第7話: 騎士の不器用
——庭でひと息つく凛のもとへ、レオンが野の花を抱えて戻ってくる。
庭の土は、冷たいのに、指先にやわらかかった。
エルザさんの家の裏手。柵の内側に、小さな畑と、花壇のようなものがある。
芽が出かけた葉ものの列と、冬を越えた薬草の株。
そこに混じって、名前も知らない小さな花が、勝手に咲いていた。
私は腰掛けに座って、膝の上に手を重ねる。
日向はあたたかい。背中だけが、ほんの少しほぐれていく。
大神殿の庭は、いつも整っていた。
踏むべき石の順番があって、目を上げる角度まで決まっていた。
ここは違う。
犬が柵の向こうを走り、遠くで誰かが笑って、風が勝手に髪を揺らす。
「……」
私は、息を吐いた。
許可を取らずに息を吐くことが、こんなに難しいなんて。
そのとき、門の方から足音が近づいてきた。
土を踏む、重い音。迷いのない歩幅。
それだけで、誰だか分かってしまう。
レオンが、庭の入口に立っていた。
いつものように無表情で、でも今日は片腕が妙に不自然だ。
抱えているのは……花?
野の花の束。
黄色いの、白いの、紫が混じったの。茎が長いものは折れ、土がついた根っこまでついている。
摘んだ、というより、引っこ抜いたに近い。
でも、それがなぜだか、胸の奥をくすぐった。
レオンは一歩だけ近づいて、立ち止まった。
私と花のあいだに、妙な距離ができる。
騎士の剣先ほどの、まじめな距離。
「……これ」
たったそれだけ言って、花を差し出してくる。
視線は、私の肩の少し横に落ちていた。
目が合うと何かが壊れるみたいに、避けている。
「わ、私に……?」
聞き返す声が、自分でも驚くほど幼かった。
レオンは頷く。
短く。速く。
それから、また黙る。
私は両手で花束を受け取った。
茎の冷たさ。土の匂い。朝露の残り。
それに混じって、レオンの手袋の革の匂いが、ほんの少し。
神殿でも、花はよく差し出された。
“聖女様へ”という札をつけて。
受け取った私は、決まった言葉で礼を述べ、決まった場所へ飾る。
花は、祈りの道具で、私のものではなかった。
でも今、これは。
札も、式次第も、見張りの視線もない。
差し出した本人が照れて黙っているだけだ。
「……ありがとう、ございます」
そう言うと、レオンは眉だけをわずかに動かした。
たぶん「どういたしまして」も言えない。
それがレオンの“礼”なのだと、最近分かってきた。
庭の前の道から、軽い咳払いが聞こえた。
振り向くと、籠を腕にかけたおじさんが、にやにやしながら立っている。
畑帰りだろう。頬が日に焼けていて、笑うと目が線になる。
「おやおや。珍しいもんだねえ。レオンが花なんて」
レオンの肩が、ほんの少し上がった。
本人は動かないつもりでも、体が先に反応してしまう。
「……通り道に、あった」
レオンが言い訳みたいに言う。
その声が小さくて、余計に怪しい。
おじさんは籠を揺らしながら、私の手元の花束を覗き込んだ。
「通り道に“束”で咲いてたんかい。器用な道だな。なあ、凛ちゃん。騎士様から花の献上だぞ」
「け、献上じゃ……」
言いかけて、口の中で言葉が詰まった。
神殿の言葉が、反射で出そうになる。
でもここでそれを言ったら、また遠くへ戻ってしまう気がした。
レオンはさらに視線を逸らす。
耳の先が、わずかに赤い。たぶん。
たぶん、そう見えた。
「いやあ、いいねえ。若いってのは。俺ぁ花なんてもらったの、三十年前だ」
「……知らん」
「知らんで済むかい。お前、凛ちゃん泣かせたら村中が敵だぞ。畑の鍬が飛ぶぞ」
「……泣かせない」
それは、反射じゃなくて、即答だった。
レオンの声が少しだけ強くなる。
おじさんは、わざとらしく肩をすくめた。
「はいはい。じゃあ、笑わせろ。泣かせるな、笑わせろ。そっちの方が難しいぞ」
レオンが固まった。
石像みたいに。
それがまた、おかしい。
「……っ」
喉の奥が、くすぐったくなった。
胸の中で何かがほどけて、息が変なところへ抜ける。
ふふ、と、声が出た。
止めようとしても、止まらない。
口元が勝手に上がってしまう。
「え……」
私は慌てて手で口を覆った。
今、私、笑った?
