第9話: 私の口で言います
——「お断りします」。震える喉で、私は初めて自分を選んだ。
使者は、やはり村を出ていなかった。
広場から退いたはずなのに、朝の空気はまだ固い。
リンデンの煙の匂いに、王都の金属の匂いが混じっている。
エルザさんの家の台所で、私は湯気の立つカップを両手で抱えていた。
手が冷たいのは、冬のせいだけじゃない。
「……ほんとに、いるんだね」
窓の外。
村の入口へ続く道の少し手前に、黒と白の外套が見えた。
馬車はそのまま。騎士も数人。
村に泊まる場所なんて限られているのに、遠慮もせずに居座っている。
私の胸の奥で、古い札がざわつく。
戻らなきゃ。
その言葉が、息を吸うたびに喉の奥に貼りつく。
聖女は国のもの。
命令は絶対。
逆らえば、誰かが罰を受ける。
それを、何度も見てきた。
私が従えば丸く収まる。
私が我慢すれば、誰も……。
「凛ちゃん」
エルザさんの声が、ゆっくりと私を現実に引き戻した。
カップの縁から、指を離せないまま顔を上げる。
「……決めたかい?」
質問なのに、追い詰める音がない。
答えを急かさない。
ただ、隣で待っている。
私は口を開いて、閉じた。
決める。
その言葉が、私にはまだ重い。
“決める”なんて、今まで許されてこなかったから。
でも。
昨夜。
私はレオンに、初めて話した。
前世のこと。
頑張りすぎて倒れて、最後まで「大丈夫です」と言っていたこと。
ここに来ても、同じ癖が抜けないこと。
「戻らなきゃって思うの、止められない」
そう言った私に、レオンは、怒らなかった。
慰めもしなかった。
ただ。
「……それでも、あんたが決めろ」
その一言だけを、置いていった。
命令じゃない。
檻の鍵を、私の手のひらに戻す言葉。
私はカップの中の揺れる湯気を見た。
湯気は、形を持たない。
握りしめようとしても、すり抜ける。
それなのに。
今の私は、握りしめたい。
自分の答えを。
「……怖いんです」
声が小さくて、自分で自分の声が遠い。
「戻らなきゃって思うのも怖い。戻らないって言うのも怖い」
エルザさんは頷いた。
「怖いのは、生きてる証拠さね」
優しい声。
でも、そこに甘やかしはない。
私を赤ん坊扱いしない。
「凛ちゃん。あたしたちは、凛ちゃんを押さないよ」
押さない。
押し返さない。
引っ張らない。
その言葉が、胸に痛い。
痛いのに、温かい。
戸口の方で、足音が止まった。
レオンが立っていた。
いつものように無表情で、いつものように黒い。
ただ、今朝は外套を羽織っている。
村の風の中で、騎士の輪郭だけが浮く。
目が合いそうになって、私は反射で逸らしそうになった。
でも、逸らさなかった。
レオンは何も言わない。
それでも。
ここにいる。
その事実だけが、私の背中に板を当ててくれる。
崩れそうな骨を支えるみたいに。
外で、金属が鳴った。
使者が、わざとらしく馬の口輪を鳴らしたのだろう。
聞こえるように。
恐れを思い出させるために。
私はカップを置いた。
手のひらが、まだ震えている。
「……行きます」
言った瞬間、喉がきゅっと痛んだ。
行かなきゃ、じゃない。
行きます。
自分で言うと、言葉の重みが変わる。
エルザさんは笑った。
「うん。行こうかね」
レオンが一歩、近づいた。
隣に並ぶための一歩。
でも、私の前には出ない。
その距離が、ありがたい。
私の足で、前へ出る。
◇
村の中央。
井戸のある広場に、使者は立っていた。
夜露に濡れた外套が、場違いに光る。
村人たちは集まっている。
昨日よりも静かだ。
守る背中はある。
でも今日は、私の背中のために、前へ出ない。
それが、怖い。
そして、嬉しい。
使者の目が、私を見つけた。
「聖女リーネ」
その呼び名だけで、身体が一瞬、昔の形に戻りそうになる。
背筋が伸び、口角を作り、頷こうとして。
——止まる。
隣に、レオンがいる。
剣に手をかけるでもなく、ただ立っている。
黙って、私を見る。
「……凛」
私の名前を、短く。
それだけで、私の足は今の地面に縫い留められる。
使者は、外套の内側から巻物を取り出した。昨日から持っていたのだ。見せなかっただけで。
赤い封蝋が押されている。
金色の紋。
王都の印。
「正式な令状だ。王太子殿下の御前へ、直ちに出頭せよ」
出頭。
出頭。
その言葉は、人間に対する言い方じゃない。
「拒めば、反逆。隠匿した者は処罰対象となる」
村人たちの息が、わずかに揺れた。
私の胸の中で、「戻らなきゃ」が暴れた。
ほら。
言ったでしょう。
私が従わないと、誰かが。
私は唇を噛んだ。
噛まないと、勝手に「はい」が出てしまう。
でも……。
昨夜、レオンは言った。
“決めろ”。
エルザさんは言った。
“押さない”。
誰も私を動かさない。
動くなら、私の足。
私は一歩、前へ出た。
膝が笑う。
足首がぐらつく。
指先が氷みたいに冷える。
