表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「もう頑張らなくていい」と言われた聖女は、初めて自分のために泣きました  作者: 歩人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/39

第5話: 神殿崩壊の序曲

 ——朝、大神殿から聖女が消えた。



扉を開けた瞬間、空気が軽すぎると感じた。


聖女の部屋は、いつも甘い香と薬草の匂いが混じり、窓は二重に閉じられ、祈りのための静けさが張り詰めている。

それが神殿の秩序であり、私が作った“正しい形”でございました。


なのに今朝の空気は、ただの空気だった。


寝台の上に、人影がない。

枕は整い、シーツは乱れていない。人が起き上がった気配すら薄い。


私は一歩、部屋に入る。

足音が、やけに大きく響いた。


「……」


喉の奥で、言葉が固まった。

名を呼ぶ必要はない。あれは“聖女”であり、役割であり、神殿と王国の要でございます。

だから――名ではなく、機能として捉えるべきだ。


そう自分に言い聞かせた瞬間、背筋に冷たい汗が浮いた。


聖女がいない。


それは、神殿の中心が空洞になったという意味だ。

祈りの言葉では埋められない空洞だ。


「マティルダ」


廊下へ向けて声を出す。平静な声。いつも通りの音量。いつも通りの抑揚。

私が乱れれば、下はもっと乱れる。


すぐに、硬い足音が近づき、侍女長が姿を現した。

背筋の伸びた女でございます。管理が生きがいで、管理こそが信仰に近い。


「大神官様。朝の支度は――」


彼女の視線が寝台へ滑り、そこで止まった。

瞬きが一度、二度。喉が鳴る。


「……聖女様が……いない」


その言葉は祈りではなく、報告だった。

管理対象が消えた、と告げる声。


「昨夜の見張りは」


「交代は規定通りに。鍵は――鍵は、私が管理しております。窓も、封印も……」


封印。

私は部屋の隅、祈祷具が置かれた台へ視線をやった。

護符は破れていない。燭台は燃え尽きているだけ。異物の痕跡もない。


理屈が合わない。

しかし現実は、ここにある。


「……神殿内の捜索を。まずは外部への連絡を遮断しなさい」


命令を口にした瞬間、胸の奥が焼ける。

外部へ漏れれば終わりだ。

貴族の“治癒依頼”が止まる。王都の衛生が崩れる。民心が揺れる。王太子殿下の権威が――


「すぐに」


私は言葉を重ねる。落ち着け。今は“指示”だ。


マティルダが頷きかけて、ふと唇を噛んだ。


「……あの娘は、どこへ」


呼び方が、自然にそうなっていることに、彼女自身も気づかなかっただろう。

聖女を“聖女様”と呼ぶのは儀礼だ。だが本心では、あれは人ではなく、管理すべき資産でしかない。


――結局、誰も名など必要としていない。


私も。


胸の奥が、嫌な音を立てた。


「祈りの間へ。治癒が始まる時刻でございます」


それだけ言い、私は踵を返した。

その瞬間に、遠くから聞こえた。


叫び声。

怒号。

泣き声。


神殿が、朝から鳴いている。




祈りの間の扉を開けると、臭気が押し寄せた。


血の匂い、膿の匂い、汗の匂い。消毒の薬草は、とうに負けている。

担架が壁沿いに並び、床に座り込む者がいて、柱にもたれて呻く者がいて、母親の腕の中で熱に浮かされる子どもがいる。


本来なら、聖女の光が一度流れれば、ここは“奇跡の場”になるはずだった。

傷は塞がり、熱は引き、呻きは感謝の祈りへ変わる。


――本来なら。


神官たちが、祭壇の前で祈っている。

汗を流し、声を枯らし、手を震わせて。


しかし、光は生まれない。

暖かな翡翠色も、眩い白も、どれも。

聖水の器はただの水で、聖布はただの布。祈りはただの音。


「なぜだ……!」


若い神官が叫んだ。祭壇を叩き、指を痛めても気づかない。


「いつもは……いつもは、聖女様が……!」


患者の一人が吐き捨てるように言った。

恨みだ。誰に向けた恨みか。神か。神官か。あるいは――消えた聖女か。


私は、祭壇へ向かう足を止めない。

平静に歩き、平静に壇上へ上がる。上に立つ者は、嵐の中でも揺れてはならない。


「静粛に」


低い声で言う。

一瞬、空気が止まる。


