第39話: 初めて自分のために泣きました
——今日、私は「聖女」じゃなく「凛」として泣く。
鏡の中にいる私は、知らない人みたいだった。
白い布が、胸元から柔らかく広がっている。肩に落ちるレースは、光を透かして、朝の窓辺を少しだけ眩しくした。
神殿の白とは違う。あれは“役目”の白で、これは——誰かのためじゃない白だ。
指先が震えて、髪飾りに触れられない。
鏡の前の椅子に腰かけたまま、私はただ自分を見つめる。
頬を、温かいものが伝った。
「あ……」
声が、薄く割れた。
涙だと理解するより先に、ぽたぽたと落ちる音が耳に届いて、胸の奥がきゅっと縮む。
泣き方なら知っている。
痛い子どもを抱きしめたとき。助けられなかった命を思い出した夜。歴代の聖女の日記を読んだとき。
私は何度も泣いた。泣けた。泣いてきた。
でも、それはいつだって——誰かのための涙だった。
同情。悔しさ。怒り。祈り。義務の余り。
自分の胸の痛みを“正当な理由”に変えられるときだけ、私は涙を許してきた。
だから今、鏡の中の私は、困っている。
涙の理由が、見つからない。
あるのは、ただ——胸がいっぱいになる感覚だけ。
「……綺麗」
誰に言うでもなく、呟いた。
自分に向かって“綺麗”なんて言ったことがなかった。
言ってはいけない気がしていた。そんな言葉は、頑張ったご褒美みたいで。私は、ご褒美をもらうほどのことをしていないと、ずっと思っていたから。
なのに。
白いドレスの裾が、膝の上で小さく揺れるだけで、心臓が跳ねる。
この身体が、もう"使い潰すため"にあるんじゃないんだと、やっと実感してしまう。
ふと、机の上の手帳が目に入った。
あの夜、前世の自分へ書いた手紙。その隅に浮かんだ、細い返事の文字。
——「凛へ」
今なら、その先が分かる気がした。
おめでとう。やっと、自分のために泣けたね——きっと、そう書いてある。
涙が、止まらない。
苦くない。冷たくない。喉の奥に引っかからない。
ただ、熱くて、軽い。
扉が、控えめに二度ノックされた。
次の瞬間、木が軋む音と一緒に、低い足音が部屋に入ってくる。
「……凛」
呼ばれる。
名前を呼ばれるだけで、涙が増えるなんて、ずるい。
背後の鏡越しに、黒い騎士服の影が映った。
いつもの人なのに、今日はいつもより静かに見える。たぶん、私が壊れないようにしているのだ。
レオンは、私の肩越しに鏡を見て、それから直接こちらへ視線を移した。
眉が、ほんの少しだけ動く。
「泣いてるのか?」
私は、笑おうとして、うまくいかなかった。
頬に指を当てる。濡れている。確かに、泣いている。
隠したい、と思わなかった。
「大丈夫です」と言って誤魔化したいとも、思わなかった。
だから、正直に頷いた。
「……うん。嬉しくて」
声にした瞬間、胸の奥の“許可”が外れる音がした気がした。
今までは、どこかに錠前があって、幸せだけは鍵をかけていた。
嬉しいときほど、息を殺していた。
嬉しいことを受け取ったら、次の瞬間に奪われる気がして。
でも、もう——奪われない。
奪わせない。
守られるだけじゃない。私も、守る。私の幸せを。
私は涙で濡れたままの目で、レオンを見上げた。
「初めて、自分のために泣いてます」
言えた。
言ってもいいと思えた。
言った途端に、胸が痛くなるんじゃなくて、胸がほどけていく。
レオンは、目を伏せた。
それから、ゆっくりと私の前に膝をつく。
鎧のときみたいな硬い音じゃない。布が擦れる、穏やかな音。
「……そうか」
それだけ言って、彼は親指で、私の頬をそっと拭った。
触れ方が、不器用なのに優しい。
涙を止めるためじゃなく、涙が“ここにあっていい”と確かめるみたいに。
「綺麗だ」
