか知らない漣瑛は将軍の正確な年齢は知らないが、比較的若いはずだ。少なくともこんなに……十人以上の子どもを持てるような歳ではないだろう。第一、未婚だと聞いている。
良く見ると、すぐそばを走りぬけて行った子どもの首と手首には枷があった。
「狐狼……?」
ざっと見回すと、みんなそうである。
いや、枷の無い子も一人、いや、二人。
「これは……」
「あら、お客さん?」
鈴を鳴らすような声に振り向くと、少女が立っていた。
彼女にも、やはり狐狼の枷が付いている。走り回っている子どもたちよりはやや年かさで、十四、五歳に見える彼女は、その手に野菜を入れた籠を提げていた。
「ああ、総華殿。こちらは漣瑛さん。仕官しに来た人です」
尉氏が漣瑛を紹介する。あら、と目を瞬かせた少女は、花が咲くように笑った。
「こんにちは。私は総華です。びっくりしたでしょ?子どもばっかりだから」
「はい。これはいったい?」
尉氏が教えてくれそうにもないので、漣瑛は総華に疑問を投げかけてみた。総華は微苦笑を浮かべる。
「このお邸のすぐ裏が狐狼の居住区なの。親が居ない子がたくさんいるのを見て、鴻宵が『どうせなら面倒見てやる』なんて言ったもんだから」
呆れたような口調で言いながら、総華はくすくすと笑った。その表情が酷く穏やかで、漣瑛は何だか戸惑いを覚えてしまう。
「そんな人なのでね、寛容な人でないと仕官しても耐えられなくてやめてしまうんですよね」
尉氏の言葉を聞いて、漣瑛は納得した。なるほど、最初の質問の理由はこれか。
「こらぁあ!!餓鬼ども!!」
唐突に怒鳴り声が聞こえて、漣瑛はひやりと首をすくめた。
子どもたちがきゃー、と楽しげに騒ぎながら一斉に散って行く。
「いい加減騒ぐのやめねぇと晩飯抜きにすんぞ!!」
怒鳴りながら手近な子どもを片手に二、三人ずつひっ捕まえたのは、門番ほど大柄ではないががっしりした壮年の男だった。
言葉を無くす漣瑛に、尉氏が澄まし顔でその男を指して見せる。
「あちらが家宰の省烈です」
漣瑛が仕官する家は、とにかく個性的な顔ぶれの揃った場所らしい。
家の惨状を見ても意志を曲げずに仕官を望んだ漣瑛を、尉匡も省烈も、そして総華も歓迎した。
どうやら将軍の臣下は、ここに居る他には門番が二人交代で門に立ち、将軍と行動を共にしている従者が一人、台所に居る使用人が一人、馬の世話をする圉人が一人、将軍の食邑――つまり領地を任されている邑宰が一人、それからふらふらと国内外をうろついていて臣下なのかそうでないのかわからないような男が一人いるきりらしい。
「何故そんなに少ないんです?」
「軍の中には麾下はたくさんいるんですけどね。暫く前までは士分と言ってもほぼ司馬府に住み込むような状態でしたし、私臣を作る余裕が無かったというか……邸を持たれてからは仕官しに来る人は勿論いくらでもいましたが、この家を見るとやはり……」
尉匡と話をしている漣瑛の前では、騒ぎ過ぎた子どもたちが正座させられて大人しく書写をしている。
「因みに我々のうち省烈と総華、それから使用人の紫梗以外はみんな覇姫様の指示で将軍に付けられた者です」
「覇姫様の?……ああ」
漣瑛は、昨年の秋に囁かれていた噂を思い出した。
確か鴻氏は、青龍と一時契約して覇姫を昏軍の包囲から救い出したのだ。その功が認められて大司馬である覇姫に仕え、今月の昇進に伴って覇姫の下から大将軍麾下へ移った。
その関係で覇姫とは浅からぬ縁がある事を考えれば、覇姫が何人か部下を付けてやっていてもおかしくはない。
「ああ、あのふらふらしている男は違いますがね。あれはどうやら将軍の古いお知り合いのようですから」
尉匡がそこまで説明した時、玄関から主人の帰宅を告げる声がした。
漣瑛が顔を上げるより先に、子どもたちがぱっと顔を輝かせて立ち上がる。
「しょーぐんだ!」
「おい、こら!!最後まで書いて行け!」
省烈の怒鳴り声もなんのその、わっとばかりに飛びあがった子どもたちは、一斉に戸口めがけて走って行った。
子どもたちが走り抜けた少し向こうから、慌てたような声と重い物音がする。続いて、怒声が響いた。
「またかお前ら!こら、潰すな、どけ!全員整列!前進!」
