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水鏡五国志 [第二部 烈日之巻]  作者: 子志
章之陸 怨慕交錯
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背中合わせの

 幸せな、夢を見た。


 誰かの隣に座って、笑う。

 甘酸っぱい想いを籠めて差し出したのは苫果。

 琥珀色の誰かは、お前はいつもこれだな、と呆れたように言った。

「……だって、好きなんだ」

 二重の意味の籠められた言葉。敏いその人はその重さに気づいたのか、黙って微かに息を呑む。

「――嫌い?」

 問いかけてみる。

 狡いな、と、自分で思った。正面から告げることはできないくせに、それでも答えを求める、欲深い自分。

 その人は目を伏せて、小さな声で、言った。

「嫌いでは、ないな」

 幸せで、それでいて切ない時間。私の手を離れた苫果が、その人の喉に嚥下されていく。

 その人の一部となった苫果を羨みながら、私も甘酸っぱい果実に歯を立てた。



 目覚めは、ぼんやりとしていた。切なくて、幸せな夢を見た気がする。

 夢の中の「私」と、隣に居た「誰か」。形に出来ない、淡い想い。


 私は身を起こし、膝を抱えて丸まった。

 今の私に、こんな夢はあまりに皮肉だ。この夢みたいな綺麗な恋をする前に、策略と欲望の混じり合う世界を見てしまった。また震え出す肩を、掌で押さえた。

 ――情けない、なぁ。

 皆には大丈夫、と強がっておいて、その実この有り様だ。私は膝に顔を埋めた。

 そんな時。

 こん、と、小さな音がした。はっと顔を上げた瞬間に、また、こん。

 窓からだ。たぶん、誰かが窓を叩いている。

 私はそっと剣を引き寄せた。静かに窓に歩み寄り、慎重に閂を外す。


 ゆっくりと開いた隙間から零れ落ちる月光と共に姿を現したのは、今私が一番会いたくて、同時に最も会いたくない人だった。


「蒼、凌……」

「済まない、起こしたか?」

 また例によって庶民に身をやつした軽装で現れた彼は、固まっている私を見て少し眉を下げた。

「怪我は、どんな具合だ」

「あ……うん、いや、大丈夫」

 辛うじて返事をした私のこめかみに、すいと手を伸ばす。

 目の前に居るのは蒼凌で、傷を気遣ってくれているだけ。そうわかっていた筈なのに、私はびくりと過剰に反応して後ずさってしまった。当然、蒼凌は異変に気付く。

 僅かに目を見開いた彼は、一瞬痛そうに歯を食い縛って、私に背を向けた。窓枠に寄りかかる。

「済まなかった」

 その姿勢のまま、話を始めた。

「お前を、守れなかった」

「……あんたまで、そう言うんだ」

 苦笑して、私は窓枠越しにそっと彼と背中合わせになった。こうしていれば、触れていても大丈夫だ。背中越しに触れ合う体温が、強張った体を解してくれるようだった。

「当然だ」

 蒼凌が喋ると、背中に振動が伝わってくる。

「お前がどんなに強かろうと、俺はお前を守りたいと思うし、お前を傷つけた者を憎いと感じる」

 況してや、と続けて、蒼凌は背中に少し体重をかけてきた。

「況してや、お前がそんな細い肩に全部背負おうとしてるなら、尚更守りたくなる」

 私は少し笑った。顔のすぐそばに垂れた蒼凌の髪をすく。

「随分過保護だな」

「お前に言われたくない」

 確かに。私も、もし守りたい誰かを守れなかったならそのくらいのことは言ってのけるだろう。

 ただ、いざ守られる方になると気分が全く違う。少しばかり、くすぐったい。


 それに、蒼凌がそんな風に思ってくれることが素直に嬉しい反面、怖くもあった。

 いずれその手が離れてしまうことが、怖い。


「……今回、謝るべきは私の方だよ」

 守る守られるという話題を深く掘り下げるのを嫌って、私は話の方向を変えた。

「私が下手を打ったせいで、春覇の実権が削られた。蒼凌にとっても痛手だろう。ごめん」

 謝ると、何故か咎めるように軽く頭をぶつけられた。

「お前はまた他人の心配ばかりする。俺や春覇がそんなに柔じゃないことくらい知っているだろう。少しは自分の心配をしたらどうだ」

「でも……」

「地位はまた取り返せばいい。それ以上に」

 強い口調で言われ、触れ合った肩が震えるのを感じる。

「俺はお前が強がったままなのが、腹立たしいし、辛い」

 ぎり、と歯を噛み締める音すら聞こえてきそうなほどの、それは苦渋に満ちた声だった。私は思わず背中を離して振り向いた。蒼凌はこちらに背を向けたまま、俯いている。

「俺は、お前が寄り掛かるに値しないか?弱さをさらけ出せる場所に、なれないのか……」

「蒼凌……」

