第37話: 聖女のいらない国
——王都の大広場で新しい医療制度が公に宣言され、国王は『以後、聖女制度は廃止とする』と告げる。
聖女制度が、今日、終わる。
王都の空気は祈りじゃなく、息だった。
誰も、命を差し出さなくていい。
王都中央広場には、白い布で覆われた壇が設けられていた。
神殿の祭壇みたいな眩しさはない。
代わりに、木の匂いと、石の冷たさと、人の体温があった。
壇の背には、新しい掲示板が立つ。
そこには法令だけじゃなく、図と手順が並んでいた。
手洗い、煮沸、隔離。換気。記録。
魔法じゃない。祈りでもない。
誰でも覚えられる、誰でも繰り返せる、誰でも渡せる形。
私は群衆の前列、騎士たちの間に立っていた。
隣にはレオンさん。
今日の彼は鎧じゃなく、黒い上着だけだ。
それでも、彼がそこにいるだけで、私は足の裏を地面に感じられる。
鼓の音が鳴った。
人々のざわめきが、ゆっくりと揃っていく。
王が壇へ上がる。
その背後に、王立医療院の医務官長が控え、書類箱を抱えていた。
医務官長の手は震えていない。
昔なら、聖女の光を待つ手だった。
今は、仕組みを回す手だ。
王は民を見渡した。
眼差しが鋭いのに、声は落ち着いている。
「本日より、王国は新しい医療制度を施行する」
言葉が広場の端まで届くように、王は一拍置く。
「治癒は、選ばれた者の犠牲ではない」
「治癒は、学び、分け合い、支え合うことで成り立つ」
その一行が、胸の奥に落ちた。
私は思い出す。神殿の白い天井と、あの冷たい光。
「聖女は器だ」と言われた日々。
器なら、割れたら捨てられる。
そういう当たり前を、今日、壊す。
王が手を上げ、広場の静けさをさらに深くした。
「そして——」
声が硬くなる。
決断の音になる。
「以後、聖女制度は廃止とする」
一瞬、何も聞こえなかった。
風さえ止まったように、広場が白くなる。
次の瞬間。
歓声が割れた。
「うおおお!」
「やっとだ!」
「……聖女様が、死ななくていいんだ!」
叫びは喜びで、喜びは涙で、涙は笑いで。
何年も喉の奥に溜めていた息が、一気に吐き出されるみたいに。
前の方で、老婆が両手で顔を覆った。
肩が震えている。
隣の若い母親が、その背をさすった。
「私の娘が、もし選ばれても……って、ずっと怖かった」
「もう、怖くない」
その言葉は、祈りじゃなかった。
生活の言葉だった。
王は歓声が少し落ち着くまで待った。
そして、続ける。
「聖女を守るための制度ではなかった」
「聖女を使い潰すための制度だった」
「王はそれを、国の恥として終わらせる」
ざわめきが、怒りのうねりに変わる。
けれど怒りは、誰かを生贄にする方向へは向かわない。
もう、戻らない。
医務官長が一歩前へ出て、箱を開いた。
中には、白い札がぎっしり詰まっている。
「各地の診療所登録票です」
「本日より、神殿への寄進の一部は『公衆衛生基金』として転用されます」
「村ごとに衛生係を置き、薬草と器具を配給し、教育を巡回させる」
言い切る声が、制度の骨になる。
骨が立てば、肉がつく。
私の作った予防の手順が、王の言葉で法の形になる。
壇の端に、布で包まれた一冊の本が置かれていた。
『衛生と治療の手引き』。
私と弟子たちが書いた、最初の教科書だ。
王がその本に手を置く。
そして、広場の端——神殿の塔を見上げて言った。
「奇跡は、奪うものではない」
「奇跡は、誰の手にも渡せる仕組みに変える」
私は息を吸った。
胸の奥の硬い塊が、少しだけほどける。
レオンさんが、私の手の甲に指を触れた。
強く握らない。
逃げ道を残したまま、そこにいる。
「……凛」
名前を呼ばれただけで、頷けた。
その日から、王国は目に見えて変わった。
王都の門を出る街道には、新しい看板が立った。
旅人は宿に入る前に手を洗う。
井戸のそばには煮沸用の釜が置かれ、木札にこう書かれている。
『飲む水は沸かすこと』。
市場では、薬草売りの隣に石鹸売りが並んだ。
石鹸は贅沢品じゃなく、命を守る道具として扱われる。
村の集会所には、簡単な図解が貼られた。
咳のある者は布で口を覆う。
熱のある者は別室へ。
汚物処理の桶は分ける。
子どもには手洗いの歌を教える。
