第38話: あなたがいるだけで
——辺境での静かな日常。
目覚めて、胸が痛くない。
それだけで、朝はもう祝福みたいだった。
隣から聞こえる寝息が、静かに私を現実へ繋いでくれる。
カーテンの隙間から、薄い光が差していた。
冬ほど尖っていない朝。春へ向かう途中の匂いがする。
薪の残り香と、干した薬草の甘い苦味。
私は音を立てないように上半身を起こして、足を床へ下ろした。
毛織りの靴下が、少し毛羽立っている。
こういう小さな粗さが、なぜか嬉しい。
「……起きた?」
背後から低い声。
まだ眠りの底にあるみたいに、言葉が短く丸い。
「はい。……起こしましたか?」
「起きてた」
レオンは上体を起こし、髪を指で掻いてから、私を見た。
濃い灰青の目が、朝の薄明かりでもはっきりしている。
その目が柔らかいときがあると知ってしまったのは、私の弱点だ。
「お湯、先に沸かしますね」
「俺がやる」
「……じゃあ、私は窓を開けます」
役割を押しつけ合うのではなく、譲り合って決まる朝。
神殿では、いつも「今日は何人治すの?」から始まった。
ここでは、「お湯」と「窓」だ。
診療所の戸を開けると、木の匂いがした。
レオンが作ってくれた看板は、風に揺れて軽く鳴る。
“診療所 凛”——墨の黒が、まだ新しい。
私はまず、入口に置いた桶の水を入れ替えた。
手洗い用の水。布。灰の小皿。
誰かの病は、目に見えないところから運ばれる。
だから私は、見える形にしておく。
薬草棚の扉を開けて、乾燥した葉の束を一本ずつ確かめる。
苦いセージ。甘いカモミール。鼻の奥を冷やすミント。
それぞれが、今日来る誰かの不安を少しだけ軽くする。
朝一番の患者は、いつも同じだ。
老いた手が、布に包んだ足を差し出す。
「凛ちゃん、これ、また……」
「見せてくださいね」
靴擦れ。
畑を歩く足は強いけれど、皮膚は正直だ。
温い湯で洗い、乾かし、薬草の軟膏を薄く塗る。
「痛みは、どれくらいですか?」
「朝が一番……」
「じゃあ、今日はこの布を変えて。家に戻ったら、少しだけ休んでください」
“休む”という言葉を、私はここで練習した。
患者に言うたび、自分にも言っている気がする。
診療所の端で、レオンが黙って椅子を直している。
背中だけがそこにある。
見張りのためじゃない。隣にいるための背中だ。
「レオン、ありがとう」
——いつからか、「さん」を落としていた。意識して変えたんじゃない。ただ、もう距離を測る言葉が要らなくなっただけだ。
「……何が」
「そこにいること」
レオンは一瞬だけ手を止め、視線を逸らしたまま頷いた。
それだけで、胸の奥がふっと温かくなる。
診療の合間に、机の端に封をした手紙が目に入った。
国境の向こうへの返信。「聖女を貸してほしい」——あの手紙への答え。
聖女はもういない。代わりに、手の洗い方と、記録のつけ方を知っている弟子を送ります。
そう書いた自分の字を見て、ふっと息が抜けた。
もう「私が行かなきゃ」と思わなくていい。それが、いちばんの変化だ。
昼前に、薬草畑へ出た。
土は昨日の雨をまだ少し含んでいて、踏むと柔らかい。
畝の端に並べた石が、日を浴びてぬるくなっていた。
私が屈むと、背後で同じように影が沈む。
レオンは何も言わず、私の籠に手を伸ばして、重いほうを持っていく。
「半分こ、しましょう」
「……今、あんたの半分でも重い」
「そんなことありません」
「ある」
短い押し問答。
私は笑ってしまって、負けを認める代わりに、籠の取っ手に指を残した。
二人で持てば、重さはただの現象になる。
苦しさじゃなくて、手触りになる。
葉の裏に小さな虫が隠れていないか見る。
蕾が固いものは残し、開ききった花は摘む。
乾かすための束を作りながら、私は気づく。
私の手は、まだ荒れている。
でも、その荒れはもう、命を削った跡だけじゃない。
土と水と、誰かの暮らしに触れた跡だ。
ふいに、遠くから高い声が飛んできた。
「りーん! あそぼ!」
声の主は、村の子どもたちだ。
畑の向こうで手を振っている。
まだ背が低くて、風に揺れる草に隠れたり、出たりする。
「今日は……仕事が終わったら」
私が言いかけたところで、レオンが小さく咳払いした。
咳払いなのに、すごく不器用に優しい。
「終わってるだろ」
「え?」
「今の分」
私は畑を見た。
確かに、今日の“最低限”はもう足りている。
足りているのに、私はいつも、余分に積み上げたくなる。
レオンは畑の端に立ち、子どもたちへ顎をしゃくって見せた。
それは「行け」という合図だった。
「……行ってきます」
「俺も行く」
広場の土は乾いていて、走ると小さな埃が舞う。
子どもたちは木の枝を剣にして、騎士ごっこを始めた。
「レオンみたいに、こう!」
「違う! レオンは、もっと……こう!」
本人がいるのに、勝手に型を作られていく。
