幕開け
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五国の情勢は、刻々と動く。
王歴一二八〇年十一月、紅で内乱が起こった。
首謀者は、炎狂依爾焔及び征西将軍錫徹。この二人が、王の治世を不満として謀反したのである。
紅の朝廷は二つに割れるかと思われたが、紅王に与する者はごく僅かであり、反乱軍は一月とかけずに王都を制圧した。王は僅かな供回りに護られて逃げようとしたが、結局は討たれた。反乱軍は紅王の甥を新しく王に立て、年が替わるのとほぼ時を同じくして新政権が発足した。新政権の宰相は依爾焔であり、錫徹が大将軍の地位に就いた。この二人を両の輪として、政権が動いていくこととなる。
この紅の内乱はあまりにあっけなく終息し、他国に介入の隙を与えなかった。
昏でも、小さな混乱が起こった。
碧との戦以来、軍師峰晋とその従者が姿を消してしまった為である。
自国の軍師が人間に姿を窶した土地神だったという事実は、昏の君臣に大きな動揺を与えた。その混乱に乗じて白軍が攻め込み、昏の西辺を削ったが、すぐに派遣された昏軍がそれを押し返した。混乱しているとはいえ、大陸最大の国家である事に変わりはなく、その軍事力も健在である事を見せつけた。
しかし、峰晋が消えた事による最大の問題は、方士が居なくなった事だ。
五国方士の一人が人でなかったという事は、大陸全体に少なからぬ衝撃を与えた。
五国方士という括りは僅か数年前に作られたものではあるが、知らぬ者はない程に浸透した概念だったのだ。
その衝撃と混乱を救ったのは、北方の新たな方士の出現だった。言うまでもなく、璃黒零である。
彼は自ら、方士としての力を昏の将兵に見せた。それは軍に利用される事を意味していたが、それ以上に、彼にとっては鳥籠からの解放でもあった。大陸王家の血を引いていることで昏に文字通り飼われていた彼は、争乱に身を投じる事を選んだのである。
璃黒零は軟禁同然の状態で住まっていた離宮を出、将軍位に就いた。
他方、かねてから内乱の兆しを見せていた白の内情は表面上沈黙を保っている。碧との盟約がひとまず成立した事で、反太子派は太子に手出しし辛くなった。加えて有力な将軍である函猛が太子を補佐しているので、容易には立ち向かえない。その為、反太子派は現在の所鳴りを潜めているのである。
またこの年が明けて間もなく、橙の内部でも動きがあった。と言っても、起こるべくして起こったと言える出来事である。
以前から政府に追われていた轟狼と橙軍が、ついに武力で衝突したのだ。
轟狼は軍に利用されたくないが、軍は彼の力が欲しい。それで轟狼を捕らえようと画策していた軍は、焦るあまりに強硬手段をとった。轟狼と親交のある事がわかっていた衣服屋の登蘭、飯屋の淵夫妻を投獄したのだ。
これは轟狼の逆鱗に触れた。
彼は土精霊を使役して速やかに牢を破ると三人を逃がし、庵氏に預けた。橙の人民もこの政府の措置に憤っていたので通報する者も無く、彼らは庵氏の力で難なく国外に逃れた。
怒れる轟狼は軍の宿営地を一つ文字通りに覆滅させると、その場の将兵を聘睨して言った。
「民が無くて国が成り立つか馬鹿どもが。俺は絶対貴様等なんぞに力は貸さん」
そのまま彼は姿を消し、政府が血眼になって各邑を探しても見つからなかった。
そんな周囲の情勢の中で、碧が平穏であったわけでは勿論ない。
碧では国内に目立った混乱は無かったものの、他国との間で小さな戦が立て続けに起こった。
昏との国境紛争、侵攻してきた紅軍の撃退。中央からもしばしば軍が派遣された。勝敗は様々だったが、領土は概ね保たれている。
そうした動静の中、時は駆け抜けるように過ぎて行き、緩やかな四季を持つ碧の地は夏を迎えていた。
夏、六月。
