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水鏡五国志 [第二部 烈日之巻]  作者: 子志
章之陸 怨慕交錯
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二国の姫君

 夜風が頬を撫でる。邸の庭に出て月を眺めている春覇に、私は静かに歩み寄った。

「いいのか」

 一言だけ、問い掛ける。何が、とは、春覇は問わなかった。

「いいんだ」

 そう、答えが返ってくる。

「寧ろ、何やら肩の荷が下りたような心地すらする。私は薄情だろうか」

「いや」

 私は春覇の隣に立った。蒼い月光が、地面に私たちの影を伸ばす。

「私には春覇の心情を見通すことなんてできないけれど、春覇がどこまでも碧の為に尽くしてきたのは、そのせいもあるのかな、って推測してはいる」

「……その通り、なのかもな」

 春覇は月を見上げ、眩しげに目を細めた。

「母は橙のひとだった。私は碧人だが、橙の王族の血も引いている。だからこそ、誰よりも碧人であろうとした」

 春覇はそう言っただけだったが、その背後には、そうでなければ碧人と認めて貰えなかった、という真情が見え隠れしている気がした。

「橙という国が無くなる。母の国が滅ぶ。橙が碧の一部になる。私の全てが碧人になる」

 月光の中で、春覇は両手を広げた。

「亡き母には申し訳ないが、哀しいというより、少し、気が楽になった」

 碧と橙との間にあった春覇の立場が、橙の国家としての消滅に伴い、完全に碧のものになる。産まれた時から持ち続けた負い目が消えた気分なのだろう。


 春覇が碧の条件を告げた時、黎翡は寸時辛そうな顔をした。けれどもすぐに、彼女は表情を一変させた。笑ったのだ。

「なら、私の『居場所』も、ここにあって何の問題もありませんわね」

 私と春覇は、黎翡の居場所になると言った。黎翡は橙の王族だからというだけで漫然と持ち続けていた橙への忠誠を振り切り、その手を取った。

 それでもたぶん、彼女の中に国境は残っていたのだろう。春覇が橙の血を意識し続けたように、黎翡もまた橙人である自分を捨てられたわけではなかった。だからこそ、その境目の消失に、柵から解き放たれたような感覚を覚えたのだ。

 私には、本当の意味では理解しきれない。分割され互いに争う世界に生きてきた者達故の感傷が、そこにはあった。


「負い目の無くなった春覇は、何を最優先にする?」

 そう訊いたのは、単なる興味だった。ずっと優先してきたものを失った時、人は時に行く先を見失う。沃縁などは典型的な例だ。春覇は冷静だし橙に執着していたわけでもないからああはならないだろうけれど、彼女の答えを聞いてみたかった。

「橙のことは負い目ではあったが、さほど重要なことではなかった……正確には、なくなったのだ。十数年前に」

 春覇は胸に手を当てた。心臓の鼓動を感じようとするかのように。

「この命は――兄上の覚悟と引き換えに救われた」

 春覇が振り返る。逆光で陰になった表情は、よく見えない。

「私の最も優先するものは、今も変わらず、兄上だ」

 覚悟と引き換えに、救われた。春覇がそう言ったことで、これまで私の中で漠然とした憶測であったものが鮮明に形を成した。


 十数年前。それが示すのは、碧の王族に起こった大事件。所謂前太子の乱だ。

 事件の幕を引いたのは、当時十二歳の蒼凌。太子であった兄を殺し、乱を終わらせた。

 彼を兄殺しへと踏み切らせた理由は、無論一つではない。単純に、生きたいと望む本能。凶行に及んだ太子に国を任せる不安。何一つ救いの手を差し伸べず見殺しにしようとする父への反抗もあったかも知れない。


