暗躍
闇に紛れ、雪鴛は足早に涯仇の屋敷を後にした。あの部屋は奥まっている上に、人払いがなされている。火事に気付かれるまで、暫く時間がかかる筈だ。
涯仇に太子の毒殺を示唆された時、雪鴛は太子と彼らを天秤にかけた。そして、考えるまでも無く結論に至ったのだ。
――絽宙や涯仇には、太子は殺せない。
何故か、と問われれば、一言で言えば器が違うということだ。より詳しく言うならば、あの太子は隙だらけに見えてその実すべき用心はしている。これは雪鴛の推測だが、毒見の類を掻い潜って彼に毒を盛ることができたとしても、恐らく彼が常に身に着けている覇姫の守り玉が何らかの妨害をするだろう。そうでなくとも、太子蒼凌は時に異常なほどの勘の良さを見せることがある。そうした姿を間近で見てきた雪鴛にとってみれば、従者一人送り込んだ程度で彼をいつでも殺せる気になっていた絽宙や涯仇の姿はいっそ滑稽ですらあった。その上、先の蛇騒動の際には雪鴛も完全に巻き込まれている。絽涯二氏にはそういう小さな恨みこそあれ、恩義は無いに等しいのだ。雪鴛が太子方に寝返ることにしたのも道理であろう。
雪鴛は街道に出ると足を速めた。屋敷を訪れた時も出てくる時も、誰にも姿を見られていない。あとは何食わぬ顔で王宮に戻っていれば良い。
その筈であった。
背後に起こった爆音が何を示すのか、一瞬雪鴛は掴み損ねた。慌てて振り向いた彼の目に、屋敷を呑み込む巨大な炎が映る。
――そんな、馬鹿な。
思わず呆然としてしまった。いくらなんでも、火の回りが早すぎる。いや、こんな燃え上がり方自体があり得なかった。
まるで、「人間業ではない」――
「やれやれ、君がこう動くとはちょっと想定外だったけど、結果的によかったよ」
愕然としたまま炎を眺めていた雪鴛の耳に、背後からそんな声が滑り込む。はっと振り返ろうとした矢先、首元に剣を突きつけられた。
「振り向くな」
背後に居る者の顔は見えない。わかるのは、不用意に動けば雪鴛の首はいとも簡単に胴から離れるであろうということであった。
「おかげで手間が省けた。良い時にいい死に方をしてくれたね、あの二人」
くつくつ、と喉の奥で笑う声がする。どうやら、絽宙や涯仇の手の者ではないらしい。何者なのか。考えを巡らせても、雪鴛にははっきりとした答えが思い描けなかった。
「君は太子側についたってことでいいのかな?まあ、俺としてはどっちでもいいんだけどね。君は君の思惑で動いてくれればいい。今はね」
背後の人物はそう言って少し笑うと、剣を引いた。
「そうだ、おもしろそうだから太子にこう伝えてみてよ」
『屋敷に火を放ったのは、緋色の目をした、小柄な男でした』
「何を……」
雪鴛が振り向いた時、そこには既に誰も居なかった。
誰もが寝静まる真夜中、私は何かの気配を感じて飛び起きた。
今のは、何だ。
辺りを見回すと、炎精霊がやけに楽しげに飛び回っている。
「燃えた」
「もえたー」
「おっきく燃えたー」
はっとして、窓を開け放つ。ここからは何も見えないが、確かに炎の気配がした。王城のすぐ近くだ。
「一体何が……」
私が呟いた時、部屋の扉が慌ただしく叩かれた。私の返事も待たずに、春覇が入ってくる。
「春覇」
「何事だ」
「私にもわからない。王城の近くで大規模な火事でも起こったのか……」
そう言いながらも、本当はわかっている。ただの火事なら、こんな風に精霊達が爆発的に騒ぐことはない。
誰かが火をつけた。
間違いなく、方士だ。
「私はすぐに神殿に向かう」
険しい顔をした春覇が低い声で言う。私も頷いた。この場合、能力的に真っ先に疑われるのは爾焔に違いない。一刻も早く所在を確認し、白黒はっきりさせておかなければならない。
爾焔がこんなことをする理由は、今のところ無い筈だけれど。
「お前は屋敷に待機して報せを待て」
「わかった」
春覇がさっと部屋を出ていく。私は如何なる事態にも対処できるよう着替えを済ませ、家臣達を起こして待機することにした。
数刻して、朝廷から使わされた使者が重臣達の屋敷の門を叩いた。私のところに訪れた使者は私が既に待機していたことに驚いた様子だったが、私の妻が春覇であることを思い出したのだろう。納得したように頷いて、報告を始めた。
その口から出た報せに、私は暫し呆然とする。
燃えたのは、涯仇の屋敷。絽宙の行方が知れないことから、共にいた可能性が高いとのこと。
王の側仕えで、反太子派の急先鋒だった二人が居なくなった。ここから先、必ずや碧国内の危うい状態にあった勢力の均衡は崩れるだろう。
そして、その炎があまりにも迅速に、あまりにも強力に燃え上がったこと。
そう、まるで、人間業ではないかのような現象だ。
真っ先に疑われた依爾焔は、春覇によって迅速にその身柄を確保され、神殿から出た形跡の全く無いことが証明されている。
では一体、誰が彼らを手にかけたのか。
「緊急の朝議が開かれます。急ぎ御参内ください」
驚愕と混乱の冷めやらぬまま、私は使者の言葉に頷いて王城へと向かった。集まった重臣達が、そこここで深刻な顔をして話し合っている。
「本当に炎狂ではないのか」
