白銀湖のほとり
十年後に戻ってきたら、子どもだった王子様が私より年上になっていました。~アレク、あなたはいつの間に大人になったの?~ のなかでリシアが朗読した物語です。
朝の白銀湖には、薄い霧がたなびいていた。岸辺の葦はまだ静かで、その間を水鳥がゆっくりと泳いでいく。水面に残った細い波紋が、朝日を受けて銀色にきらめいた。
湖のほとりには、赤や茶色の瓦を載せた家々が並んでいた。青い煉瓦の塀が続き、軒先には赤い提灯が風に揺れている。煉瓦造りの煙突から立ちのぼる煙は、風に解かれながら淡い空へ消えていく。開け放たれた饅頭屋の窓からは、湯気とともに蒸したての饅頭の匂いが流れていた。
船着き場では、漁師たちが網を積み込んでいた。小舟が岸を離れると、板張りの桟橋に腰を下ろした老人が片手を上げた。
「今日は、よく晴れそうだな」
老人が空を仰いで言った。
「ああ。帰る頃には、日なたで居眠りができるぞ」
舟の上から、漁師の一人が笑って答えた。笑い声が水の上を渡っていった。
石畳の道を、竹の買い物籠を下げた人々が歩いてくる。家の前を掃く手を止めて挨拶を交わす者もいれば、窓辺の鉢植えに水をやりながら、向かいの家の子どもに声をかける者もいた。
やがて湖沿いの道を、二人の子どもが駆けてきた。先を走っていた子がふと足を止め、後ろの子を待つ。追いついた二人は手をつなぐと、今度は並んで歩き始めた。
そのそばの石垣では、一匹の猫が日差しに目を細めていた。寄せては返す小さな波が、岸辺の石をやさしく洗っている。
その湖のほとりの街に住む人々は、心に宝物を持っていると言われている。
その街の人々は、妬みや偏見にとらわれない自由な心を持っていた。何ものにも屈せず、誰にも媚びず、それでいて誇りと謙虚さをあわせ持つ人々だった。
湖は、朝には淡い銀色に輝き、昼には空の青を映し、夕暮れには燃えるような茜色に染まる。夜になれば、空に浮かぶ星々を一つ残らず水面に抱いた。
街の人々は、その湖を「白銀湖」と呼んでいた。
満月の夜、湖面に顔を映せば、その者の本当の心が見えるのだと、古くから伝えられている。けれど、街の誰も、それが真実であるかどうかなんて確かめようとしなかった。
「自分の心なら、自分で見つめればよい」
老人も子どもも、当たり前のようにそう言った。
この街では、裕福な者が貧しい者を見下すことはなかった。力の強い者が弱い者を踏みにじることもなく、知識のある者が知らない者を嘲笑うこともなかった。
誰かが優れた仕事をすれば、皆が惜しみなく称えた。失敗すれば、責める前に手を差し伸べた。
だからといって、誰もがいつも穏やかで、争い一つ起こらないわけではない。
意見が合わず、声を荒らげることもある。悔しさから眠れない夜を過ごす者もいれば、他人の幸せを羨んでしまう者もいた。
ただ、この街の人々は、自分の心に醜い感情が生まれたことを恥じて隠そうとはしなかった。
「わたしは今、あの人が羨ましい」
「それなら、何故羨ましいのか考えてみよう」
「自分も認められたかったからだと思う」
「では、あなたの働きも聞かせておくれ」
そんな会話が、饅頭屋の店先でも、漁から戻った船着き場でも、ごく自然に交わされた。
妬みを抱かないのではない。妬みに心を支配されないのだ。
偏見を知らないのではない。知らないものは怖い、だが、それだけを理由に相手を拒まないのだ。
恐れも、怒りも、悲しみも、人の心から、なくすことはできない。だから彼らは、それらを否定せず、自分の中に生まれた感情と向き合うことを教えられて育った。
ある年の冬、街に一人の旅人がやってきた。
旅人は黒い外套を身にまとい、顔の半分を布で隠していた。小さな袋を背負い、腰には使い込まれた剣を下げている。
彼が街の門をくぐると、広場にいた者たちは手を止めた。
子どもたちは珍しそうに見つめ、大人たちは旅人が何者なのかを測ろうとした。しかし、石を投げる者も、出ていけと叫ぶ者もいなかった。
最初に声をかけたのは、広場で焼き栗を売っていた老婆だった。
「寒かっただろう。ひとつ食べるかい?」
旅人は警戒した目で老婆を見た。
「金はない」
「まだ値段の話はしていないよ」
老婆が言った。
「施しは受けない」
「これは施しじゃない。あんたが食べて、おいしいと思ったら、今度は誰かに親切を一つ渡しておくれ。それで代金は十分だ」