その声に押し出されるように、子どもたちが戻ってくる。指示に忠実に、きちんと一列縦隊になっていた。
「まったく……」
その少し後から、ぶつぶつと言いながら男が姿を現す。歳は三十前後といったところだろう、敏慧そうな目つきの男である。
一瞬それが将軍かと思って肩を緊張させた漣瑛を、尉匡の声が留める。
「将軍はどうなさいました?」
「着替えだ。餓鬼どもに潰されたからな」
呆れたように言った男の目が、漣瑛を捕らえて瞬いた。
「そいつは?」
「仕官に来たんです。漣瑛さんと言います」
尉匡に紹介され、漣瑛は慌てて頭を下げた。男がへぇ、と言って漣瑛に向き直る。
「物好きもいたもんだ……俺は範蔵。従者をしている」
「漣瑛です。よろしくお願いいたします」
中背の範蔵は、漣瑛よりだいぶ背が低い。
挨拶を交わすと、範蔵は子ども達を追いたてる省烈を手伝いに行った。
どうやら子どもたちは離れで夕食を食べ、居住区に帰るらしい。将軍家とは思えない、ほほえましい光景である。
ぼうっとそれを見守っていた漣瑛の前に、範蔵が戻ってきた。
「お前、武術は得意か」
唐突に聞かれて、漣瑛は背筋を伸ばした。
「はい、まあ」
「俺と手合わせしよう。お前が勝ったらお前が従者をやれ」
「ええ!?」
いきなりの申し出に、漣瑛は目を白黒させる。
「一応、将軍のご認可がまだなのですが?」
尉匡が口を挟むと、範蔵は軽く笑った。
「断りはしないだろうよ。それに、従者が俺では、やはり少し見劣りする」
範蔵の笑みに、苦味が混じった。
将軍の従者となると、武芸に達者で体格や容姿も見栄えのする者が選ばれる事が多い。その点、中背の範蔵では他の将軍の従者と比べて小柄に感じられるのは避けられなかった。
鴻宵自身は気にかけていないようだが、他の将軍の従者達から自分へ、ひいては自分の主への軽視を感じるのはやはり気分が悪いものだ。
そういう目で見ると、漣瑛はいい。武人としてはやや細身だが長身だし、目鼻立ちも悪くない。あとは実力さえあれば適任なのである。
「ほら、庭へ出ろ」
戸惑っている間に範蔵に背中を押され、漣瑛は庭に降りた。木剣を渡され、範蔵と向き合う。
なるようになれ、と漣瑛は木剣を構えた。
「始め」
尉匡の掛け声で、試合が始まる。
漣瑛はただ無心に、範蔵が打ちこんでくる剣を受けた。咄嗟に蹴りをだしそうになって、ぐっとこらえる。
数合打ち合いをすると、範蔵は剣を下ろした。何やら口を開こうとしたところで、不意に聞こえた拍手がそれを遮る。
期せずして全員の目が、その音の出所に向かった。
先程まで皆が居た堂の外をめぐる回廊に、いつの間にか青年が立っていた。
青年と言うよりは少年と言う方が似合っているかもしれない。
細身のやや小柄な体躯に、涼しげに整った面立ち。その少年は、漣瑛と目が合うと目元だけで微笑った。
「良い腕をしてる。剣は範蔵と互角ぐらいか。でも、剣は苦手なんじゃないかな?足が出そうになっていたようだけど」
看破されて、漣瑛は目を見開いた。
武芸に長けているようには見えないこの少年に、そこまで見抜かれるとは。
「彼は漣瑛と言います。将軍にお仕えしたいと……それから、範蔵殿が彼と従者の任を交代しようと言っておりますが」
尉匡が説明すると、少年は何か考えるように顎に手を当てた。
「なるほど……では範蔵に臣下集めをしてもらって、尉匡には外向きの事を頼もうか。もう少し他家との付き合いを広げなければならなくなるだろうし」
「そうですね」
少年の提案に、尉匡が同意する。
範蔵が木剣を収め、少年の方へ歩み寄った。
「じゃあそういうことでいいな。明日一日は俺も同行してあいつに仕事を教える」
「そうしよう」
とんとんと進む話に、漣瑛だけが付いて行けない。
あの、と声を上げると、視線を寄越した少年がああ、と手を打った。
「挨拶がまだだったな」
こちらに正対する少年を見て、漣瑛の中に、まさか、という思いが広がる。
先程の会話で、臣下の役割をこの少年が決めていた。
まさか、と思う。
いやしかし、この少年はどう見てもまだ十代だ。いくらなんでも、若すぎる。
それに、範蔵が対等な口調で話していたし。
内心冷や汗をかく漣瑛に、少年はすっと目を細めて、告げた。
「私が鴻宵だ。これからよろしく頼む」