止まるだけで、すぐにまた崩れる。


「大神官様! 治癒が――治癒が出ません!」


「病棟が溢れます! もう、廊下にも寝かせられません!」


「貴族方の使者が外で――『今すぐ奇跡を』と……!」


言葉が刺さる。

奇跡が商品になっている世界で、供給が止まった。

神殿が売ってきたのは信仰だけではない。治癒という確実な成果だ。


成果のない神殿は、ただの石の箱でございます。


患者の呻きが大きくなる。

そのうちの一人が、床に這い、私の靴先へ縋りついた。


「大神官様……! 助けて……! 息子が……!」


本気の目だった。

祈りではなく、必死の目。人間の目。


私は、その手を見下ろした。

爪の間に血。手首の腫れ。熱の匂い。

この者を救う光は――ここにはない。


救えない現実を、私は表情に出さない。


「治癒は必ず再開いたします」


慰めではない。宣言だ。約束だ。脅迫だ。

再開しなければ、私は終わる。神殿が終わる。王国が終わる。


床の男が、涙で顔を濡らしながら笑いかけようとした。

――信じた。信じさせてしまった。


その時、廊下側で更に大きな騒ぎが起こった。


「誰か! ここで倒れた!」


「熱が……呼吸が止まりそうだ!」


「聖女様はどこだ!」


誰かが叫ぶ。誰も答えられない。

答えは一つだ。いない。


その言葉を、誰も言わない。

言った瞬間に、世界が割れるからだ。


マティルダが、青い顔で駆け込んできた。

髪は乱れ、手袋を片方なくしていた。規律の女が、規律を失っている。


「大神官様……神殿内、全棟……おりません。侍女も、護衛も、誰も……」


消えた、という報告だった。

管理の網の目から、抜け落ちた。


私は、笑いそうになった。

あれだけ縛り、あれだけ教え、あれだけ囲い込んで――結局、逃げる穴は一つで足りた。


ざまぁ、という言葉が喉の奥に浮かぶ。

だがそれは私の言葉ではない。今、ここで漏らすべき言葉ではない。


「門を閉じなさい」


私は冷静に命じる。


「王都の各門。通行証の再確認。馬車の検問を強化。巡回騎士に伝令を。今すぐ」


マティルダが目を見開く。

彼女は気づいたのだ。聖女の不在が、神殿の問題ではなく、都市の問題になることに。


「……追手を?」


「当然でございます」


私は息を吸う。香の匂いが薄い。ここはもう奇跡の場ではない。

それでも私は大神官として、言わなければならない。


「すぐに連れ戻せ!」


名を呼ばずに、そう言った。

呼べないのではない。呼ぶ必要がないのだ。

必要なのは、機能の回収。


「聖女を」


その一言が、神官たちの背中に火を入れた。

火は、信仰ではなく恐怖から生まれている。


誰かが走り出す。

誰かが泣き出す。

誰かが患者を押しのける。


神殿は崩れていく。

私が築いた秩序が、私の足元から崩れていく。


――あの娘の不在ひとつで。




追手の手配を終えた頃には、神殿の空は昼の色に変わっていた。

しかし中の空気は夜のように重い。


神殿の外にまで、患者の列が伸び始めている。

治癒を求める者は増える一方で、治癒は供給されない。

均衡が崩れた社会は、腐敗のように早い。


私は私室へ戻り、机の上の報告書を一瞥した。

数字の列。病棟の収容数。薬草の在庫。貴族からの要請。


どれも、聖女がいることを前提に組まれている。

前提が崩れた瞬間に、紙の城は崩壊する。


マティルダが扉の前で立ち尽くしていた。

彼女は今も、あの部屋が空であることを受け入れられていない顔だ。


「侍女長」


私が呼ぶと、彼女は反射的に背筋を伸ばした。

秩序を失ってなお、反射は残る。


「申し訳ございません。私の管理が……」


謝罪は、責任の所在を作るための儀式でございます。

責任を作れば、処罰で終わらせられる。

終わらせてはいけない。今は、回収だ。


「責任の話ではありません」


私は冷たく言う。


「王太子殿下へ報告します。あなたは神殿内をまとめなさい。患者を減らすのではなく、暴動を防ぐのです」


マティルダが唇を震わせた。


「……殿下に知られれば、あの娘は……」


最後まで、名は出ない。

彼女の中でも、名は“不要”なのだ。


「殿下は理解されます」


理解――損失を理解する、の意味で。