短い一言だった。
私が鏡に向かって言ったのと同じ言葉が、今度はレオンから返ってくる。
胸が、またいっぱいになって、私はこくりと頷いた。
「……ありがとう」
「礼は、式が終わってから言え」
「いま、言いたいんです」
私がそう言うと、レオンは少しだけ困った顔をして、視線を逸らした。
それがいつものレオンで、泣きながら笑ってしまう。
「……泣き顔も、嫌いじゃない」
「それ、褒めてます?」
「褒めてる」
短く言い切るところまで、いつも通りで。
私は笑って、涙を流して、息をした。
ちゃんと自分のために。
リンデン村の朝は、パンの匂いから始まる。
今日はそこに、花の匂いが混ざっていた。
広場へ続く道に、村の子どもたちが野花を並べている。
白、黄色、薄い桃色。名前の分からない小さな花も、誰かが大切に摘んできたのだろう。
「凛ちゃん、寒くないかい?」
腕を組んでくれる手があった。
エルザさんの手は大きくて、いつだって温かい。
その温かさに触れるたび、私は“聖女様”じゃない自分に戻っていける。
「大丈夫です……じゃなくて」
私の口が、いつもの癖を探しにいくのを、私は途中で止めた。
ちゃんと、今日の言葉を選ぶ。
「……平気です。あったかいので」
エルザさんは、笑った。
その笑い方が、泣きそうな人の笑い方で、私は慌てて彼女の顔を見る。
目尻に、きらりと光るもの。
「エルザさん……」
「だってねぇ」
エルザさんは、私の頬に触れないように気をつけながら、襟元の布を整える。
まるで小さな子に服を着せるみたいに、丁寧に。
「よかったねぇ、凛ちゃん」
その一言で、喉が熱くなった。
“よかったね”なんて、私はずっと誰かに言う側だった。
怪我が治った人に。助かった命に。涙を堪えている子に。
けれど、私自身が言われたことは、ほとんどなかった。
「……はい」
返事が、掠れた。
でも、逃げなかった。
私の口から出た“はい”は、義務の頷きじゃない。
祝福を受け取るための“はい”だ。
鐘の音がした。
村の古い礼拝堂の小さな鐘。誰かが紐を引いたのだろう。
高くはない音なのに、空にまっすぐ伸びていく。
広場に集まった村人たちが、ぱっとこちらを見る。
二百人ほどの小さな村の、ほとんど全員がいる気がした。
畑の人も、羊飼いも、鍛冶屋も、薬草を分けてくれたおばさんも。
誰も“聖女様”とは呼ばない。
「凛ちゃん」「凛」「花嫁さん」——そんな声が、笑いながら飛んでくる。
私の足が、震えた。
怖いからじゃない。
嬉しさが、身体に収まりきらないからだ。
レオンが、広場の奥に立っていた。
黒い騎士服はいつも通りなのに、胸に小さな白い花を挿している。
その不器用な飾り方が、彼らしくて、胸がきゅっとなる。
彼と目が合った瞬間、レオンの肩が少しだけ下がった。
戦うときの彼じゃない。
ここにいるのは、ただの——私の隣にいたい人だ。
式は、驚くほど静かに始まった。
派手な儀式も、豪奢な祈りもない。
村の長老が短く言葉を述べ、聖光神への感謝を唱える。
それから、私たちは向かい合った。
レオンの手が、差し出される。
その手は、剣を握ってきた手で、薬草を掘ってきた手で、私の熱を確かめてきた手で。
——そして今日、指輪をはめる手だ。
私は、そっとその手を取る。
指先が触れ合っただけで、心臓が鳴った。
大丈夫、なんて言わなくても、私はここに立っていられる。
長老が問う。
互いに誓うか、と。
レオンは一度だけ息を吸い、短く答えた。
「誓う」
それだけで、十分だった。
この人の言葉はいつも少ない。でも、少ないぶんだけ逃げない。
次に、私の番が来る。
唇が震えた。けれど、声は出た。
出せた。
「……誓います」
役目に縛られた誓いじゃない。
