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水鏡五国志 [第二部 烈日之巻]  作者: 子志
章之陸 怨慕交錯
112/115

本願

 将軍府での執務を終え、一息吐く。漣瑛が持ってきてくれたお茶をありがたく頂いた。

「平和だ……」

 思わずしみじみと呟く私を見て、檄渓がからからと笑った。

「見事な説教でしたからね。連中も当分おとなしくしているでしょう」


 昨日のことだ。

 最近恒例と化した、執務後の右軍の兵士達と私との追いかけっこに、ついに我が家の良識が鉄槌を下した。

「全員そこへ直れ!」

 身分的に漣瑛よりも格上の筈の襄斉や汪帛まで反射的に正座してしまうほど、それは清々しい一喝だった。ついでに私も正座してしまった。ついいつもの癖が。

「子どもでもあるまいし、毎日毎日何だこの騒ぎは!節度を弁えろ!」

 一息に怒鳴ってから、少し落ち着いたのか深く息を吐く。

「ついでに将軍をもう少し敬ってください」

 私はついでか。

「それから将軍!」

「はい!」

 思わず背筋を伸ばしてしまった私に生暖かい視線が集まっていたのは、見なかったことにしておこう。漣瑛が深く溜息を吐いた。

「……お願いですから、非常識を拡散しないでください」

 破天荒なのは屋敷の中だけで十分だ、ということらしい。

 因みにその後、漣瑛の説教は私達の足が痺れて立てなくなるまで続いた。実はあいつが最強かも知れない。


 小さく溜息を吐いて、私は立ち上がった。思い出すだけで足が痺れそうだ。

「まあ、兵士達に追い回されなくなったのは助かったと言うべきかな。さて、私は今日はこの辺りで」

「はい、お疲れ様です」

 丁寧に頭を下げてくれる檄渓に礼を返し、家路に就く。今日は屋敷で、旅立つ者達が待っている。私が帰ったら出発すると言っていたから、彼らの旅立ちを順調なものにするために、早めに帰らなければ。



 そう考えた私が足早に帰宅すると、既に旅支度を粗方整えた三人が居間でお茶を飲んでいた。

「ただいま」

「おう、お帰り」

 私の挨拶に、真っ先に函朔が反応する。色々あって長いことうちに留まっていた彼だが、そろそろ本来の主君である秋伊のもとに帰るそうだ。

「お帰りなさい」

 函朔の隣でにこりと微笑みながら返してくれたのは、沃縁だ。その傍らにいる苫も、ぺこりとお辞儀をする。

 苫はここの暮らしに慣れてきたところだが、総華に医術や薬のことを学んで、もっと世の中を知りたいと思うようになったらしい。総華に頼まれた薬草の収集がてら、色々な場所を見て回りたいそうだ。もっとも依然口はきけないし、女の子の一人旅なんて物騒にもほどがあるから、護衛兼保護者として沃縁がついていくことになっている。