それでも、前へ。
「……私が、答えます」
声が震えて、情けない。
聖女様の声じゃない。
でも。
これが、私の声だ。
使者が眉をひそめた。
「当然だ。聖女は国に帰る。分かっているだろう」
分かっている。
分かっているから、苦しかった。
分かっているから、今日まで笑って従ってきた。
私は息を吸った。
胸が痛い。
胃がきしむ。
怖い。
でも。
怖いままでも、言える。
私は、口を開いた。
「お断りします。私はもう、あなたたちの道具じゃありません」
言った。
言ってしまった。
言葉が、空気を切って落ちる。
その瞬間。
世界が終わると思った。
怒鳴られる。
殴られる。
村が焼かれる。
レオンが連れていかれる。
いくつもの想像が、頭の中を駆ける。
でも。
起きなかった。
使者の顔が、固まっている。
「……は?」
返ってきたのは、間抜けな音だった。
私は喉を押さえたくなるのを我慢した。
声が出ている。
まだ、出せる。
「私は凛です。リンデン村で生きています」
敬語が崩れるのが分かる。
でも、戻さない。
戻したらまた、あの檻の言葉になる。
使者は一歩、詰め寄った。
「聖女が拒むなどあり得ない! 殿下の慈悲だぞ? 理解しているのか?」
問いかけの形。
でも、答えは一つしか許していない。
昔の私は、そこに頷いた。
“ありがたい”と笑った。
私は、首を横に振った。
小さく。
でも、はっきり。
「慈悲じゃない。支配です」
言ってしまった。
言った瞬間、胸が熱くなった。
自分の中の何かが、ずっと言いたかった。
ずっと。
ずっと。
使者の目が揺れた。
怒りと困惑と、恐れ。
恐れ?
そんなもの、あなたにもあるの?
「……アッシュフォード! 貴様もだ。騎士が命令に逆らうのか」
使者はレオンに矛先を向けた。
レオンは、返事をしなかった。
ただ。
私の隣に、半歩、並んだ。
それだけで、空気が変わる。
剣を抜かないのに、抜いたみたいに。
レオンの視線が、使者を刺す。
沈黙が、私の背中を覆う。
言葉じゃなくて。
壁じゃなくて。
“隣”という形の支持。
レオンが、低く言った。
「……俺がいる」
短い。
それだけ。
でも私は、泣きそうになった。
使者の喉が動く。
巻物を握る手が、わずかに震えた。
「……村ごと処罰されても、いいのだな」
脅し。
昨日なら、その言葉で私は崩れた。
でも。
今日の私は。
私は後ろを見た。
村人たちは、ただ立っている。
顔は怖い。
でも、押しつけない。
エルザさんが、うん、と小さく頷いた。
“凛ちゃんが決めな”。
その頷きが、言葉に見えた。
私は使者を見た。
「罰は、あなたたちが決めるんですか」
声がまだ震えている。
でも、逃げない。
「……罰を与える側の言葉で、私を動かさないでください」
言った。
言えた。
使者は唇を噛んだ。
村人の数。
レオン。
そして、私。
計算する目。
昨日と同じ。
でも昨日と違うのは。
私が、逃げていない。
「……分かった」
使者の声が、低く落ちた。
「今日のところは退く。だが、次は違う」
違う。
その一言が、刃になる。
「王都は黙ってはいない。聖女を国に戻す。必ずだ」
言い捨てて、使者は踵を返した。
騎士たちが慌てて従う。
馬車が軋み、蹄の音が広場から遠ざかる。
本当に。
退いた。
世界は、壊れなかった。
私は足の力が抜けて、その場で膝をつきそうになった。
レオンの手が、私の背に触れる。
触れて、支える。
強くは掴まない。
私が倒れない分だけ。
その温度で、やっと息ができた。
「……言えた」
自分の声が、かすれている。
言えた。
たった三文字のことなのに。
二十年分の鎖が、一本ずつ外れていくみたいだった。
涙が落ちた。
悔しい涙じゃない。
怖い涙でもない。
初めて。
“自分で選んだ”ことが、胸の奥に落ちる涙。
エルザさんが、私の前まで来て、そっと肩を抱いた。
「よく言ったよ、凛ちゃん」
褒め言葉が、痛いくらいに沁みる。
私は声を出して泣いた。
今までみたいに、静かに壊れないように泣くんじゃなくて。
ちゃんと。
生きている人みたいに。
レオンは何も言わない。
でも、隣にいる。
その沈黙が、いちばん優しい。
◇
村の外れ。
使者は馬を急がせながら、何度も後ろを振り返った。
あり得ない。
聖女が拒むなど。
しかも、あの目。
あの声。
「……王都に報告だ」
かすれた声で呟き、使者は胸元の封蝋に指を当てた。
次は、令状だけでは済まない。
王太子が。
大神殿が。
“聖女を取り戻す”ために、動く。
蹄の音が、雪のない道を切り裂いていった。
——次話「王太子の焦燥」――次の一手が、運命を動かす。
拙い文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。
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