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「もう頑張らなくていい」と言われた聖女は、初めて自分のために泣きました  作者: 歩人


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第4話: 何もしなくていい朝

 ——辺境の村リンデンに到着した凛は、エルザの家で朝の光に目を覚ます。



まぶたの裏が、うっすらと橙に染まっていた。


夢かと思った。大神殿だいしんでんのステンドグラス越しに落ちる、あの冷たい朝の光。鐘の音で無理やり引き上げられる、息の浅い目覚め。


でも——違う。


鼻の奥に、甘い匂いが届いた。

小麦が焼ける匂い。焦げる寸前の、香ばしい匂い。あと、薪の煙。石の冷たさじゃない。香の濃さでもない。


私は、知らない天井を見上げた。


板張り。低い梁。壁の隙間を埋める泥の色。窓は小さく、布が掛かっているだけなのに、その向こうから陽の粒がこぼれて、部屋の埃がゆっくり踊っている。


息を吸うと、胸の奥が少し痛んだ。

痛い。でも、昨日までの痛みとは違う。

“我慢しろ”と命じる痛みじゃなくて、“ここにいる”と教える痛みだった。


私は上体を起こそうとして、肩に掛かっていた毛布を握った。

毛布は粗い。指先に引っかかる。なのに温かい。自分の体温がそこに溜まっていた。


——あれ。


静かだ。


大神殿の朝は、静けさにも形があった。見張りの足音。扉の開閉。祈りの声の準備。命令が、まだ始まっていないだけの静けさ。


ここの静けさは、ただ静かだった。

鳥が鳴いて、遠くで誰かが水を汲む音がする。床がきしむ。誰かが台所で器を置く、やわらかい音。


匂いが、近づいてきた。

焼きたてのパンの匂いが、部屋まで流れ込む。


胃が、小さく鳴った。


私は慌てて口元を押さえた。誰もいないのに、恥ずかしい。

神殿では、空腹は「弱さ」だった。弱さは、罪だった。罪は、役に立たない証拠だった。


……まだ、癖が残っている。


私は毛布を抱え込んで、耳を澄ませた。

台所から聞こえるのは、誰かの鼻歌。音程が少し外れているのが、妙に安心する。


「おや。起きたかい?」


扉が、こつ、と軽く叩かれた。

返事をする前に、扉が開いて、朝の光と一緒に人が入ってきた。


白髪をきちんと結って、丸い眼鏡の奥の目が笑っている。

皺は深いのに、笑うたびに柔らかくなる。エプロンには、小麦粉の白い跡。


「寒くないかい? ——ああ、そうだ。あたし、エルザっていうんだよ。あんたの名前、聞いてなかったね」


名前。


口が、勝手に動きかけた。

"リーネです"——神殿で何千回も繰り返した名乗り。聖女リーネ・フォルトゥーナ。称号と家名がくっついた、磨かれた音。


でも、喉の奥から出てきたのは、それじゃなかった。


「……りん


自分の声に、驚いた。


凛。

前の世界の、私の名前。

誰かの役に立つ前の、何者でもなかった頃の名前。

柊木ひいらぎ凛。


なぜ"そっち"が出たのか、分からない。

ただ——この小さな部屋の、パンの匂いの中では、称号のほうが嘘みたいに思えた。


「……すみません、今のは——」


慌てて訂正しようとした。聖女の名前を言わないと。正しい自分を差し出さないと。


エルザさんは、首を傾げもしなかった。


「凛ちゃん、ね。いい名前だ」


それだけだった。

聞き返さない。いぶかしまない。称号を求めない。

ただ、私が差し出した二文字を、そのまま受け取って、柔らかく包んだ。


"凛ちゃん"。

その呼び方が、胸の奥でそっと揺れた。

神殿では、私は「聖女様」か「リーネ様」だった。名前を、こんなふうに丸くして呼ばれたことがない。


「……おはよう、ございます」


言いかけて、言葉の後ろが怖くなった。

続けて出てくるはずの台詞が、もう口の中に準備されている。


大丈夫です。

すぐ起きます。

働けます。


でも、それを言う前に、エルザさんが手をひらりと振った。


「おはよう。まだ早いさね。起きても寝ても、どっちでもいい」


どっちでもいい。

そんな言葉、信じていいのだろうか。


