第8話: 使者の来訪
——「聖女を返せ」。静かな村に、王都の命令が土足で踏み込んだ。
その日、リンデン村は、いつもより音が柔らかかった。
霜の残る畑を踏む足音が、土に吸われて丸くなる。薪を割る乾いた響きも、煙突からの煙も、どこかの家の鍋の匂いも、全部が同じ場所に落ちている。
私はエルザさんの家の前で、桶の縁に手を置いていた。
指先が冷えて、でも胸の中は静かだった。
「凛ちゃん、手ぇ赤くなるよ。中でやりな」
エルザさんが言う。
私は反射で「はい」と言いそうになって、息を飲んだ。
ここでは、返事をするのも、しないのも、私の自由だった。
「……もう少し、外の空気を」
そう答えると、エルザさんは「そうかい」とだけ言って、笑った。
許可じゃない。許しでもない。
当たり前みたいに、私の言葉が通る。
——だからこそ。
遠くから、いつもの村の音じゃないものが混じった瞬間、背中が固まった。
蹄の音。
複数。硬い道を叩く、規則正しいリズム。
土の匂いに、金属の匂いが差し込んでくる。
胸の奥で、古い鐘が鳴った気がした。
大神殿の鐘。
呼ばれる前に、身体が勝手に整列する、あの音。
私は桶から手を離し、無意識に背筋を伸ばしかけて——止まった。
止めたのは、家の陰から伸びてきた影だ。
レオンが、いつの間にか門の外に立っていた。
肩の角度が変わるだけで、空気の密度が変わる。
剣を抜いていないのに、剣の気配だけが先に来る。
「……来た」
短く言って、レオンは道の先を見た。
視線の先、村の入り口の方から、馬に乗った騎士が二人、三人。
その後ろに、荷を載せた馬車。
黒と白の外套。胸元に、金の刺繍。
王都で何度も見た——王国騎士団の印。
村の人たちも気づいたのだろう。
畑の手が止まり、子どもの声が途切れる。
犬が一度、低く吠えた。
馬が止まった。
先頭の男が、鞍から降りる。
まだ若い。整えられた髪。磨かれた革靴。
泥が似合わない匂いがする。
男は周りを見回し、鼻で笑った。
「ここがリンデン村か」
声が高い。よく通る。
誰かに聞かせるための声。
「王国騎士団より来た。——王太子殿下のご命令だ」
その言葉だけで、私の喉が狭くなった。
命令。
命令。
命令を聞いたら、動く。
動かなきゃいけない。
動かなかったら——
私の身体が一歩、前に出かけた。
出ようとして、出られなかった。
畑から戻ってきたハンスさんが、私の前に立ったからだ。
鍬を肩にかけたまま。逃げない背中。
「おいおい。王都のお偉いさんが、こんな辺境まで何の用だい」
ハンスさんの声は、いつもの挨拶の声と同じだった。
軽くて、笑いを混ぜる声。
でも、その足は、私の前から一歩も退かない。
使者の男は眉をひそめた。
「平民が口を挟むな。——聖女リーネを引き渡せ」
空気が凍った。
聖女。
リーネ。
その名前は、私の皮膚の内側に貼り付いた札みたいに、剥がれない。
呼ばれると、身体が役割に戻ってしまう。
「聖女リーネは、王都ルミエールへ戻る。王太子殿下が直々にお呼びだ。……抵抗は許されない」
許されない。
その響きが、刃になって胸に刺さる。
私は息を吸って、言おうとした。
「はい」と。
「承知しました」と。
そう言えば、誰も傷つかない。
そうすれば、いつもの場所に戻れる。
私が我慢すれば——
でも。
「凛ちゃんは、ここにいるよ」
エルザさんの声が、私の隣で落ちた。
振り向くと、エルザさんが、腰に手を当てて立っている。
小柄なのに、いつもより大きく見えた。
茶色い目が、まっすぐ使者を射抜く。
「凛ちゃん、って……」
使者が鼻で笑った。
理解できない、という笑い方。
「その呼び方は何だ。聖女に対する無礼だろう」
「無礼?」
エルザさんが、笑わなかった。
穏やかな人が笑わないとき、怖い。
「あたしの目が黒いうちは、誰にも渡さないよ」
たったそれだけの言葉なのに、村の空気が変わった。
背中が増えた。
ハンスさんの横に、籠を抱えたおばさん。
薪を背負った青年。
子どもを抱いた母親。
老人が杖をついて、ゆっくり前へ出てくる。
誰も剣を持っていない。
誰も鎧を着ていない。
ただ、生活の道具を手にして、立っている。
「そうだよ」
籠のおばさんが言った。
「凛ちゃんは、うちの村の子だよ」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
“うちの村の子”。
私は、いつも“国の宝”だった。
“聖女様”だった。
“資産”だった。
道具だった。
でも今、目の前の人たちは、私を——
「村の子、だよ」
もう一人が言った。
それが、当たり前みたいに。
使者は、苛立ったように唇を歪めた。
「愚か者ども。聖女は国のものだ。お前たちが囲っていい存在ではない」
国のもの。
その言い方が、私の中の古い鎖を鳴らした。
鎖が鳴ると、身体はまた——
「……国のものじゃない」
低い声が、間に入った。
レオンだった。
いつの間にか、私と村人たちの前へ出ている。
一歩。
それだけで、使者の視線が釘づけになる。
レオンは何も飾らない革鎧のまま。
でも立ち方だけで、騎士団の礼装よりずっと重い。
右手は、剣の柄に触れている。
抜くためじゃない。
いつでも抜ける、という事実を見せるために。
