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水鏡五国志 [第二部 烈日之巻]  作者: 子志
章之陸 怨慕交錯
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平穏と不穏

 碧の都では、表面上平穏な日々が続いていた。

「鴻将軍」

 執務もそろそろ終わろうかという時、私を訪ねて来たのは索興だった。

「もしお時間があれば司馬府にお立ち寄りいただきたいと、公子が」

 詠翠からの呼び出しだ。何かあったのか、と一瞬心配になるが、索興の表情を見る限り、そういうわけでもなさそうだ。

「わかりました」

 私は頷いて手早く片付けを済ませると、司馬府へ向かった。

「ああ、鴻将軍。呼びつけてしまって済まない」

 私の顔を見た詠翠は、そう言って笑う。思ったより元気そうだ。

「滅相もない。司馬の職は如何ですか」

「うむ。私にこなせるか心配していたのだが、属官達が助けてくれてうまくいっている」

 初めて会った頃よりずっと穏やかな表情をするようになった詠翠は、少し声を低めて私に耳打ちした。

「どうやら覇姫が彼らに言い含めておいてくれたらしい。感謝しておる」

 私は少しほっとした。私が気にかけてあげて欲しいと言ったのを、春覇はきちんと受け止めてくれたようだ。

「それはよろしゅうございました」

「うむ。覇姫によろしく伝えておいてくれ」

 直接春覇に言いに行かなかったのは賢明だ。詠翠には依然として王妃の遣わした監視がついている。太子派と目される春覇に不用意に近づけば、痛くもない腹を探られかねない。

「さて、本日呼び立てたのは、兵法の講義の為だ」

 執務は終えていたらしい詠翠が、書物を取り出す。

「将軍が多忙の間に、この書物は読んでしまった。次は何をすればよい」

「これは素晴らしい」

 勉強熱心な詠翠を素直に褒めながら、私はその書物をざっと捲った。

「ではいずれ、この中から試験を致しましょう。本日は……」

 思い付きだが、構わないだろう。

「書物も重要ですが、兵法には実践が欠かせません」

 机上の空論では、兵を率いることはできないから。

「右軍において、模擬戦をご覧になるというのは如何でしょう」

 詠翠の表情が、ぱっと輝いた。元来、詠翠は武を好む。国の一軍が行う模擬戦に、興味が無い筈が無い。

「良いのか?しかし些か急だ。右軍の将兵が困るのでは……」

「構いはしません」

 私は心底から言った。

「体力の有り余っている連中ですから。公子がお見えになると知れば張り切るでしょう」

 何しろ毎日私を追い回すほどに体力が余っているのだ。その体力を模擬戦に使わせた方が余程有意義だろう。

 若干苦い顔で言い切った私に、詠翠は寸時不思議そうな顔をしたが、すぐに破顔してみせた。

「そういうことなら、お願いしよう」

 端正な物腰で司馬府の役人達に後を言付けて私と並んだ詠翠は、確実に成長している。このまま、健やかに伸びていって欲しいと思う。しかし一方で、詠翠が良い方向に成長すればするほど、碧王家の後継争いが激化するだろうことも事実だ。

 どうか、最悪の事態だけは招かないように。

 内心で祈りながら、私は詠翠とともに郊外の演習場へと向かった。




 とある山中にて。

 川の水でばしゃばしゃと顔を洗っていた青年は、滴る水滴を掌で拭いながら顔を上げた。

「難しいものだな、生きるというのは……」

 そんなことを呟きながら、束ねていた髪を解いて纏め直す。少しだけ精悍さを増した顔立ちが露になった。

 言うまでもなく、璃黒零である。


 昏を出てからさ迷うように旅をしてきた彼は、路銀が尽きて初めて、気儘な生き方の裏にある厳しさに気付いた。人が生きるためには、何らかの収入源を持たねばならない。気儘に生きるということは、不安定な収入に甘んじ、何とか遣り繰りして生きていくということだ。失敗しても、誰も守ってはくれない。下手を踏んだならば死ぬだけである。


「あと二日、か……」

 それは、仕事と食物を探すために飛び立っていった蕃旋が約束した期日であった。そして同時に、現在黒零の手元にある食料でかつかつ生活出来る日数でもある。

「自由……」

 呟いて、彼は空を見上げた。

「なるほど、自由とは、生きるも自由、死ぬも自由、ということか」

 手を伸ばしてみる。大空は、遠い。

「それもいい」

 黒零は目を細めた。


 とにかく羽ばたいて見せよう。翼折れるその時まで。


 そう心を決めてから、現実的な思索に戻る。生きるためには、何か収入源を探さなければならない。しかしそれには、もう少し昏との国境から離れた方が良い、と黒零も蕃旋も考えた。あまり昏に近いと黒零の素性が露見する可能性が高いからである。蕃旋曰く、当面は黒零の装身具や持ち物を少しずつ売ってしのげるので、その間にできるだけ南下しておこうとのことだ。