誰かに“こう言え”と教えられた誓いでもない。
私は、私の言葉で言った。
指輪が、私の指に通る。
冷たい金属が、肌の熱で少しずつ温まっていく。
それが、これからの時間みたいだと思った。
ゆっくりでいい。温めていけばいい。
長老が、最後に告げる。
「祝福を」
その瞬間、村人たちの拍手が一斉に弾けた。
声が上がる。
笑い声が混ざる。
エルザさんが、両手で顔を押さえて、肩を揺らしているのが見える。
私の目にも、また熱いものが溜まった。
けれど、それは朝の“ひとりの涙”とは少し違う。
これは、みんなと分け合う涙だ。
分け合っても減らない、嬉しさの水だ。
レオンが、ほんの少しだけ私に近づいて、低い声で言った。
「……倒れるなよ」
「倒れません」
「無理はするな」
「……うん」
“うん”が自然に出ることが、嬉しい。
昔の私なら、敬語で壁を作って、頷きながら自分を押し殺した。
でもいまの私は、頷いて、頼って、笑える。
式のあとは、広場の長机に料理が並んだ。
焼きたてのパン。煮込み。果実酒。甘い焼き菓子。
誰かが弾く小さな楽器の音に、子どもたちの足音が重なる。
「花嫁さん、こっちこっち!」
「レオン、顔がこわいよ!」
村人たちに囲まれて、レオンが珍しく居場所に困っている。
その様子に、私は笑ってしまった。
笑うと、胸が痛くならない。
笑ったぶんだけ、身体が軽くなる。
エルザさんが私の隣に座り、器を押しつけてくる。
「食べなさい。今日くらい、いっぱい食べていいんだよ」
「今日くらい、じゃなくて……これからも、ですね」
私が言うと、エルザさんは目を丸くして、それからまた泣いた。
「そうだねぇ……そうだよ」
“これからも”。
その言葉が、こんなに自然に出てくる日が来るなんて。
私はふと、自分の手を見る。
昔の私の手は、治すためだけにあった。
光を灯し、命を削り、笑顔を作り、倒れるまで動いて——それでも“足りない”と言われる手だった。
でも今の私の手は。
パンをちぎって、湯気を受け止めて。
子どもの頭を撫でて。
薬草を束ねて、弟子に教えて。
そして、隣の人の手を握る。
それだけで、ちゃんと“生きている”。
夕方、宴の喧騒が少し落ち着いたころ。
私は広場の端へ抜けて、冷たい空気を吸った。
空は淡い紫で、山の輪郭が柔らかい。
足音が近づく。
振り向かなくても分かる。
「ここにいたのか」
「……はい。ちょっとだけ」
レオンが隣に立つ。
肩が触れそうなくらい近いのに、息が苦しくない。
逃げ場を探さなくてもいい距離。
私は、空を見上げた。
胸の奥に残っていた最後の硬さが、夜風みたいに抜けていく。
「レオン」
「……なんだ」
私は彼の方を向いて、ちゃんと目を見た。
泣く理由を探さなくてもいい。
頑張った証明を並べなくてもいい。
ただ、言いたいから言う。
「幸せです。本当に」
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
この物語は「誰かのために頑張りすぎてしまう人が、自分のために生きることを許せる
ようになるまで」を書きたくて始めました。
凛が神殿を出て、リンデン村で少しずつ「大丈夫じゃなくていい」と思えるようになっ
ていく過程は、書いている私自身にとっても大切な時間でした。
不器用なレオン、温かいエルザさん、村の人々——彼らと一緒に凛の隣を歩けたこと、そ
してその旅路に最後まで付き合ってくださった読者の皆さまに、心から感謝いたします
。
拙い文章ではありましたが、どこか一行でも、あなたの胸に残るものがあれば嬉しいで
す。
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