レオンは困った顔をしない。
困った顔ができない。
その代わり、眉がほんの少しだけ動く。
私は薬草を入れるための小袋を持ったまま、子どもたちの輪の外に立った。
輪の中へ入るのが、まだ少し怖い。
前世でも、仕事の輪の外に立つと、置き去りにされる気がしたから。
でも、ここでは——
「凛も!」
小さな手が、私の袖を掴んだ。
引っ張る力は弱いのに、断れない力がある。
それは義務じゃない。誘いだ。
「……私、剣は苦手ですよ」
「じゃあ、まほう!」
「魔法……」
子どもたちの“魔法”は、光じゃなくて、石ころと草花だ。
私はポケットからミントの葉を一枚取り出して、指先でくるりと回した。
香りが立つ。
「はい、勇気が出る魔法です」
「すげー!」
「俺にも!」
次々と手が伸びてくる。
私は笑って、一枚ずつ配った。
ミントは万能じゃない。けれど、香りで深呼吸はできる。
深呼吸ができれば、泣きそうな気持ちが一歩だけ遠ざかる。
レオンは子どもたちの相手をしながら、私のほうを見ていた。
その視線は、監視の目じゃない。
私が楽しめているか確かめる目だ。
「……凛」
呼ばれて、胸が跳ねた。
名前が短くなるだけで、距離が変わる。
「はい」
「笑ってる」
「……見てました?」
「見てた」
短い会話。
それだけで私は、輪の中へ一歩入れた気がした。
夕方、家へ戻ると、裏庭で薪割りの音がしていた。
乾いた木が割れる音は、驚くほど気持ちいい。
それは破壊じゃなく、暮らしを支える音だ。
レオンの腕が振り下ろされるたび、筋がしなり、刃が木に吸い込まれる。
強いのに、乱暴じゃない。
必要なだけで止まる手だ。
「危ないので、離れてください」
「はいはい」
そう言いながら私は、わざと少し遠い場所で鍋を洗う。
水に指を浸すと、昼の土が落ちていく。
その落ちていく感覚が、今日の終わりを教えてくれる。
台所では、刻んだ根菜の匂いが立った。
玉ねぎに似た甘い香り。干し肉の塩気。
薬草棚からローリエを一枚。スープに落とす。
「味、どうだ」
薪割りを終えたレオンが、手を洗いながら聞いた。
桶の水に指を入れて、爪の間まで丁寧に。
最初は照れくさそうだったのに、今は当たり前みたいにやる。
「……おいしいです。ちゃんと、家の味がします」
「家の味?」
「はい。誰かのためじゃなくて、今日の私たちのための味」
レオンは言葉を探すみたいに、少しだけ目を伏せた。
それから、ぽつりと。
「それでいい」
その四文字が、私の背中の力を抜いた。
誰かに許されたからじゃない。
ただ、ここでは、それが自然だから。
食事のあと、皿を洗って、布巾を干して。
火を落とした部屋は、少しだけ暗くて、あたたかい。
窓の外に、夕日が残っているのが見えた。
「外、出ますか?」
「行く」
二人で、家の裏の小さな丘へ登る。
草が足首をくすぐる。
遠くで、牛の鈴が鳴った。
夕日は、思ったよりゆっくり沈む。
王都の塔の影のように急かすものが、ここにはない。
ただ光が、山の稜線に沿って静かに薄くなる。
レオンが隣に立つ。
肩が触れない距離。触れないのに、離れない距離。
私は、言葉を選ばずに口を開いた。
今日のことを、評価するみたいに。
でも、点数をつけるためじゃなくて、確かめるために。
「特別なことは何もない」
言った瞬間、胸の奥が少しだけ怖くなった。
特別じゃないなら、いつでも奪われる気がして。
前世の私は、特別な役割の上でしか生きられなかったから。
レオンは、夕日を見たまま言う。
いつもの短さで。けれど、その短さに、揺るがない重みがある。
「何もないなら、守りやすい」
私は息を止めて、それから笑ってしまった。
守る対象が、偉大な使命じゃなくて。
お湯と窓と、手洗いの桶と、畑の土と。
子どもたちの笑い声と、薪が割れる音と。
それだけでいいと言われたみたいで。
私は夕日へ向けて、ゆっくり言う。
今度は怖くならないように、手のひらで温度を確かめるみたいに。
「でも、これが幸せです」
レオンの指が、私の指先に触れた。
握りしめない。引っ張らない。
ただ、そこにいることを伝えるだけの触れ方。
夕日が、山の向こうへ落ちた。
残った光が、雲の縁を薄い金にする。
その金色の中で、レオンが私のほうを見た。
「明日も、起きたら言え」
「何をですか?」
「……幸せだって」
胸の奥が熱くなって、私は頷いた。
頷きながら、なぜか喉がきゅっと締まる。
明日。
きっと私は、別の涙を知る。
悲しみでも、義務でもない——
嬉しさだけの涙を。
——次話「初めて自分のために泣きました」――次の一手が、運命を動かす。
拙い文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。
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