 蒼凌が、深い溜息を吐いた。

「……そんな風に震えているのに、それでも強がろうとするんだな」

 私は言葉に詰まった。不意に、目の前の背中にすがって洗いざらい想いをぶちまけてしまいたい衝動に駆られる。

 でも、駄目だ。

 私の脳裏に、いつか庭園で見た蒼凌と牧燕玉の姿が浮かぶ。この国の太子である蒼凌にとって、きっとあれが正しい形だ。だから。

「……寄り掛かるなんて、出来ないよ」

 本心を何とか抑え込んで、私は口を開いた。拳を握り締めて、明るい声を装う。

「だって困るだろう?寄り掛かってしまったら、そっちには負担がかかるし、こっちだって支えが外れた時に倒れてしまう」

「負担になど感じない。支えも外れない……外さない」

 蒼凌の言葉を、私は努めて明るく笑い飛ばした。

「それは無理だよ」

 蒼凌がこちらを向いていなくてよかった。

 きっと今、私の表情はひどく不自然に歪んでいるに違いない。

「だっていつか結婚したら、蒼凌は妻子を守らないと。『俺』なんかに構っているわけにいかないだろう」

 だん、と大きな音がした。驚いて肩を震わせた私の目に映るのは、窓枠に拳をぶつけた蒼凌の姿。

「……一つ、訊く。正直に答えてくれ」

 ぶつけた拳を軋むほどに握り締め、蒼凌は低い声で言った。

「今のは本心か。本気で……本気で、俺が他の誰かと結婚すると思っているのか。お前は……」

 こんな声を、初めて聞いた。震える拳から、血が滲んでいる。

「お前は、それを望むのか」

 私は慎重に呼吸を整えた。少しでも気を抜くと、声が震えそうになる。

 何でもないような口調で、突き放さなければ。

 だって友情や義理を優先して結婚を疎んじるようではいけないんだ。特に今の状況では、蒼凌には少しでも後ろ楯が必要で。せっかく牧燕玉が好意的なのだから、その手を取るのが彼にとっては一番だ。


「……当たり前だろう」

 できるだけ軽い調子で。

「橙の和姫様と仲が良いそうじゃないか。良い機会だと思う」

 私は、自ら蒼凌の手を撥ね付けた。


 蒼凌は何か言いたそうに肩を揺らがせたが、結局黙って拳を下ろした。

「……わかった」

 それだけ言って、窓枠から離れる。遠ざかる背中を見ながら、私は膝をついた。


 これで良かったんだ。

 そう思おうとするのに、何か大切なものが抜け落ちたような喪失感が衝き上げてくる。ぐらりと、視界が揺れた。

 今を逃したら、もう二度と会えないような気がした。わけもなく焦燥が募る。


「待っ、て……」

 届く筈もない小さな声で、私は呟いた。

 自分で決めたことなのに、もうこんなに後悔している。私は馬鹿だ。

「やっぱり、無理……嫌だ……」

 蚊の鳴くような嗚咽を洩らして、私は両手で顔を覆った。


「行かないで……蒼凌……」

 そんな小さな声、届く筈も無かったのに。


 とん、と床を踏み締める音がして、私ははっと顔を上げた。同時に、蹲った肩を暖かい体温が包む。

「最初からそう言え」

 呆れたような低い声が、耳に滑り込んだ。

「蒼、凌……?」

「ん」

「なん、で……」

 震える声で問い掛けると、溜息と共にぎゅっと抱き締められた。

「この際はっきり言っておく」

 密着した体から伝わる心音が、速い。

「……俺はお前以外の女を妻にする気は無い」

「……え」

 思わず、気の抜けた声が漏れた。

 だってそんな言い方は、まるで……

「ちょっ……何を言ってるんだ、蒼凌」

 無駄にあたふたと身動ぎながら、私は言った。とりあえず離れようとするが、背中に回された腕は緩んでくれない。

「何かおかしいか?」

 おかしいに決まってますけども!

「だっ……だってほら、わた……『俺』は」

「ああ」

 そのことだが、とちょっと躊躇うような間を空けて、蒼凌は私の頭を撫でた。

「……先に謝っておく。済まない」

「……は?」

 いきなりの謝罪に目を白黒させる私に、小さく苦笑する。

「以前、昏に使いした時があったろう」

「うん」

 忘れもしない、絡嬰らに初めて会って、腹を刺された時だ。……今さらだけど、私って昏に行く度にろくな目に遭っていない気がする。

「あの、帰りにな」

「うん」

「……心泉で、お前を見た」

「うん……って、は?」

 心泉。それは昏と碧の国境近くに位置する、広大で深い湖である。

 それはいい。問題はあの時、私が何をしていたか。

 蒼凌の言った意味を理解した瞬間、かっと顔が熱くなった。

「見……っ!?なっ、え、どこ……どの時点から!?」

「……青龍が出てくる、少し前だな」

 蒼凌が微妙に目を逸らす。私は絶句した。

 青龍が来る前って、私完全に無防備に水浴みしてたんじゃ……?