 でも多分、死でも逃亡でもなく、屍を踏み越えてでも生きることを余儀無くしたのは。


「私の存在が、兄上を兄殺しにしたのだから」

 春覇の言葉が、月夜に哀しく響く。


 当時、蒼凌が死んでも、逃げおおせても、恐らく春覇は助からなかった。司馬邸に逃げ込んでいたというが、元来血筋に微妙なところのある春覇だ。王の一声があれば、すぐにでも殺されただろう。国外へ逃げようにも、九歳の女の子では体力も精神力も足りない。章軌が護っていたにしても限界はある。一国の政府から、軍から逃げきれる可能性は絶望的に低い。

 章軌の口から春覇の無事を知らされた蒼凌は、多分意識的にせよ無意識にせよ、それを悟っただろう。その瞬間に、彼は死ねなくなった。自分と春覇の二人分、ひょっとしたら章軌も含めて三人分の命を、その双肩に背負ってしまったのだから。


「鴻宵」

 春覇が、私の名を呼ぶ。柔らかな声だった。

「お前は、兄上を慕っているのだろう」

 真正面から言い当てられても、不思議と照れも恥ずかしさも感じなかった。

「うん」

 ただ、静かに。素直に、私は頷いた。春覇が私の手を取る。

「支えて差し上げてくれ」

 託すように、言われた。

「どんなに私が努力しても、あの方がその肩の荷を私に分けてくださることはない。多分、他の誰にも」

 私が蒼凌に言われたのと同じようなことを、今度は蒼凌が言われている。その事実が、少しおかしい。結局、私達は似た者同士だったのかも知れない。

「お前だけだ。兄上の荷を受け取れるのは」

 ただ、私と違って、蒼凌は少しも重そうな素振りを見せない。それは見せないだけで、重くないわけではないのだと、さすがに春覇はよく見抜いていた。

「そしてお前も荷を分けることだ。そうすればきっと、どんな難局も切り抜けられる」

 そう言って私の手を握った春覇は、俯いたまま、小さな声で呟いた。

「兄上に……これ以上殺させたくない」

 誰を、とは、春覇は言わなかった。しかし、今の状況を見れば、それは自ずから明白である。

「大丈夫」

 私は春覇の手を握り返した。

「支えるよ。私のすべてをもって。私も、ずっと支えていて貰いたいから」

 だから、と続けて、悪戯っぽく笑う。

「そろそろ最優先の座は章軌にあげなよ。春覇が負い目を感じ続けることは、蒼凌もきっと望まない」

 私が言うと、春覇は少しだけ目を逸らした。その頬がほんのり紅くなっているのが、夜目にもわかる。

「……どちらも大切だ。兄上も、章軌も」

「うん。それでいいと思う」

 頭を撫でようとしたら、やんわり手を払われた。子ども扱いするな、と青緑の瞳がこちらを睨む。ちょっと残念。

「まあ何にせよ、油断はせずに、でも気を楽にしていこう」

 私は肩の力を抜いて、腕を広げた。

「私達には、互いに支え合える仲間がいるのだから」

 頷く春覇の顔を、月光が照らす。私は目を細めた。

 この後何が起こるかも知らずに。




 東宮で執務中の太子蒼凌のもとへ、従者の雪鴛が茶を持ってきた。邪魔にならない場所に湯飲みを置き、すっと主人の耳に口を寄せる。

「お気づきですか、太子」

 蒼凌は目だけを雪鴛の方へ向け、小さく頷いた。

「無論だ」

 小声で答えながら、手元の報告書に筆を走らせる。

「敵でしょうか、身内でしょうか」

「十中八九、身内だろうな」

 蒼凌は苦い顔をした。

 詠翠が大司馬の官に就いて暫くした頃から、何者かが蒼凌を見張っている。蒼凌は早々にその気配に気付いていた。その正体が恐らく王の意向を受けた者であろうことにも。

「となると、静観するほかありませんか」

「そうだな。当面おとなしくしておくことだ」

 ここで何か弱みでも握られようものなら、王は本格的に蒼凌を潰しにかかってくる。蒼凌は横目で雪鴛を見遣った。

「嫌になってきたならすぐに言うといい。巻き込むのも悪い。いつでも暇を出してやろう」

「いいえ」

 雪鴛は存外にきっぱりと否定を口にした。それに対して、蒼凌は一瞬何かを言おうとしたようだったが、結局何も言わずに執務を続ける。雪鴛も黙って壁際の定位置まで下がった。