大神殿では、笑い声を出した記憶がない。
微笑むことはあった。形だけ、祈りのために。
でも、今みたいに、腹の底が軽くなる笑い方は、知らない。
怖い。
嬉しい。
どちらも、同じ熱で胸に広がっていく。
おじさんが目を見開いて、それから、にやりと笑った。
「ほら見ろ。もう笑った」
レオンは、私の方を見た。
やっと目が合った。
瞳が少しだけ揺れている。驚いているのが分かる。
私は笑いながら、でも涙が出そうで、花束を胸に押し当てた。
土の匂いがする。
生きている匂いがする。
「ごめん、なさい……その、笑うつもりじゃ……」
言い訳している自分がおかしくて、また小さく笑ってしまう。
レオンは、何か言おうとして、口を開けて、閉じた。
それから、いつものように一拍遅れて、短く言った。
「……いい」
その言い方が、まるで許可みたいで。
私はまた、胸の奥が熱くなる。
おじさんは満足そうに頷き、道の先へ歩き出した。
去り際に、振り向きざま、からかいをもう一つ投げてくる。
「レオン、次は根っこを抜くなよ。花は土の上で咲くもんだ」
「……」
レオンは答えない。
答えないけれど、花束の中に混じった根っこを、ちら、と見てしまっている。
私がそれを見つけて、また笑う。
庭に、笑い声が落ちた。
自分の声なのに、知らない音だ。
風に混じって、どこかへ消えそうで、私は慌てて息を吸った。
笑いを、胸の中にしまうみたいに。
「……どこで、摘んだんですか」
花束を持ち直しながら聞くと、レオンは少し考える。
考えている時間が長いほど、彼は嘘をついていない。
「……川」
「川の……どの辺り?」
「……石の、多いとこ」
地図みたいな説明で、私はまた笑ってしまった。
レオンの視線が私の口元へ行って、すぐに逸れる。
それがまた、おかしい。
私は花束の中から、白い小さな花を一本抜いた。
花びらが少し欠けている。たぶん、彼の手袋の力に負けた。
「これ、かわいいですね」
「……そうか」
「名前、知ってます?」
レオンは首を横に振る。
その振り方が、剣を避けるときみたいに速い。
「神殿では、花の名前を覚える必要なんてなかった」
ぽろりと本音が落ちた。
私は慌てて口を閉じる。
また“大神殿の凛”に戻りそうになる。
でもレオンは、何も言わなかった。
ただ、花束に視線を落としたまま、低く言う。
「……必要ないなら、覚えなくていい」
優しいのに、ぶっきらぼうだ。
その矛盾が、胸を温める。
「でも、今は……知りたいです」
言い切ると、レオンのまつ毛がわずかに動いた。
意外そうな顔。
私は自分でも意外だった。
“知りたい”なんて、神殿では言えなかった。
花束の中の紫の花に触れて、私は首をかしげる。
「ええと……これは……たぶん……」
名前が出てこない。
私が知っているのは、飾られる花の名前じゃない。
薬草の効能と、祈祷に使う植物の分類だけだ。
花を“花”として見たことが、あまりない。
「……分からない」
自分で言って、少し恥ずかしくなる。
「……いい」
レオンが即答した。
さっきから彼の「……いい」は、私の胸に鍵をひとつずつ外していく。
私は立ち上がって、井戸の方へ歩いた。
花を水に入れないと、すぐにしおれてしまう。
エルザさんの家には、ガラスの瓶がいくつかあったはずだ。
「……待て」
背後から、短い声。
振り向くと、レオンが私の腕を掴みかけて、途中で止まっていた。
触れる寸前の距離で、手が宙に浮いている。
「……水、運ぶ」
そう言って、彼は私から目を逸らす。
自分の言葉に照れているのが分かる。
「え、でも……」
「……重い」
それは私が、という意味じゃない。
井戸の桶が、という意味だ。
そう分かっているのに、頬が熱くなる。
私は瓶を探して、台所の隅から空き瓶を一つ借りた。
戻ると、レオンが桶に水を汲んでいた。
腕の筋がきれいに浮いている。
その動きが、神殿の儀式よりよほど無駄がなくて、見とれそうになる。
「はい」
水を瓶に移すと、レオンはすぐに視線を外した。
人に見られるのが、得意じゃないのだ。
騎士なのに。
私は花束の茎を揃えて、瓶に入れた。
根っこが一本、どうしても邪魔をする。
「……これ、抜いた方がいいですね」
言った瞬間、道の向こうから声が飛んできた。
さっきのおじさんだ。
距離があるのに、よく通る声。
「おーい! レオン! 根っこは置いてこいって言ったろ!」
私は吹き出した。
レオンは固まった。
さっきと同じ石像の顔で、耳の先だけが赤い。
「……うるさい」
聞こえるか聞こえないかの声で言ってから、彼は私の方をちらりと見た。
“笑うな”ではない。
“笑ってるのか”という確認みたいな目。
私は笑いながら、花瓶を胸に抱えた。
水の中で、花がゆっくりと広がる。
不器用に折れた茎も、少しだけまっすぐになっていく。
「……きれいです」
花に言ったのか、レオンに言ったのか、自分でも分からない。
でも、レオンの肩がほんの少し下がった。
緊張がほどける音が、目に見えるみたいに。
私はまた、笑い声が出そうになるのを堪えきれず、息を吐いた。
この音を、もう隠したくない。
消えないでほしい。
レオンが、視線をまた外しながら言う。
照れたときの癖。黙る前の、最後の一言。
「……笑うのも、いいだろ」
——次話「使者の来訪」――次の一手が、運命を動かす。
拙い文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。
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