第36話: 私の答え
——凛はレオンに返事をする。
返事は、言葉じゃなくて——覚悟だ。
薬草畑の匂いが、胸の奥をきゅっと締めつける。
それでも私は、ここで待つ。レオンさんの足音を。
夕暮れは薄い金色で、葉の縁が静かに光っている。
畝の間を抜ける風が、乾きかけた草の苦味を運んだ。
私は籠を地面に置き、両手を胸の前で組んだ。
指先が冷たい。土の冷たさじゃない。私の中の緊張だ。
昨日——いや、正確には「返事を待つ」と言われたのは、もっと前の気がする。
けれど、レオンさんの告白はまだ新しい。
耳の奥に残っている。
『俺はあんたを守りたかったんじゃない。あんたの隣にいたかった』
その一行が、私の世界を変えた。
逃げ道を塞いだんじゃない。
扉を、開けてくれた。
返事をするなら、ここがいいと思った。
いつも二人で土を触って、言葉より先に呼吸が揃う場所。
私の「日常」を取り戻してくれた場所。
足音が、畑の外から近づいてくる。
砂利の上で一度、止まって。
次の瞬間、土を踏む音がした。
私は顔を上げる。
夕日の中に、黒い影が一つ。
レオンさんだ。
鎧の縁が橙に光って、横顔はいつも通り硬いのに。
その姿を見るだけで、胸の奥がほどけていく。
——来てくれた。
約束したから、じゃない。
私のために、来てくれた。
喉が、からからになる。
息を吸うだけで、心臓が痛いほど跳ねた。
「……凛」
名前を呼ばれる。
それだけで、返事はもう半分終わってしまいそうだった。
私は一歩、畝の間から出た。
足元の土が柔らかく沈む。
逃げない、って自分に言い聞かせるみたいに、しっかり踏む。
「レオンさん」
彼の視線が私に来る。
濃い色の瞳が、夕暮れの光を飲み込む。
いつもなら怖いはずのその目が、今日は——優しい。
私は唇を開いた。
でも、言葉はすぐには出てこない。
出した瞬間、もう戻れないから。
レオンさんは、急かさない。
ただ、ここにいてくれる。
私が私でいられる距離で、黙って待ってくれる。
その沈黙が、怖くない。
むしろ、嬉しい。
私は、胸の前で組んでいた手をほどいた。
拳にしてしまうと、泣いてしまいそうだったから。
「あの……返事、いいですか」
声が震える。
情けないくらいに。
でも、レオンさんは眉一つ動かさない。
私の震えごと受け止めるみたいに、真っすぐ見てくれる。
言った瞬間、空気が変わった。
薬草の葉が一斉に揺れて、ざわ、と音を立てる。
まるで畑そのものが、息を吸ったみたいに。
レオンさんの喉が、こくりと動く。
短い沈黙のあと、彼は小さく頷いた。
「……ああ」
それだけ。
なのに、胸が熱くなって、目の奥が痛む。
私は、自分の足元を一瞬だけ見た。
二人の影が、土の上に並んでいる。
少しだけ、肩のあたりが触れそうな距離。
——この影の並びを、私はもう当たり前にしてしまった。
当たり前にしたい、と願ってしまった。
顔を上げる。
レオンさんは、逃げない。
逃げられないくらい真剣な顔で、私を待っている。
だから、私は言う。
回り道をしないで。
逃げ道を作らないで。
「あなたの隣がいいです」
声は思ったより、まっすぐ出た。
空に投げた言葉が、落ちていかない。
私の胸の真ん中で、ちゃんと立っている。
レオンさんの目が、大きく見開かれる。
そして、ほんの僅か——息が止まったのが分かった。
私は、もう一度、言い切る。
今度は、私の未来として。
「——ずっと」
たった二文字なのに、体温が全部そこに集まったみたいだった。
怖い。
でも、それ以上に——幸せだ。
レオンさんの肩が、少しだけ落ちた。
鎧の中の胸が、深く息を吐く気配。
張り詰めていた糸が、音を立てずに緩む。
彼は一歩、近づいた。
畝の間の距離が、消える。
私の前に立った彼は、何か言おうとして、言葉を探すみたいに口を開き。
そのまま閉じた。
そして——
彼の口元が、少しだけ上がった。
見間違いじゃない。光のせいでもない。
固い横顔に、初めて「温度」が宿る。
レオンさんが、笑った。
それは派手じゃなくて、静かで。