旅人はしばらく黙っていたが、やがて焼き栗を一つ受け取った。
熱い栗を指先で割り、口に入れる。その瞬間、布の下でわずかに表情がゆるんだ。
「……うまい」
「そうかい。それならよかった」
老婆は彼が何者なのか尋ねなかった。何故顔を隠しているのかも、どこからきたのかも聞かなかった。
旅人はそれを不審に思った。
「俺が恐ろしくないのか」
「恐ろしいとも」
老婆はあっさり答えた。
予想外の返事に、旅人は目を見開いた。
「剣を持った大男が顔を隠して立っているんだ。怖くないと言えば嘘になる。だが、怖いからといって、あんたが悪人だと決めつける理由にはならないよ」
「もし俺が悪人だったら?」
「そのときは、街の皆で追い出すさ」
老婆が笑うと、近くで話を聞いていた鍛冶屋が大きくうなずき、旅人に言った。
「心配するな。俺たちは争いが嫌いだが、戦えないわけじゃない」
「そうそう。うちの婆さんなんて、若い頃は湖の大魚を素手で捕まえたんだから」
漁師の一人が冗談めかして言った。
「余計なことを言うんじゃないよ!」
老婆が栗を投げる真似をすると、広場に笑い声が広がった。
旅人は、笑う人々を呆然と見回した。
彼はこれまで、数えきれないほどの街を訪れてきた。顔を隠しているだけで疑われ、剣を持っているだけで追い払われたこともある。傷痕を見られて化け物と呼ばれたこともあった。
親切にされたことがないわけではない。
けれど、多くの親切には見返りが伴った。剣の腕を貸してほしい、敵を倒してほしい、忠誠を誓ってほしい。彼が役に立つと知った者だけが笑顔を向けた。
この街の人々は違った。
彼が何者で、何ができるのかも知らないうちから、温かな栗を差し出した。
「宿を探しているなら、湖畔の青い瓦の家へいきな」
老婆が湖の方角を指差した。
「女将には、栗売りのマーサに聞いたと言えばいい。安くはないが、食事はたっぷり出る」
「安くないのか」
「当たり前だろう。親切と商売は別だよ」
その言葉に、旅人は初めて小さく笑った。
それから彼は、湖畔の宿に泊まり、街に滞在することになった。
最初のうち、彼は誰とも深く関わろうとしなかった。
頼まれれば薪を割り、壊れた柵を直し、湖で漁師の網を引いた。働いた分の賃金を受け取り、それ以上のものは受け取らなかった。
街の人々も、無理に事情を聞き出そうとはしなかった。
ただ、朝になれば挨拶をし、食事時になれば同じ卓へ誘い、彼が断れば「そうか」と引き下がった。
その距離が、旅人には心地よかった。
やがて彼は、少しずつ顔を覆う布を外すようになった。
右の頬から顎にかけて、古い火傷の痕があった。
初めて傷痕を見た子どもが、驚いて息をのんだ。
「痛かった?」
子どもは、それだけを尋ねた。
「ああ。痛かった」
「今も痛い?」
「雨の前には、少しな」
「あぁ、明日は雨かもしれない。辛いかな」
子どもはそう言って、空を見上げた。
旅人は、笑えばいいのか、泣けばいいのかわからなかった。
春の訪れが近づいた頃、湖の向こうから武装した兵士たちが現れた。
彼らは旅人を捜していた。
旅人の正体は、滅ぼされた国の王子だった。祖国を奪った者たちは、彼が生きている限り反乱の火種が消えないと考えていた。
「その男を差し出せ」
兵士たちは街の人々に命じた。
「かくまえば、この街も反逆者として扱う」
街の人々はざわめいた。
怖くないわけではない。兵士たちは剣と弓を持ち、背後には大きな国の力があった。逆らえば、平穏な暮らしを失うかもしれない。
旅人は剣を腰に差し、兵士たちの前へ出ようとした。
「俺がいけば済む。世話になった」
だが、焼き栗売りのマーサが彼の外套をつかんだ。
「誰がいっていいと言ったんだい」
「これは俺の問題だ」
「違うね。あんたを渡せと言われた瞬間から、わたしたちの問題にもなった」
「街を巻き込むつもりはない」
「なら、勝手に街を守った気になるんじゃないよ」
マーサは旅人の前に立つと、兵士たちをまっすぐに見た。
「この人が何か罪を犯したというのなら、証拠を見せておくれ」
「生きていることが罪だ」
兵士の一人が答えると、街の人々は静まり返った。
やがて鍛冶屋が一歩前へ出た。
「生きていることが罪になるような国の命令に、従う理由はない」