エルザさんは、私の枕元に椅子を置いて座り込んだ。膝の上に布巾を置き、手を拭きながら言う。


「着いたばっかりで疲れてるだろ。昨日は、よく眠ってたよ」


昨日。


リンデン村に着いたのは、日が落ちる寸前だった。

馬車ではなく、レオンさんの馬の背で——私はずっと、揺れに耐えるので精一杯で、村の輪郭を見たのはほんの少しだけ。


そのあとは、断片的にしか覚えていない。

小さな小屋の中で火がはぜる音。冷たい床。レオンさんの低い声と、知らない女の人の——穏やかな声。


「あたしの家に連れてきな。その子、ちゃんと寝かせてやらないと」


温かい手が、私の額に触れた。

それがこの家の最初の記憶だ。


石の回廊の冷たさが、まだ骨の中に残っている。

鐘の音が、耳の奥に残っている。


なのに、ここはパンが焼ける。


「……レオンさんは」


探すように言うと、エルザさんは顎で窓の外を指した。


「外。朝の水汲みを手伝うって言ってね。真面目な子だよ、あの子は」


真面目。

その言葉が、レオンさんに似合う気がして、でも似合わない気もした。

“反逆”の鎧を着ていた人が、村の水汲み。


私は思い出して、毛布の端を握りしめた。

あの腕の強さ。無言の決意。鎧の擦れる音。

そして——「寝ろ」と言った声。


眠っていいと命じられたのは、初めてだった。


「凛ちゃん、起き上がれるかい。無理なら、ここで食べてもいいよ」


食べてもいい。

ここで。

許可じゃない。条件でもない。心配の言い方。


私は、恐る恐る頷いて、ゆっくり足を床に下ろした。

木の床は冷たくない。ひんやりするけれど、それは命を奪う冷たさじゃなくて、朝の冷えの程度だった。


エルザさんが手を貸してくれる。手のひらが温かい。皮膚が少し硬い。働いてきた手。


神殿の侍女たちの手は、いつも綺麗で、冷たかった。

香の匂いがした。指輪が当たる感触がした。


エルザさんの手は、パンの匂いがする。


「ほら、こっちだよ」


小さな台所に連れられると、朝の光が一気に広がった。

窓から差し込む光が、木のテーブルの傷を浮かび上がらせる。鍋から湯気が立って、湯気の向こうでエルザさんの眼鏡が曇る。


焼きたてのパンが、布に包まれていた。

布を開くと、湯気がふわりと立ち上る。


「熱いから気をつけて。あたしのパンは、ちょいと不格好だけどね」


不格好。

でも、その不格好が、たまらなく“家”だった。


スープは、根菜がごろごろ入っている。塩気が優しい。口に入れると、舌より先に喉がほどけた。

パンをちぎると、指先に柔らかい弾力が返ってくる。表面は少し硬くて、噛むと、ほのかに甘い。


私は、夢中で食べそうになって、慌てて手を止めた。

ここでも“正しく”食べないといけない気がした。

急いで、迷惑をかけずに、早く終わらせないと——


「凛ちゃん、ゆっくりでいいよ」


見透かしたみたいに言われて、胸が詰まった。


「……すみません」


すみません、が先に出た。

謝ることでしか、場に居られない癖。


エルザさんは笑って、スープのおかわりをよそってくれた。


「謝ること、何もないさね。食べるのは生きることだよ。生きるのに、許しなんていらない」


生きるのに、許しなんていらない。


その言葉が、私の中の固いものを、少しだけ緩めた。

そう言われた瞬間、涙が出そうになって、私は慌ててパンを口に押し込んだ。

熱い。美味しい。苦しい。


扉が開いて、外の冷気が少しだけ入ってきた。


「婆さん」


短い声。

レオンさんが入ってきた。外套は脱いで、黒い服のまま。髪に朝の光が刺さって、目元の影が薄くなっている。


「……起きてたのか」


私を見る。言葉は短いのに、視線が逃げない。

逃げない視線が、怖いはずなのに——今日は、少しだけ平気だった。


「起きてたさね。凛ちゃんは、ちゃんと眠ったよ。あんたも座りな」


レオンさんの足が、止まった。


"凛ちゃん"——聞き慣れないその音を、黙って受け止めている。

リーネでも、聖女でもない。彼の知らない、私の名前。


視線が、ちらりと私に触れた。

いつもの硬さが少しだけ緩んで、瞳の奥に静かな問いが浮かんでいる。