陽光がやや西に傾いてじりじりと地を灼く頃、一人の青年が碧の都、翠の土を踏んだ。
「都だ……ついに来た……」
旅装の青年は感慨深そうに呟くと、きょろきょろと辺りを見回す。
ここは翠の都城の西門。目指す場所は、北側に位置する王城に近いに違いない。
額の汗を拭った青年は、とにかく街の中へ入って訊いてみようと足を進めた。
旅人らしくやや日焼けしているが、真面目そうな細面の青年である。午後になっても活気を失わない市を、行き交う人の間を縫うように歩いた青年は、腰に提げた瓢の水が空になっている事に気づいて井戸を探した。しかし市の中に井戸はみあたらず、ひとまず目に付いた茶店に入って冷たい茶を頼んだ。
懐でこすれる銭はだいぶ目減りしている。それでも都まで旅をする金を作ってくれた家族に感謝しながら、青年は茶を呷った。
「は~……あ、すみません」
ついでだからと、茶店の主人を捕まえて井戸の場所を訊く。どうやら大通りから一本入った路地にあるらしい。
「お兄さん、旅の人かい?翠へは、何か用事で?」
「ええ……ああ、そうだ」
茶店の主人に訊かれて受け答えをした青年は、勢い込んで尋ね返した。
「御主人、鴻氏のお邸って何処にあるか知ってますか?あの、たった半年で上士になったという」
その勢いに気圧されたようにぱちぱちと目を瞬かせた茶店の主人は、数秒考えてから、ああ、と声をあげた。
「知ってるよ。あんた、ひょっとして仕官に行くのかい?」
「はい……あの、何かまずいことでも?」
青年の聞いた話では、鴻氏は碧に仕え始めて僅か半年で上士の身分まで登り、功績により邸も賜ったのだが、その急激な昇進のために臣下を集めるのが間に合っていないので、仕官の口を探しているのならもってこいだということだった。
しかし、茶店の主人に問い返されたことで、青年の胸中に一抹の不安が生まれる。何しろ、青年が郷里を発ったのは二月も前の事だ。その間に臣下の人数はいっぱいになってしまったかもしれないし、何か不都合が生じているかもしれない。
そわそわし始めた青年を見て、茶店の主人は笑った。
「いや、何もまずいことは無いさ。しかしお兄さん、情報が古いね?」
「え」
問うような目をした青年に、茶店の主人はにっと笑んで見せた。
「鴻氏はこの月の初めに大夫になったよ。しかも司馬府から大将軍の麾下へ移っている。訪ねて行くときは、鴻将軍と訪ねて行かなきゃだめだよ」
青年は目を丸くした。
大夫といえば、その上には上大夫、即ち卿の身分しかない高位である。やはり凄い人であるらしい、と青年の胸は躍った。
土地では比較的裕福ながらも兄弟が多く余裕の少ない農家に生まれて二十余年。学問好きで書物を人から借りながら勉強し、その傍ら旅暮らしの武人に教えを乞うて武芸も習ってきた、その努力が実を結ぶかもしれない。
「また集める臣下の数が増えたから、仕官には最高の時期だろうさ。しっかりやんなよ」
希望にあふれた青年の背中をばしっと叩いて、茶店の主人は鴻氏の屋敷の場所を教えた。
王城へ向かう通りからやや西に外れた場所、お世辞にも街の中心であるとか、華やかな場所であるとかいう風には言えない場所に、青年は立っていた。
茶店の主人に聞いた場所は、ここで合っているはずである。
しかしながら、進む先に見えるのは、噂から想像する栄華には似合わない、地味な造りの屋敷であった。しかし門前にはきちんと門番が睨みを効かせている。
よし、と自分に気合を入れて、青年はその屋敷の前に立った。門番が、青年に目を向ける。緊張にこわばる喉を叱咤して、青年は声を上げた。
「あの、鴻氏……鴻将軍に、お目にかかりたいのですが」
言ってしまってから、いくらなんでも大夫という高位にある人が、無位無官で見ず知らずの人間に会ってくれるわけがないという考えがちらりと脳裏を掠めた。