漁師たちがその隣に並び、饅頭屋も、宿屋の女将も、仕立屋も続いた。老人たちは杖をつき、若者たちは道具を手に取り、子どもたちは大人たちの後ろから兵士をにらんだ。
彼らは恐怖に屈しなかった。
けれど、自分たちの勇気を誇示して笑うこともしなかった。
「わたしたちは、あなた方を憎まない」
街の長が兵士たちへ告げた。
「命令に逆らえない事情があることも理解している。だからこそ剣を収め、何もせずに帰ってほしい。あなた方が剣を抜かなければ、わたしたちも戦わない」
「我々に媚びて、命乞いをするつもりか」
兵士が言い返した。
「いいや」
街の長は穏やかに首を振った。
「これはお願いではない。わたしたちの意思を伝えている」
その声には怒りも侮蔑もなかった。
ただ、湖の底に沈む大岩のように、揺るぎないものがあった。
そのとき旅人は、ようやく理解した。
この街の人々が心に持つ宝物とは、特別な力でも、汚れを知らない美しい心でもない。
恐れながらも前を向く勇気。
自分の弱さを認める謙虚さ。
他人の価値を、自分の損得によって決めない誇り。
そして、傷つけられたときでさえ、憎しみに自分を明け渡さない自由。
それこそが、この街の人々が何代にもわたり守り、子どもたちへ受け継いできたものだった。
兵士のひとりが冷ややかな笑みを浮かべ、腰の剣に手をかけた。
「物好きどもめ。反逆の意思ありと見なして、この場で焼き払え」
その号令とともに、数名の兵士が踏み出そうとした――そのときだった。
「待ちなさい」
静かだが、不思議と場の空気を制する気迫のこもった声が響いた。
人垣を割って進み出たのは、宿屋の女将だった。彼女の手には、令牌が握られていた。
「おや、それは……」
先頭に立っていた兵士の隊長が、ふと足を止めて目を細めた。
宿屋の女将が掲げた令牌は、かつてこの一帯を治めていた古い王朝が発行したものだった。そしてその権威は今も失われていない。
噂では、龍が守護しているとも言われている。
「うちは代々、この湖のほとりで旅人や商人を迎え入れてきた。国がどう変わろうとも、往来の安全を保障する証を持つ宿だ。それを何の罪状の確定もなく、うちの客を連行するなど許さないよ」
女将は臆することなく、堂々と言い放った。
隊長はわずかに顔をしかめ、背後の兵士たちを振り返った。
「……くっ。厄介な小者どもめ」
隊長は舌打ちをすると、鋭い視線を旅人へと向けた。
「おい、隠れるな。お前一人のために、この者たちがどうなってもいいのか」
旅人はゆっくりと前に進み出た。顔の半分を覆っていた布を、自らの手で取り去る。
右の頬から顎にかけて、古い火傷の痕があらわになった。
もう、その傷を隠そうとは思わなかった。旅人は顔を上げ、兵士たちをまっすぐに見据えた。
「俺は行く。この街の者には、手を出すな」
さらに一歩踏み出そうとしたとき、長が彼の前に立った。
「待ちなさい」
「だが、俺がここにいれば――」
「この人は連れて行かせない」
長は旅人の言葉を遮り、兵士たちに告げた。穏やかな表情のまま、声には少しのためらいもなかった。
隊長が目を細めた。
「自分が何を言っているのか、わかっているのか」
「わかっておる」
「その男をかばえば、お前たちも同罪だぞ」
長は一歩も退かなかった。
旅人がもう一度口を開こうとしたとき、小さな手が彼の指に触れた。
見下ろすと、あの日、傷が痛むのかと尋ねてきた子どもがいた。
「こっちに来て」
子どもは旅人の手を握り、人々のほうへ引いた。
「危ない。お前は下がっていろ」
「一緒に下がろう」
小さな手は離れなかった。
旅人は言葉を失った。
いつの間にか、人々は手をつないでいた。マーサが鍛冶屋の手を取り、鍛冶屋は漁師の手を握っている。宿屋の女将も、饅頭屋も、店先から出てきた仕立屋も、その輪に加わっていた。
子どもの隣にいた母親が、旅人へ手を伸ばした。
旅人はためらいながら、その手を取った。
誰かを背にかばいながら、また隣の誰かに支えられながら、人々は兵士たちを睨みつけていた。
握った手の中には、震えているものもあった。
旅人の手も震えていた。子どもがそれに気づき、両手でぎゅっと握り直した。
「離さないでね」
「ああ」
旅人はようやく答えた。
「離さない」
「くだらん真似を」
隊長が吐き捨て、腰の剣を抜いた。
鋼の刃が光る。
「最後の警告だ。その男から手を離せ」