でも、訊かなかった。

代わりに唇がわずかに動いた。声にはならない。

けれど、口の形が——"りん"、と読めた気がした。


……気のせいかもしれない。


レオンさんはすぐに視線を外して、椅子のほうへ向かう。

耳の先だけが、朝の冷気のせいとは思えないくらい、赤かった。


胸の奥が、とん、と鳴った。

パンの匂いに紛れて、誰にも聞こえないくらいの音で。


「水は汲んできた」


「そりゃ結構。じゃ、パンも食べな」


エルザさんの言い方は、命令じゃなくて、生活の一部だった。

レオンさんは一瞬だけ眉をひそめたけれど、黙って椅子を引いた。


それだけで、胸の奥が温かくなる。

この人が、ここに居ていい場所にいる。

それは、私にとっても——居ていい場所がある、ということだった。


朝食の時間が、流れていく。


急かす声がない。

次の患者も、次の祈りも、次の命令もない。


なのに私は、何度も耳を澄ましてしまう。

鐘の音が来ないか。

扉が荒々しく開けられないか。

「聖女様」と呼ぶ声が、背後から伸びてこないか。


来ない。


来ないのに、心臓はまだ、命令が来る前の速さで打っている。


スープを飲み込んだあと、私は耐えきれなくなって、小さく聞いた。


「……起きなくて、よかったんですか?」


言った瞬間、喉が冷えた。

“よかった”なんて、私が判断していいはずがない。

私はいつも、誰かの「よし」でしか動けなかったのに。


エルザさんは、パンをちぎる手を止めて、私のほうを見た。

眼鏡の奥の目が、朝日を受けてきらりと光る。


「いいんだよ、今日は何もしなくていいの」


そう言って、にこりと笑った。


「何もしないってのはね、怠けじゃないんだよ。身体と心に、空っぽの場所を作ってやることさね。空っぽがないと、あったかいものも入らない」


空っぽの場所。


神殿では、空っぽは罪だった。

空っぽにする前に埋めろ、と教えられた。

祈りで、奉仕で、治癒で。

空っぽの時間があるなら、誰かを救え、と。


救えなかったら、役立たずだ、と。


私は唇を噛んで、震えそうな声を押し込めた。


「でも……私、何もしないと……」


役に立てない。

捨てられる。

そう言いそうになって、言葉が喉で折れた。


レオンさんが、スープの器を置いた。

音は小さい。でも、私はその音で肩が跳ねた。


「捨てない」


短文。

それだけ。


レオンさんは、相変わらず私を見ないで言う。

でも、その“言い切り”が、私の中の恐怖を少しだけ切り落とした。


エルザさんは、ふん、と鼻を鳴らして、笑った。


「そうさね。捨てるもんか。凛ちゃんは凛ちゃんだよ。聖女だろうが何だろうが、まずは、ここで息をするんだ」


息をする。


私は息を吸った。

パンの匂いが、胸の奥まで入ってくる。

吐くと、肩の力が少しだけ落ちた。


何もしなくていい朝。


その言葉が、怖いのに、眩しい。

眩しすぎて目を細めたら、朝の光が、涙の膜で滲んだ。


私は、泣かないように笑おうとして、うまくいかなかった。


エルザさんは気づかないふりをして、私の前に、まだ温かいパンをそっと置いた。

レオンさんは、黙って自分のパンを半分に割り、何も言わずに私の皿へ寄せた。


「……いいんですか」


聞く声が、子どもみたいに小さかった。


エルザさんが笑った。


「いいよ。今日は何もしなくていい。だから、食べていい」


私は頷いた。

頷けた。


パンをちぎって、口に運ぶ。

噛むたびに、温かさが広がっていく。

喉が、胸が、少しずつほどけていく。


神殿では、朝は始まりの号令だった。

ここでは、朝は——ただ、朝だった。


私は初めて、何もしない朝を過ごしている。

それが怖いのに、信じられないほど、安堵あんどだった。



 ——次話「神殿崩壊の序曲」――次の一手が、運命を動かす。

拙い文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。

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