 黒零は、傍で草を食んでいた残雪の手綱を執った。

「行こうか」

 声をかけ、歩き出す。籠を破って天空に羽ばたいた鳥は、翼を休める場所を探して飛び続けている。宿り木もない大空を、ひたすらに進む。


 後悔は、しない。

 この空を、知ることができたのだから。




 漣瑛の傷が快復して私の従者として復帰する頃、函朔と沃縁も粗方動けるようになった。

「体が鈍ってそうだ」

 庭で軽く棒を振るいながら、函朔が呟く。長いこと怪我で療養していた為、勘が鈍っていないか心配なのだろう。

「おい性悪方士、稽古に付き合え」

 函朔が声をかけると、苫に文字を教えていた沃縁は嫌そうに眉を寄せた。

「お断りします。大体僕は貴方や鴻宵さんと違って、武闘派というわけではないんですから」

 そこで私も武闘派に入れてしまうのか。反論はできないけど。

「あれだけ綺麗に気配消しといて何を言う」

 函朔は納得しない。沃縁は肩を竦めた。

「それはそれ、これはこれ。僕は武術の不足を補う為に気配を消す訓練をしたんですよ。貴方のような根っからの武人と正面から渡り合って勝てるわけがないじゃありませんか」

 二人のやり取りを聞きながら、私はふむ、と一つ頷いた。

「あれだな。沃縁は素直になった」

「は!?」

 唐突に口を挟んだ私を、沃縁が勢い良く顧みる。

「何ですか、それ」

「だってそうだろう」

 卓に肘をついて掌に頬を載せながら、私は敢えてにやっと笑った。

「以前のお前ならそんな風に弱点をさらさなかったと思うぞ」

 沃縁が気まずそうに目を逸らす。多少の自覚はあったらしい。暫くして、深く溜息を吐いた。

「誰のせいだと思っているんですか……」

 おっと、これ以上は藪蛇かも知れない。

 というか。

「……前から気になっていたんだけど」

「はい?」

 私は思いきって言ってみた。

「何だか、苫って事あるごとに私を睨んでないか?」

 え、と首を傾げた沃縁が、苫の方に振り返る。苫がさっと目を逸らす。

 ふぅん。

 私は函朔と顔を見合わせた。

「なあ、あれって……」

「やっぱりそう思う?」

 こそこそと囁き合う。身を寄せ合って小声でやり取りする私達を見て沃縁が微かに不快そうな顔をした。それに気付いた苫が眉をひそめる。

 うん、間違いないね。

「どうするべきだと思う?」

「そりゃお前、苫を応援してやりたいだろ」

 函朔の言葉に、私は頷いた。苫もこれまで苦労してきたわけだし、そこから救い出してくれた沃縁に対して思うところがあるのなら、その気持ちを大事にしてあげたい。沃縁の方も苫には優しいし、望みが無いわけじゃないだろう。

「具体的には……」

 方法を考え始める私に、函朔はあっさりと言った。

「とりあえず、沃縁の目を苫に向けてやるか」

「……どうやって?」

 私が首を傾げると、函朔は私の肩を抱き寄せて悪戯っぽく笑った。

「よし、結婚するか」

 無言の鉄拳が函朔の腹にめり込んだのは言うまでもない。

 彼らの想いに応えられない私としては思い悩まれるよりは吹っ切れてくれた方が助かるのだが、変な方向に吹っ切れるのもまた、勘弁してほしいところだ。




 東宮の回廊を、まだ大人になりきれていない少年の影が進んで行く。

「雪鴛どの」

 角を曲がったところで物陰から呼び止められ、彼は足を止めた。声の主を視界に入れると、深々と頭を下げる。

「珍しいですね、こちらまでお越しとは」

 雪鴛が言うと、相手は含むように笑った。

「誰かに任せるような用件でもなかったのでな」

 静かに物陰から踏み出してきたのは、涯仇であった。王の側仕えをしている男である。彼は懐から何やら小さな袋を取り出すと、雪鴛の掌に載せた。

「鴆の羽だ」

 雪鴛は僅かに眉を動かした。鴆とは、猛毒を持つ鳥である。その羽を酒に浸せば、飲んだ者を死に至らしめる毒性を発揮すると言われる。

「……少々、時期尚早では?」

 雪鴛は低い声で言った。

「そんなことはない」

 涯仇も声を低くする。

「公子は司馬の職に就かれ、輿望を高めておられる。それに鴻宵と覇姫の力が弱まっている今が好機だ」

 雪鴛の耳元に顔を寄せ、囁くように告げる。

「あの二人が這い上がって来る前に始末してしまえ――信用を得ているお前なら容易かろう」

 その声音に、暗い笑いが混じった。

「お前の本願が漸く叶うのだ。抜かりなく果たせ」

 そう念を押して、涯仇は足早に去っていく。その場に残った雪鴛は、掌中の小袋を握り締めた。

「信用を得ている?私が?」

 ふっ、と自嘲に似た笑みが零れる。

「――それはどうかな」

 灰色の目を細めて、雪鴛は小さく呟いた。


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