でも、私の胸の奥を一瞬で満たしてしまうほど、眩しかった。
「……凛」
名前が、柔らかい。
その柔らかさに、私は泣きそうになってしまう。
「はい」
返事をする声が、少しだけ掠れた。
レオンさんの手が、ゆっくり伸びてくる。
剣を取るときみたいに迷いがないのに、触れる直前で、ほんの一度だけ躊躇した。
私の顔色を窺うみたいに。
私は首を振った。
大丈夫、じゃない。
——来て、っていう合図。
彼の指先が、私の手を包む。
手袋越しじゃない、素手の温度。
思っていたより熱くて、思っていたより確かだ。
ぎゅ、と握られる。
痛くない。むしろ、心の奥がほどけていく。
「……いいのか」
低い声が、少しだけ震えていた。
この人も怖かったんだ、と初めて知る。
強い人だからじゃない。
私を大事にしたいから、怖かったんだ。
私は頷いて、指を絡めた。
握り返す。
逃げない、と形にする。
「いいです」
そして、もう一度だけ。
彼に届くように、息を込めて。
「私が、選びました」
レオンさんの喉が鳴る。
次の瞬間、彼は私を引き寄せた。
鎧が少し当たって、硬いはずなのに。
その中にある体温が、私の体温と重なる。
抱きしめられた腕が、怖いくらい丁寧で、優しい。
私は、彼の胸元に額を寄せた。
聞こえる。心臓の音。
速い。私と同じだ。
「……凛」
もう一度、名前。
今度は、確かめるみたいに。
私は顔を上げた。
近すぎて、彼の息が頬に触れる。
目を逸らしたら、もったいない気がした。
「これからも」
私は言う。
いつもの畑を思い浮かべて。
干し棚の匂いも、薬草束の重さも、夕暮れの色も。
「隣で、笑ってもいいですか」
レオンさんは、また僅かに笑った。
今度は、さっきより分かりやすく。
私の胸が、きゅっと甘く痛む。
「笑え」
不器用な言い方。
でも、その言葉の奥に、守りたい未来が詰まっている。
私は、小さく笑った。
涙が一粒だけ、こぼれた。
レオンさんの指が、親指で私の頬を拭う。
触れたところが熱くて、恥ずかしくて。
でも、逃げたくない。
「凛」
呼ばれるたび、胸の奥が柔らかくなる。
私は、もう一度だけ確かめたくて、言葉を選んだ。
「私、怖いんです」
正直に言うと、喉が痛んだ。
弱さを見せたら、嫌われると思っていた癖が、まだ残っている。
「誰かの期待に応えるために生きるのが、ずっと怖かった」
聖女、と呼ばれて、笑えと言われて、役に立てと言われて。
私はそれに慣れたふりをして、いつもどこかで息を止めていた。
「だから……隣にいることまで、役目にしたくない」
震えるのは、さっきよりもはっきり自分で分かった。
好き、という言葉は甘いのに、未来の話は重い。
重いからこそ、逃げずに言いたい。
レオンさんは、私の手を離さない。
指を絡めたまま、ぎゅっともう一度、確かめるように握った。
「役目にしない」
短い断言。
剣の抜き方みたいに迷いがなくて、心がほどける。
「凛が歩けない日は、俺が歩幅を合わせる」
「泣く日は、泣いていい場所を作る」
「笑える日は……一緒に笑う」
一つひとつが、未来の形だった。
明日も、明後日も、その先も。
畑の土の匂いの中で、薬草束を抱えながら。
私は息を吸って、頷く。
怖さが消えるわけじゃない。
でも、怖さごと抱えて、ここにいたい。
「じゃあ……約束してください」
「私が立ち止まっても、あなたが隣にいるって」
「私が迷っても、あなたが手を離さないって」
言い切った瞬間、レオンさんの眉がほんの少しだけ下がった。
それは困った顔じゃない。
大切なものを抱くときの顔だ。
彼は、私の額に自分の額をそっと寄せた。
鎧の冷たさじゃなくて、呼吸の温度が近い。
「ああ。ずっとだ」
——次話「聖女のいらない国」――次の一手が、運命を動かす。
拙い文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。
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