笑いながら、歌いながら、当たり前が移っていく。
何より大きいのは——
「治す人」が増えたこと。
治癒師たちは、命を削る魔法に頼ることをやめた。
代わりに、手を洗い、布を煮て、傷を洗って、縫って、包帯を巻く。
魔法は“最後の一手”に戻る。
命を削る光は、乱用されない。
そして、弟子たち。
ミオは北の雪原へ行った。
吹雪の村で、肺炎の子を看ながら言ったそうだ。
「光じゃない。まず、温める。水を飲ませる。寝かせる。記録をつける」
その言葉で、村の大人たちは初めて“自分たちができること”を数え始めた。
南の港町には、別の弟子たちが入った。
魚の腐敗と下痢の流行を止めるため、塩蔵と手洗いと、汚水の流れを変える溝を作った。
「祈るより先に、捨て場を決めよう」
——それは、この国の信仰を壊す言葉じゃない。
信じるなら、生きるために信じろ、という言葉だ。
巡回診療隊は馬車で走った。
荷台には薬草と布と石鹸、煮沸用の鍋、簡易な器具。
そして、紙束。
教育用の手引き、記録帳、症例の報告書。
奇跡は、報告書の形をしていた。
リンデン村に戻った私は、診療所の机に向かっていた。
窓の外では、子どもたちが走り回っている。
手が泥だらけのまま、井戸で笑いながら洗っていた。
エルザさんがそれを見て、わざと大げさに言う。
「いいねえ。汚して、洗って、また遊ぶ。これが健康ってもんさ」
私は紙を整えながら、笑いそうになる。
“健康”が、生活の言葉になっている。
机の上には、封蝋のついた手紙が積まれていた。
王立医療院から。各地の診療所から。弟子たちから。
私は一通ずつ開けて、短く目を走らせ、必要な箇所だけを書き留める。
数字、症状、対処、結果。
そして最後に——次の提案。
ミオの手紙には、こうあった。
『雪の村では、石鹸が足りません。灰で代用し、爪の間まで擦るやり方が有効です。教科書に追記を』
私は頷く。
机の端に、新しい版の原稿を置いた。
港町からは、別の報告。
『魚の内臓の処理場を分けたところ、下痢が半分になりました。排水溝の図を添付します』
私は図を見て、思わず唇が緩んだ。
図が回る。
知恵が回る。
それが制度になる。
レオンさんが戸口にもたれて、黙ってこちらを見ていた。
私は視線だけで「大丈夫」と伝える。
もう、嘘の大丈夫じゃない。
仕事が回っている、という意味の大丈夫。
「疲れてませんか?」
レオンさんの低い声。
疑うためじゃなく、支えるための問い。
「疲れてます。でも……いい疲れです」
紙の匂いは、神殿の香と違う。
誰かを縛る匂いじゃない。
誰かを生かす準備の匂いだ。
私はふと、机の引き出しから小さな布包みを取り出した。
中には、古い日記の写し。
歴代聖女たちの言葉。
『大丈夫です』
私はその行を、指でなぞる。
胸が、きゅっと痛む。
「……もう、言わせない」
声は小さい。
けれど、机の上の報告書の山が、その誓いの証拠だ。
エルザさんが湯を持ってきてくれた。
湯気がふわりと上がる。
「王都はすごかったんだろ?」
「ええ。……怖いくらい、皆が笑ってました」
エルザさんは目を細めた。
「怖くていいんだよ。変わるってのは、そういうもんさ」
私は湯を飲んで、喉を温める。
——変わった。
変わってしまった。
私は静かに満足していた。
世界を救う、という大きな言葉じゃない。
ただ、“燃やさなくていい”を、この国の当たり前にできた。
机の上の最後の手紙だけ、封が違った。
赤い蝋。見慣れない紋章。
国境の向こうのものだ。
私はレオンさんを見る。
彼も気づいて、姿勢を少しだけ正した。
封を切る。
紙には、震える字でこう書かれていた。
『聖女を、貸してほしい』
胸の奥で、冷たいものが鳴る。
でも、すぐに消えた。
私はペンを取る。
返事は決まっている。
もう聖女はいらない。
それが、あるべき姿だ。
そして——
その“あるべき姿”は、国境を越える。
——次話「あなたがいるだけで」――二人の距離が、もう一段近づく。
拙い文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。
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