誰も動かなかった。
そのとき、マーサの胸元に白い光が灯った。
小さな、淡い光だった。けれどそれは次第に明るさを増し、外套を透かしてあふれ出した。
鍛冶屋の胸からも、女将の胸からも、白い光がこぼれ始めた。
「……お母さん、光ってる」
子どもが呟いた。
母親は驚いた顔で我が子を見下ろした。その子の胸にも、同じ光が灯っていた。
老人にも、若者にも、広場に集まったすべての人々に灯っていた。
白い光が胸からあふれ、つないだ腕や肩を柔らかく照らしていた。
旅人は自分の胸を見下ろした。
彼の胸からも、光があふれていた。
「俺にも……」
思わず呟くと、子どもが顔を上げた。
「一緒だね」
旅人は、その言葉にうなずくことしかできなかった。
人々の胸から離れた光は、細い帯となって宙を流れた。いくつもの帯が重なり合い、家々の軒先を越え、白銀湖へ向かっていく。
「何をしている!」
隊長が怒鳴った。
だが、誰にも答えられなかった。
人々もまた、初めて見る光景に息をのんでいた。
白い光は湖面へ降りると、沖で大きな輪を描き始めた。
一筋、また一筋と光が加わる。
輪はゆっくりと巡りながら輝きを増し、やがてその内側の水が、底から照らされたように透き通った。
湖を渡る風がやんだ。
葦の葉が静まり、水鳥の声も途絶えた。
白い輪は水面を巡り続けたあと、少しずつ沈んでいった。最後の光が水の下へ消えると、湖は何事もなかったかのように静かになった。
深いところから、低い音が響いた。
旅人の足の裏に、石畳の震えが伝わった。
沖の水面が盛り上がる。
水の中から、銀白色の角が現れた。
続いて大きな額が浮かび上がり、黄金色の目が開かれた。長いひげから水が滴り、幾重もの鱗をまとった体が、ゆっくりと湖の上へ伸びていく。
「龍……」
村長が呟いた。
龍は頭を高く持ち上げた。長い胴が湖面を横切り、その影が広場まで届いた。
兵士たちの馬がいななき、後ろへ退いた。
隊長は手綱をつかもうとして、剣を持ったままよろめいた。
龍の目が、彼に向いた。
「剣を収めよ」
低い声が、広場に響いた。
隊長の唇が動いた。
「我々は、国王陛下の命令で――」
「国王がどうした」
「その男は、滅びた国の王子だ。生かしておけば、いずれ反乱を起こす!」
龍は旅人へ目を向けた。
旅人は子どもの手を握ったまま、その目を見上げた。隠していた傷も、震えている体も、胸の内も、すべて見られているような気がした。
龍は再び隊長を見た。
「まだ犯しておらぬ罪を理由にするのか?」
隊長は答えなかった。
背後の兵士が一人、剣を鞘に戻した。その音に促されるように、ほかの兵士たちも刃を下ろした。
「立ち去れ」
龍が告げた。
「ここに生きる者を害することは、許さぬ」
隊長はなおも広場を睨んでいた。
龍がゆっくりと頭を近づけた。大きな黄金色の目が、隊長のすぐ前に迫る。
そのひげが揺れた瞬間、湖から強い風が吹きつけた。
隊長の外套がはためき、兵士たちは顔を覆って後ずさった。馬が激しく首を振り、手綱を引いても落ち着かなかった。
「撤退だ!」
隊長が叫んだ。
「引き上げろ!」
兵士たちは慌ただしく馬に乗り、街の門へ向かった。振り返る者はいたが、戻ってくる者はいなかった。
彼らの姿が見えなくなっても、人々はしばらく手をつないだままだった。
やがてマーサが、大きく息を吐いた。
「……行ったね」
その声に、鍛冶屋がうなずいた。
旅人は膝から力が抜け、その場にしゃがみ込んだ。
子どもが一緒に腰を落とし、彼の顔をのぞき込んだ。
「傷、痛くなった?」
旅人は首を振った。
「いや……痛くない」
声が震えた。
子どもの手に、涙が落ちた。
「痛くないのに、泣くの?」
「ああ」
旅人は濡れた顔のまま、小さく笑った。
「そういうことも、あるんだ」
湖の上で、龍が静かに首を巡らせた。
人々は顔を上げた。村長が深く頭を下げると、龍は一度だけ、ゆっくりと目を閉じた。
それから長い体を翻し、湖へ戻っていった。
銀白色の鱗が水の下へ消え、最後に角が沈んだ。
大きな波紋が岸へ届き、石を洗った。
旅人は子どもの手を握ったまま、その波紋を見つめていた。
白銀湖は、静かにきらめいていた。
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