 沈黙の中で、時が流れてゆく。その間、それぞれの胸中にどんな思惑が去来したのか。

 それは、当人達のみが知ることであった。




 橙が事実上碧の属国と化し、それと引き換えのようにして戦姫、牧黎翡が橙へ帰った。牧燕玉は依然として碧に留まり、人質となっている。

 そういった動きを、王座についた叡循貴は静観していた。今はちょっかいをかける時ではない。まだ昏国内の地盤固めが最優先である。

「つまらないなあ」

 席から立ち上がり、椅子の周りをくるりと回りながら、叡循貴はそんな呟きを漏らした。彼の前には、絡嬰が控えている。

「碧の王族には何の動きも無いね」

 王座の背凭れに腕を預け、循貴は絡嬰に語りかけるともなく口にする。

「碧の太子が踏み切らないから、私が先にやってしまったというのに」

 一見無邪気な笑顔が、絡嬰の顔を覗き込んだ。

「あの男は忍耐強いのかな、それともただの意気地無しか。どう思う?絡将軍」

 問われた絡嬰は、脳裏に一度だけ対面した碧の太子を思い描いた。

「前者……というよりは、慎重なのでしょう」

 意気地無しでは、決してない。

「多角的に物を見られる男です。胆も据わっている。他国の出来事に触発されて行動を起こすほど短絡的ではありません」

 第一、事はあまりに重大である。個人の身にとっては親殺し。太子としては弑逆の上の王位簒奪。昏のように力が全てと割り切る風潮があるならばともかく、人としての道義を捨てきれない碧においては人心を失い統治に支障をきたす可能性が高い。

「寧ろ我が王のなさったことを見て反応するとすれば碧王です。さぞや怯えていることでしょうな。あの国が崩れるとすれば、王座からでしょう」

「なるほど」

 循貴は頷いて、目を細めた。

「だったら碧王の方をつついてみようか。内政が優先だからといって何もしないのも芸が無い」

 絡嬰はすっと頭を下げる。

「既に一つ心当たりがございまして、今碧王の前でその証言をさせる者を探している最中でございます」

 その言葉を聞いた叡循貴は、にっこり笑って手を叩いた。

「さすがは絡将軍。ではその件は任せよう……期待しているよ」

 絡嬰は深々と頭を下げた。



 自室に戻った絡嬰は、束憐を呼んだ。これまで策に用いる証人を水面下で探していたのだが、王からの命令が下った以上、のんびりはしていられない。束憐を使って機動力と効率を上げるつもりである。

 呼ばれた束憐が、部屋に入ってくる。一言二言、交わした時。

 突如、束憐が瞳を動かし、間を置かずその手が剣を投擲する。鋭く空気を切り裂いた剣は、窓を突き破りその向こうに潜んでいた気配を急襲した。

「また鼠か」

 絡嬰が冷静に窓から離れる。束憐は窓を蹴破り追い討ちをかけようと動きかけた。

「わあ、待った待った。俺はあなた方の敵じゃありません」

 窓の外に居る何者かが、そんな言葉を発する。絡嬰と束憐は顔を見合わせ、警戒を緩めないまま窓の外に目を向けた。

「やあ」

 そこに立っていた青年が、この場に不似合いな気さくさで手を振る。

「何者だ」

「俺が何者かは、この際重要じゃありませんよ」

 絡嬰の誰何に人を食ったような言葉を返して、青年は窓枠に腕を乗せた。

「俺はただ、あなた方と利害が一致しそうだから提案に来ただけ」

 猫のように目を細め、青年は告げる。

「絡将軍の探し物……俺が連れて来てあげましょうか」

 複数の思惑が絡み合い、咲かせた華から毒が滴る。争乱を繰り広げし五国も今や両大国を残すのみ。最後の争いは、大陸の命運を巻き込んで、既に始まろうとしていた。

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