「覇姫様が確認しておられるが」
「しかし被害に遭ったのは『あの』涯氏と絽氏だ。万一覇姫が手引きをしておれば……」
「しっ、滅多なことを申すな!」
「火の手が上がってすぐに王城の兵も動いている。その目を掻い潜ることはまず不可能であろう。まして炎狂は狂っている」
猜疑、憶測、不信感。灰色の感情が渦巻いて、群臣の表情を険しくしている。
「大変なことになりましたね」
いつも比較的楽天的な檄渓も難しい顔で私の隣に並んだ。私自身の顔色も恐らく酷いものであろうことは想像に難くない。
「一体何者が……」
誰もが抱いている疑問が、私の口を衝いて出た。ちょうどそれと時を同じくして前列から聞こえた言葉が、やけに鮮明に耳に響く。
「炎狂以外にあのような炎を操れる人間は、わしの知る限りでは一人しか居らぬな」
それは、宰相の辿り着いた可能性。
「嘗て白軍を焼き払い、紅軍に無人の野を進ませた……朱宿しか」
脳裏に蘇る、紅い炎。紅蓮の舌が白軍を舐めるように呑み込んで行く光景が、私の記憶の中から鮮明に浮き上がってきた。
――違う、私じゃない。
心中で呟いた言葉は無論、吐き出すことを許されない。黙り込む私をよそに、群臣の議論は進んだ。
「しかしあれは朱雀の力だったのでは?」
「炎狂でも手に負えなかった朱雀をその身に宿したのだ。元来力ある者であった可能性は高い」
沈着な宰相のもっともな分析に、周囲の人々はざわめいた。
「しかしついに何者かもわからずじまいの朱宿が、何を目的に……」
「皆目わからぬが、実際にあの炎を見れば……」
朱宿という可能性を提示されても、そこから前に進めない議論を傍目に見ながら、私は腕を組んだ。
目的がわからない。
手段がわからない。
言うまでもなく、犯人もわからない。
ないない尽くしの事件だ。それだけに、不用意な憶測が容易に混乱を生む。もしもこれが昏の策略だとしたら、恐らくはこの混乱こそが狙いだ。しかも絽宙と涯仇の二人を消すことで、人々の猜疑心を太子派に向けることができる。
特に疑い深くなるのは恐らく、側近を消された王その人だ。
私は前方の王座に目を向けた。群臣が召集されてかなりの時間が経過しているにも関わらず、王は現れない。その事実が、一層私の不安を煽った。
「静粛に」
ざわめきの中に、よく通る声が響く。はっと口をつぐみ居住まいを正す群臣の前に立ったのは、詠翠だった。
詠翠は、一人だ。王も、太子も居ない。
その事実が、現状が私達にとって予断を許さないことを告げた。
「父上は御気分が優れないそうだ。事件については、司冦府が調査に当たっている」
そう告げた詠翠は、くるりと群臣を見渡した。
「皆、この度の事態には驚いていることと思うが、どうか無用の騒ぎを起こさぬように」
「公子」
荏宰相が進み出る。
「太子は如何なされました」
次の瞬間詠翠の顔に浮かんだのは、何とも悔しげな表情だった。その視線が、一瞬春覇の方へ走る。
「……有り体に言えば、父上は兄上を疑っておられる」
詠翠の口から出たのは、ある程度予想された内容だった。側近を消され手足をもがれたに等しい王は蒼凌を疑い、恐らくは軟禁しているのだ。
「さもありましょう」
誰かが意気揚々と言を挙げた。
「そもそも太子は兄を殺して位を得たお方。王の信頼は詠公子の方がずっと厚くていらっしゃる。この期に詠公子が太子にお立ちになれば王も……」
「黙れ!」
詠翠への媚びとへつらいをふんだんに含んだその言葉は、他ならぬ詠翠に一喝された。詠翠の蒼凌への感情を見誤っていたのか、或いは年端もゆかぬ公子と侮っていたのか、発言者は意表を衝かれた様子で硬直し、無意味に口を開閉する。
「兄上はこのような真似をなさる方ではない。太子の地位については臣下の容喙すべきことではないし、私自身長幼の順を侵すつもりもない。勝手を申すな」
十数歳の少年とは思えない気迫でそう言い切った詠翠は、一転申し訳なさそうな表情を浮かべて春覇を見た。
「覇姫殿……済まないが、貴方にも兄上と同じく執務室に居て頂くようにとの指示が出ている」
「承知致しました」
春覇はあっさりと了承する。ここで抵抗しても何も意味の無いことはわかっているし、情報が集まるのを待った方が良いとの判断だろう。
「念のため、炎狂の様子にも注意しておいて頂きたい」
「心得ております」
深く礼をした春覇が、踵を返して立ち去っていく。その後を、数人の近衛兵が追った。監視の為だろう。
「残る皆は騒がずに普段通り役目を務めて欲しい。以上だ」
詠翠はそう告げると、王の居室の方へ引き返して行った。ちらりと見えた横顔は何やら思い悩んでいる様子にも思える。
ざわざわと普段以上にざわめきながら、群臣は引き返して行った。私もその流れに乗って退出する。
状況は、はっきり言って悪い。蒼凌は王に疑われて動きを封じられ、春覇も同様の状態にある。この分だと、私にも監視の目の一つくらい張り付いていると見た方が良いだろう。
問題は、この混乱に乗じて昏がどう仕掛けてくるつもりなのかということ。
様々に考えを巡らせながら、私はひとまず将軍府へ向かった。