「のっ……覗き魔!」

「言うに事欠いてそれか?別に覗く気は更々無かった。偶然だ、偶然」

 羞恥のあまり暴言を吐いて暴れる私を、蒼凌が抱きすくめて押さえ込む。

 抱擁の意味が以前と違うことを悟って、私は狼狽した。

「あ……の……」

「だからな、鴻宵。もしも、お前が受け入れてくれるなら」

 私の頭やうなじを優しく撫でながら、真摯な声で蒼凌は言う。

「今すぐとはいかないが、いずれお前に、俺の隣に立ってもらいたい。お前と二人で、共に歩み、共に日々を過ごして、共に老いてゆきたい」

 言葉が出ない。

 未来の話ではあるけれど、これはまず間違いなく、一種の求婚と言っていいと思う。

「だから、失う心配などするな」

 先程の話題に、戻る。

「常に傍に、とはいかなくとも、一生お前と生きていくつもりだから……好きなだけ、寄り掛かれ。俺も頼りにする」

 一方的にではなく、互いに支え合って、生きていこう。

 そんな提案に、目頭が熱くなる。滲む涙を瞬きで散らしながら、私は蒼凌の胸に顔を埋めた。

「……でも私、ちっとも女らしくない」

「俺は伴侶にそんなもの求めていない」

「蒼凌の後ろ楯になれないし」

「お前は俺に政略結婚以外するなと言いたいのか?」

「……周りで精霊がすんごい囃し立ててるし」

「……それは俺にはわからん。済まん」

 蒼凌が実質的に結婚を申し込んだ辺りから、そこら中の精霊が大騒ぎだ。きゃあきゃあうるさい。私は手を振って、騒ぎ立てる精霊達を追い払った。

「……実はね、蒼凌」

 騒がしい精霊達を追い払い、私は真面目に言った。

「昏に、知られていたんだ。私が……女、だって」

 蒼凌の腕に力が籠る。私は努めて淡々と話した。

「たぶん絡嬰が画策して、私を殺さずに潰そうと企んだんだと思う……冒溢に……」

 あの時の恐怖と悪寒を思い出して、声が震えた。

「……辛いなら、無理して言わなくていい」

 きつく抱き締めてくれる蒼凌の背に手を回して、すがりつく。

「大丈夫……何かされる前に、逃げた。その時……」

 目を閉じると、蒼凌の鼓動が伝わってくる。それを聞いていれば、もう怖くはなかった。

「咄嗟に頭に浮かんだのは、蒼凌だったよ」

 意気地無く遠回しに告白して、私はぎゅっと蒼凌の背にすがる腕に力を籠めた。蒼凌も抱き返して、頭を撫でてくれる。

「辛かったな」

「……大丈夫だよ」

「声が震えてる」

 強がりをすぐさま指摘されて、私は押し黙った。

「辛いときは辛いと言え……寄り掛かれと言ったろう」

 そう囁かれて、ただでさえ緩みかけていた私の涙腺は決壊した。


 怖かったんだ。

 今回の、昏でのことだけじゃない。この世界に来てからずっと、怖かった。

 傷を負うのが。死を感じるのが。誰かを傷つけるのが。


 頑なに前を向き続けたのは、そうしないと足がすくむからだったんだ。


 溜まりに溜まった弱音を全部吐き出して私が泣き止むまで、蒼凌はずっと抱き締めていてくれた。




 泣き疲れた私は、夢現を漂っていた。気が付くと寝台に寝かされていて、そっと頭を撫でられる。重い瞼を何とか開こうとすると、いいから、とでも言うかのように目元に掌を載せられた。

 やがて、その手が離れていく。私は思わず、それを引き留めた。

「ごめん、も、少し……」

 両手で蒼凌の手を包んで、頬を寄せる。彼は城を抜け出してきているのだから、あまり引き留めてはいけないことはわかっていた。それでも、あと少しだけ、と願ってしまう。

「眠るまで、傍に居て……」

 返事の代わりに、力の籠められた掌が肯定を示してくれた。もう一方の手がそっと私の頬に触れる。

 温もりに包まれながら、私はゆっくりと眠りの中に落ちていった。


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