「ごめん、待たせてしまったかな」

「いえ、別に急ぐ旅でもありませんし」

 沃縁は相変わらず柔和な態度で目を細める。私は会釈でその言葉に報いると、懐から濃い青色の玉のついた簪を取り出した。

「苫」

 呼び掛けると、小柄な苫が私を見上げる。私はその髪に、その簪をそっと挿した。

「水ですか」

「うん」

 玉を見た沃縁の指摘に首肯して、苫と目を合わせる。

「水精霊の媒体だ。お守りとして身に付けておくと良い」

 水精霊は金精霊と比較的相性が良い。いざとなれば沃縁が媒体を通して水精霊を使役することもできる筈だ。

「気を付けて」

 私が言うと、苫はこくりと頷いて、ゆっくりと口を開いた。その唇の動きからお礼の言葉を読み取った私は、微笑んでその意味を受け取ったことを苫に伝えた。

「それじゃ、行くか」

 函朔が立ち上がる。続いて沃縁と苫も、ざっと持ち物を確認してから居間を出た。

「三人とも、元気で」

「おう。何かあったら報せをくれ」

「行ってきます」

 短く別れを告げて、旅立つ。函朔は北へ、沃縁と苫は南へ。

 徐々に小さくなる背中を見送って、私は空を見上げた。少し雲の多い空は、無感情に下界を覆っている。


 五国の争乱は激闘を経て二国に収束した。昏では公子が王を弑し、碧でも王族達が静かに反目している。これからの戦いは、内外ともに苛酷なものになりそうだ。


「将軍」

 門の内側でぼうっとしていた私に、尉匡が声をかけてくる。振り向くと、そっと耳打ちされた。

「例の件ですが、さすがになかなかうまくはいきません……どうやら、涯氏と絽氏が目を光らせているようで」

 私はそっと眉を寄せた。尉匡に命じていたのは、詠翠を立てようとする勢力の切り崩しだ。少しでも力を削って、ごり押しで蒼凌を排除されるのを防ぐのが目的である。うまく削れればこの争いをなんとかできるかも知れないと思ったが、そうは問屋が卸さないらしい。

「わかった。無理をせずに手を引け」

 藪をつついて蛇を出してはかなわない。

 一礼して下がる尉匡を見ながら、私は今後起こりうる事態の為に何ができるかを考えた。

 平穏な今のうちに打てる手は打っておこう。私はもう一度空に目をやると、屋敷の中へ戻った。




 少年の手の中で、一本の羽がふわりと揺らぐ。

「本願、か……」

 呟く少年の前にあるのは、一壷の酒。手の中にある羽でかき混ぜさえすれば、この酒は毒となる。

 暫し考え込んでいた少年は、そっと壺の蓋を開けた。手にした羽を、ゆっくりと沈める。

 酒は色を変えることなく、静かに羽から滲むものを呑み込んだ。




 夕刻に執務を片付け、その他の用事と夕食を終えた太子蒼凌の前に、従者の雪鴛が酒を携えてきた。

「本日は宗廟にて祭祀が行われましたので、供えの酒が各府に下賜されております」

 蒼凌が頷くのを見て、雪鴛は酒を酒器に注ぎ、蒼凌に差し出す。蒼凌は慣習に従い、酒器を東に捧げて短い祈りの言葉を述べた。雪鴛は何の感情も見えない表情で、蒼凌の様子を見ている。

 蒼凌は祈りを終えると、酒器を軽く押し頂いてから、口元へと運んだ。




 夕刻からずっとそわそわと落ち着かない様子だった涯仇のもとに、密使が届いた。使いの手からひったくるようにして文を読んだ涯仇の顔に、抑えきれない喜色が浮かぶ。

「絽氏を呼べ。すぐにだ」

 使いにそう命じると、小躍りせんばかりの上機嫌で文に火を点ける。みるみるうちに燃え上がった文は、間を置かず灰と化した。

 程なくして、絽宙が現れる。涯仇が文の内容を囁くと、彼も笑みを浮かべた。

「して、これから如何する」

「まずは公子に存分に悲しみ悼んでいただこう。群臣の心を掴むのだ」

「覇姫の始末はどうする」

「なに、うるさければ何ぞ罪でも着せてやればよい。方士を失うのは少々痛いが、我が国はもはや十分に強い」

 こそこそと相談する二人のもとに、更なる来訪者があった。人目を忍ぶように黒い布に身を包んで現れたのは、雪鴛である。彼を迎え入れると、涯仇はにんまりと笑った。

「よくやった。仇を討てて満足であろう」

 彼らが雪鴛を使ったのには理由がある。


 雪鴛は雪氏という上流の家の子として太子の従者となっているのだが、実のところ養子であった。父を失い母と二人途方に暮れていた雪鴛を、母諸共に引き取ったのが雪氏だったそうだ。

 雪鴛の実父が誰なのか、絽宙も涯仇も正確には知らない。だが一つだけ、雪鴛の父の仇が太子蒼凌であるということは、雪氏から聞いていた。恐らくは前太子の乱の折に戦死したか、その後の政争に巻き込まれたのだろう。太子を排除し詠翠を立てたい二人にとって、その復讐心は役に立つ。そして今回、雪鴛は見事父の仇を討ち果たし、絽宙と涯仇の策謀は大きく前進した。