レオンは使者を見つめた。
無言のまま。
その沈黙が、いちばんよく通った。
使者の喉が、小さく動いた。
「……アッシュフォード?」
名前を呼ばれても、レオンは表情を変えない。
ただ、視線だけが冷たくなる。
「護衛が、なぜここにいる。聖女を連れ出したのは貴様か」
使者の声が、さっきより少しだけ尖る。
命令口調の裏に、焦りが混じる。
村人たちの背中ではなく、レオンの剣に向けての焦り。
レオンは、短く言った。
「……凛は、ここにいる」
凛。
私の名前。
レオンの口から、私の名前が落ちた。
それだけで、鎖の音が少しだけ小さくなる。
「王太子殿下の命だぞ! 逆らえば反逆だ。村ごと焼かれても——」
言いかけた使者の言葉が、途中で詰まった。
レオンが、ほんの少しだけ前へ出たからだ。
剣の鞘が、革に擦れる音がした。
抜いていないのに、抜いたみたいな音。
村の誰かが息を飲む。
私も、息を止めた。
レオンは、使者の目を見たまま、動かない。
でも私は知っている。
この人は、動くときほど静かだ。
静かに動くときほど、速い。
「……命令は、ここでは通らない」
レオンの声は低くて、平らだった。
怒鳴っていない。
なのに、使者の顔色が変わる。
使者は唇を噛み、周りを見回した。
村人の数。
畑の道具。
そして、レオン。
計算する目。
それが王都の人の目だ、と私は思った。
「……今日は、退く」
使者が言った。
悔しさが、言葉の隙間から漏れる。
「だが覚えておけ。聖女リーネは国の……王太子殿下のものだ。忘れるな」
最後まで、"もの"と言った。
言い残して、使者は踵を返し、村の入口のほうへ引き上げていった。
連れてきた騎士たちも、馬車のそばに戻る。
広場に残ったのは、土と煙の匂いだけだった。
その場の緊張がほどけた瞬間、足の力が抜けた。
私はその場に座り込みそうになって、慌てて膝に手をつく。
怖かった。
命令の声が。
あの札の名前が。
“戻れ”という言葉が。
でも——それ以上に。
私の前に立った背中が、怖かった。
怖いくらい、嬉しかった。
「凛ちゃん」
エルザさんが、私の手を取った。
手があたたかい。
私の冷えた指先を包み込むみたいに。
「大丈夫。ここはリンデンだよ。命令より、パンの焼ける匂いの方が強い村さね」
おかしい言い方なのに、私は笑えなかった。
笑う代わりに、喉の奥が震えた。
「……ごめんなさい」
それが、また癖で出た。
私が泣くとき、まず謝ってしまう。
迷惑をかけた、と。
役に立てなかった、と。
でも、エルザさんは首を振った。
「謝らなくていいよ」
言い切られて、胸が苦しくなる。
苦しいのに、息ができる。
ハンスさんが、鍬を肩から下ろして笑った。
「凛ちゃん、俺らぁ畑は弱ぇけどよ。こういうのは強ぇぞ」
「そうそう。村の子を連れていくなら、まず村を通ってもらわなきゃね」
籠のおばさんが言って、周りが小さく笑う。
その笑いが、私の胸の中の固いものを、少しずつ溶かしていく。
私の目から、勝手に涙が落ちた。
冷たい空気の中で、涙だけが温かい。
誰かに見られたらいけない、と思っていた。
泣くのは弱さで、聖女には許されない、と。
でもここでは、泣いても世界が壊れない。
泣いても、誰も私を叱らない。
「……私、戻らなきゃって……思って」
言葉が途中で崩れて、声にならない。
恥ずかしくて、情けなくて。
村の人たちの前で、こんなことを言う資格がない気がした。
それでも、言いたかった。
言っていい、と言われた気がしたから。
レオンが、私の前にしゃがんだ。
目線が同じになる。
彼の顔はいつも通り無表情なのに、目だけが柔らかい。
「……戻るかどうか」
レオンは、言葉を選ぶみたいに一拍置いてから、続けた。
「……決めるのは、あんただ」
あんた。
突き放す言い方なのに、突き放していない。
私の手から選択を奪わないための言い方。
「でも」
レオンの指が、私の袖口のあたりに触れて、すぐ離れた。
触れそうで、触れない。
手を取るのは、私が望んだときだけだと知っているみたいに。
「……ここにいる間は、守る」
たったそれだけ。
でも、その言葉は、命令じゃない。
約束だった。
私は、息を吸った。
涙が喉に引っかかって、変な音になった。
それでも、胸の奥が少しだけ軽くなる。
村の人たちが、私の泣き方を責めずに、それぞれの生活の位置に戻っていく。
薪を抱えて、畑に戻って、子どもの手を引いて。
守るための背中を見せたまま、何事もなかったみたいに。
それが、いちばん泣きたくなるほど優しかった。
「凛ちゃん」
エルザさんが、私の頭をぽん、と軽く叩いた。
「泣きな。泣いて、あったかいもん飲んで、今夜はよく寝な」
私は頷いた。
頷けた。
守られたことが、嬉しくて。
それを嬉しいと思える自分が、嬉しくて。
涙が止まらないまま、私は初めて、“自分のために泣く”ということを知った。
——次話「私の口で言います」――次の一手が、運命を動かす。
拙い文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。
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