門番は青年を観察するように見てから、口を開く。
「紹介状がおありか?」
「あ、いえ……」
青年は俯いた。
やはり、いきなり押しかけて会ってもらえる相手ではない。何かしら都で実績をあげて出直さなければいけないだろうか。
「ご用件は?」
「あ、仕官の、お願いをいたしたく……っ」
青年は特別気が小さいわけではない。武術にも自信はあった。しかし、この門番には気圧されてしまう。
何しろ、かなり長身の部類に属する青年でも見上げなければならないほどの雄偉な体格なのである。まるで熊のようだ。
「……将軍は、今参内しておられる」
門番に言われて、青年の肩から気合いが滑り落ちた。
日はまだ高い。執務が暇であれば別だが、まだ帰宅していないことは十分にありうる時間だった。しまった、と青年は頭を抱えたくなる。そんな様子を見ていた門番は、ふと語調を和らげた。
「しかし、仕官を望んできた者なら尉氏がお会いになる。報せてくるから、ここで待っていろ」
「はいっ」
青年を門外に待たせ、門番が中へ入って行く。尉氏というのは臣下の一人なのだろうが、会ってくれるということは望みがあるということである。青年は期待と緊張に高鳴る胸を擦った。
やがて再び門が開き、先の門番に続いて細身の青年が現れる。仕官に来た青年よりは幾分年上なのだろう、落ち着いた雰囲気に微笑を乗せた青年だった。
「私は尉匡、臣下の登用については将軍から丸投げ……一任されています。まずは私が話を聞きますので、こちらへどうぞ」
「はい」
何か途中妙な言い回しが聞こえたような、と思いながらも、いきなり押しかけた青年に対して礼儀正しく対応してくれる尉氏に、青年は好感を持った。
導かれるままに門の中へ入り、東屋の席に勧められるままに座る。
「さて、字は書けますね?」
「はい、勿論です」
「では、これに氏名と年齢、良ければ出身地を書いてください」
そう言って、短冊形の紙と筆を渡される。青年は緊張に震えそうになる腕を押さえながら字を記した。
「ほう、綺麗な字ですね……漣瑛さん、ですか。二十四歳、私より三つ下ですね。生まれは亢郊ですか……では都まで遠かったでしょう」
「はい、まあ」
青年、漣瑛は、思いがけぬ温かな言葉に戸惑いながら頭を下げた。尉氏はにこにこと笑っている。
「では、幾つか質問させていただきますね」
「はい」
尉氏の言葉に、気を引き締める。
仕官出来るかどうか、ここが正念場だ。
「まず、心臓は強いですか?」
「……はい?」
何かを聞き違えたのかと、漣瑛は思った。
恐る恐る相手の顔を見てみたが、尉氏はやはりにこにこしている。戸惑う漣瑛を見て、笑顔のまま言葉を付け足した。
「というより、神経は太いですか、と訊くべきですかね。つまり、想定外、常識外の事に対してある程度平静に対処できるかということです」
何の意図を持った質問なのか。訝しみながらも、漣瑛はとりあえずありのままを答える。
「大丈夫だと思います。邑に虎が出た時、俺……私が一番冷静だったと兄が言っていました」
「それは凄い。武術の心得が?」
「弓と剣は一通り。得意なのは体術ですが」
答えながら、漣瑛は首をひねった。
普通に考えれば武術の心得の方が、将軍の臣としては重要な項目だろうに、まるで話のついでに問われたような感じだ。
「体術ですか。それはいいですね。何しろ将軍は殺生がお嫌いですから」
しかし、と言葉を継いで、尉氏は困ったように笑った。
「武術に自信があって戦場に同行できる臣下、というのは、その……頑張ってくださいね」
「はい?」
尉氏の躊躇いがわからない漣瑛は、不得要領で首を傾げる。
尉氏は笑顔のまま、言った。
「何しろうちの将軍は真っ先に敵将を狙いに行きますからね。その傍に居る側近は命がけです。相当うまく立ち回れない限り、十中八九死にますね」
漣瑛の表情が凍りついた。