 上機嫌の涯仇に、雪鴛はふわりと柔らかい笑みを返す。そういう表情をすると、彼はなかなかの美少年であった。

「これも涯氏と絽氏のお力添えのお陰です」

 綺麗な微笑とともにそんな風に言われれば、悪い気はしない。ますます機嫌を良くする二人の前に、雪鴛は酒壺を差し出した。

「祝いには酒がつきものです。存分に祝いましょう」

「む……」

 二人は一瞬躊躇う素振りを見せた。何しろ今回の件の為に、二人は雪鴛に鴆の羽を渡しているのである。万一の事態を想像してしまうのは避け得ぬことであった。

 そんな二人の様子を見た雪鴛は、笑みを浮かべたまま、二人に見せるように壺から酒を酌み、自ら飲んで見せた。少年の白い喉が確かに酒を嚥下しても、彼の身には何も起こらない。

 二人は肩の力を抜いた。鴆の毒は速効性である。もしもこの酒が毒酒ならば、雪鴛は既に死んでいなければならない。

「よし、飲もうではないか」

 絽宙が涯仇を誘う。雪鴛は二人に酒を酌んで渡した。

 ささやかながら、その場は祝いの宴になった。後ろ暗い密会であるため余人は遠ざけられ、給仕する使用人も居ないが、その役割は雪鴛が不足無く務めた。太子の従者を一人でこなしているだけあって、よく気のつく少年である。勧められるままに一壺の酒を飲み干す頃には、二人ともすっかり酩酊して良い気分になっていた。

「うむ。詠公子が王になられた暁には、そなたを取り立てるよう進言してやろう」

「ありがとうございます」

 微笑を崩さない雪鴛が、空になった酒壺を持って席を外した。すぐに次の酒を持ってくる。

「おお、どんどん持ってこい」

 気の大きくなった涯仇が手を叩いてはしゃく隣で、絽宙はふっと思った。

 ――その酒は、どこから持ってきた?

「どうかなさいましたか、絽氏」

 雪鴛がこちらを覗き込む。

「いや……」

 絽宙は首を振った。そうすると更に酔いが回って、ささやかな疑問などどうでもよくなる。

「さあ、では改めて乾杯といこう。雪鴛、お前も杯を持て」

「ありがとうございます」

 雪鴛も同じ酒を注いだ杯を何の躊躇いも見せずに手にする。考えすぎか、と安堵の息を吐いて、絽宙も杯を掲げた。

「乾!」

 涯仇が音頭を取り、皆一斉に杯を傾ける。

 酒をあおりながら、何気なく雪鴛の方を見た絽宙は、気づいてしまった。

 雪鴛が、杯を傾けるふりだけして、酒に口をつけていないことに。

 ――あ。

 しまったと思った時には既に遅く。

 彼の喉は、酒を飲み下していた。

「ぐっ!?」

 涯仇が杯を取り落とし、倒れ込む。絽宙も体内をかき回されるような激痛と不快感を覚え、喉をかきむしった。

 そんな様を、雪鴛は微笑を浮かべたまま見ている。

「雪鴛……貴様っ」

 息も絶え絶えになりながら、絽宙は彼を睨んだ。雪鴛は穏やかに笑う。

「焦りすぎましたね、お二人とも」

 薄い唇が動き、言葉を紡ぐ。

「遠大な策を巡らすなら、最も重要なのは忍耐力です。あなた方には少々、それが足りなかったようだ」

 もがく二人を前に、ゆらりと立ち上がる。

「それに正直、太子を追い落とすことに利があるのかも私には疑問です。あなた方の言うとおりにしていればいずれこの国を滅ぼすことになると、私は判断いたしました」

 その言葉に、二人は悟った。先程二人が受け取った朗報。太子を暗殺したという報告は、偽りだったのだ。

「貴様、こんなことをして、ただで済むと……」

 朦朧とする意識の中、絽宙は絞り出すように言った。

 二人を殺害したのが雪鴛の仕業と露見すれば勿論のこと、犯人が不明のままでも、絽宙と涯仇が殺されたとなれば、真っ先に疑われるのは太子の策謀である。それは王に太子誅殺の理由を与えることになり、どうやら二人を裏切って太子側につくことにしたらしい雪鴛にとっても打撃となるだろう。

「わかっていますよ。ですから、あなた方は殺されるわけではない」

 ゆるりと目を細めて、雪鴛は数歩移動した。

「事故死するのです」

 その手が燭台にかかり、とん、と突き飛ばす。

「酔った上での、不幸な事故でね」

 燭台は床に倒れ、瞬く間に炎を広げた。


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