私は外套を羽織り、王城へ向かう準備をした。

神殿の権威だけでは、この混乱は抑えきれない。

政治の力が必要だ。


そして政治は、常に代償を求める。




王城の執務室は静かだった。

静かすぎるほど整えられている。音が吸われ、匂いが消され、感情が存在しない空間。


王太子セドリック・レイ・ガルディアは、机の向こうで書類に目を通していた。

私が入っても顔を上げない。


「大神官。報告は簡潔に」


声は穏やかで、冷たい。

怒りでもなく、驚きでもない。既に計算が始まっている声。


私は一礼する。


「聖女が、大神殿から消えました」


言い切った瞬間、胸の奥が痛んだ。

その痛みもまた、個人のものではない。制度が軋む音でございます。


セドリックは、ペンを置いた。

ようやく目を上げ、私を見る。

瞳の奥は澄んでいる。澄みすぎて、何も映さない。


「治癒は」


「停止しております。神官の祈りでは代替できません」


「……当然だ。神殿は“あれ”の出力に依存して最適化してきた」


“あれ”。

呼び方が、最後までそうだった。

国の宝でありながら、人として扱われない。

私も同じ。セドリックも同じ。神殿も同じ。


「追手は?」


「すでに放っております。王都の門も封鎖を――」


セドリックは指を軽く鳴らした。

侍従が無言で近づき、別の書類を置いて去る。


「門の封鎖は許可する。ただし噂の制御が先だ」


彼は書類に視線を落としたまま言う。


「『聖女が消えた』は民に毒だ。暴動が起きる。疫病が広がる。貴族が騒ぐ。隣国が嗅ぎつける」


淡々と、因果関係が並べられる。

人の命ではなく、盤面の崩れを数える声。


「……では、どう発表を」


セドリックは、ほんの少しだけ口角を上げた。

笑みの形だが、温度がない。


「国の宝が消えた」


その一言で、空気が決まる。

人ではない。宝だ。損失だ。回収対象だ。


「発表は『聖女は神託により静養と巡礼に出た』。治癒の停滞は『大規模祈祷の準備』だ」


嘘が、まるで行政手続きのように整えられていく。


「回収できなかった場合は?」


私が問うと、セドリックは一瞬も迷わない。


「その場合は、代替を用意する。神殿は“次”を育てていなかったのか?」


責める口調ではない。

純粋な確認。冷徹な照合。


私は喉が乾くのを感じた。

育てていない。育てる必要がないと思っていた。

一輪の花を使い潰し、次の花を探すだけでよいと。


「……現状、即時の代替は困難でございます」


「なら取り戻すしかない」


セドリックは結論だけを落とす。

そして、ようやくペンを置いた。


「護衛騎士の出自は把握しているか」


「……騎士団の登録では、流浪の剣士に拾われた孤児、とだけ。出身地の記載はございません」


「記録すらない男に、聖女を預けていたわけだ」


刺だった。返す言葉がない。

確かに、レオン・アッシュフォードの経歴は騎士団入団以降しかなかった。出自も家名も持たぬ男——それゆえに忠実だと、私は判断していた。

その判断ごと、裏切られた。


「足取りを追え。騎士団時代の交友、任務の記録、立ち寄った土地——すべてだ」


セドリックの声が、再び事務に戻る。


「大神官。君の仕事は信仰ではない。供給だ。治癒という供給を、止めるな」


供給。

その言葉が、私の胸に針のように刺さった。


「はい」


返事は、敬虔でも忠誠でもない。

ただの制度の歯車としての返答だった。


私は再び一礼し、執務室を出る。

背中に、王太子の視線はもうない。


廊下に出ると、城の窓から冬の光が差していた。

その光は冷たく、どこまでも公平で、誰も救わない。


神殿に戻れば、患者が溢れている。

祈りの言葉が尽き、秩序が尽き、神官たちの顔色が尽きる。


そして私は――名を呼ばれない聖女を、名を呼ばずに連れ戻そうとしている。


それが、この国の“正しさ”でございました。



 ——次話「名前で呼んで」――次の一手が、運命を動かす。

拙い文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。

☆やブックマークで応援いただけると、とても励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