第34話: 大神官の追放
——王都の広場で、ヴェルナーに全権剥奪と追放が言い渡される。
王都への道は、三日かかった。
エルヴィンからの書簡が村に届いたのは、大神官の裁きが決まった翌朝のこと。
「立ち会ってほしい」——その一文で、私は覚悟を決めた。
レオンは何も言わずに馬の準備をした。反対しなかったのは、私がもう「行かなきゃ」ではなく「行きたい」と言ったからだと思う。
その日、大神官は追放される。
祈りの声が止まった瞬間、王都はざわめいた。
ヴェルナーは、誰からも「大神官」と呼ばれなくなった。
広場の石畳は、冬の名残で冷たい。
冷たさが足裏から上がってくるのに、人の熱だけは濃く、息が白く折り重なっていた。
高壇の上には、王の紋章と、神殿の紋章が並べられている。
今日、その並びは終わる。
「王命により宣告する」
巻物を広げたのは、王立記録官エルヴィンだった。
墨の匂いが風に混じる。筆先が、ためらいなく紙を撫でていく。
「ヴェルナー・クラウディウス。お前の官位を剥奪し、神殿における全権を永久に失わせる」
「聖女制度の濫用。寄進の私物化。文書の隠蔽。国と民への背信」
「ゆえに——王都ルミエールより追放。再入都を禁ずる」
宣告が終わった瞬間、どこかで息を吸い込む音がした。
それは歓声の前の息ではない。
長い間、喉に詰まっていたものが、やっと通った音だった。
ヴェルナーは壇の下に立っている。
かつては金糸の大神官服で、誰より高く見えた男だ。
今日は、白い麻布だけ。
刺繍も、聖印の首飾りも無い。
その首元は、寒さより先に、裸に見えた。
「……神は、沈黙なさるのですか」
ヴェルナーが絞り出した声は、いつもの滑らかな祈り口調ではなかった。
喉の奥に砂があるみたいに、掠れている。
私の隣で、レオンが動かなかった。
黒い外套の影だけが、私の肩へ静かに落ちる。
視線はまっすぐ壇を見ているのに、剣の柄へ手を伸ばさない。
守る相手が私だと、身体で言っている。
エルヴィンが合図をする。
近衛が一歩進み、ヴェルナーの胸元へ手を伸ばした。
「触るな!」
叫んだ直後、ヴェルナー自身が気づいたように口を噤む。
ここで「触るな」と言える立場は、もう無い。
聖印の鎖が外される。
金属が鳴った。ちいさく、情けない音。
その音だけで、広場の空気が変わる。
「返せ」
誰かが言った。
「返せよ。あんたが使った分を」
次の言葉は続かない。
続けたら泣いてしまう、と分かっている声だった。
ヴェルナーは首を振った。
必死に、祈りの台詞を探している。
けれど祈りは——もう、彼のためには形にならない。
「私は……秩序を……」
「秩序、ですか」
私の声は、自分でも驚くほど静かだった。
怒鳴りたい衝動はある。憎みたいのも本当だ。
でも私は、もう「聖女様」の役を演じない。
この言葉は、私のために言う。
「あなたが守ったのは、秩序じゃありません」
「私たちの沈黙です」
ヴェルナーの灰色の目が、初めて私を捉えた。
私を「聖女様」ではなく——一人の人間として見た目だった。
遅い。
それでも、その遅さは彼の敗北だ。
群衆の中で、誰かが笑った。
笑いは刃じゃない。熱だ。
熱が伝染して、抑え込まれていたものが一斉にほどける。
「大神官様じゃないんだってさ」
「ただの男だ」
「ただの、嘘つきだ」
ヴェルナーは一歩、よろけた。
支える者はいない。
支えようとした人間ほど、先に背を向けた。
「連行せよ」
エルヴィンの声は淡々としていた。
淡々としているからこそ、慈悲が無い。
裁きは怒りで燃えるより、事務のように進むときがいちばん残酷だ。
ヴェルナーは縄を掛けられ、壇の脇へ引かれていく。
その背中は、かつて私に「神のために」と言った背中より小さかった。
私は目を逸らさない。
終わらせるために、見る。
そして、終わった。
王都の門が見えてくる頃には、ヴェルナーの足取りはもう儀礼の速度ではなかった。
脛に絡む泥で、麻布の裾が重い。
門の外には、また人がいた。
暇つぶしの見物じゃない。
これまで声を奪われてきた人たちの、遅れて届いた列だ。
「聖女様は、何人死んだ」
老いた男が言った。
問いじゃない。数字をぶつける言い方だった。
ヴェルナーは答えない。
答えたら、そこから数え直さなければならないから。
誰かが雪解けの泥を掬って投げた。
頬を叩く、鈍い音。
白い麻布に、茶色い染みが広がる。
「ほら。綺麗じゃなくなった」
子どもの声がした。
残酷さを知らない声。
けれど今日だけは、その無邪気が正しい方向を向いてしまう。
ヴェルナーは唇を震わせた。
祈りの言葉が出ない。
代わりに出たのは、吐息だけ。
「……私は、必要だった」
その独り言に、誰も返事をしない。
必要だったのは、彼の権威じゃない。
救いが、仕組みが、真実が必要だった。
近衛が門の外へ彼を押し出す。
街路樹の影が途切れ、外の風が容赦なく吹いた。
ヴェルナーは振り返った。
王都は、もう彼にとって「帰る場所」ではない。
誰も「お帰りなさい」と言わない。
彼が最後に見たのは、民衆の顔でも、王宮の塔でもない。
掲示板に貼られた写本だった。
百年分の「大丈夫です」が、風に煽られて揺れている。
その紙が、彼の肩書きを剥ぎ取り、道を閉じた。
旧神殿跡は、春を待つ色をしていた。
崩れた柱の間に、雪がまだ少し残っている。
それでも土の下から、細い草の匂いが立ち上っていた。
石工が槌を置く。
作業の音が止まると、空がいきなり広くなる。
「……これで、刻み終わりです」
エルヴィンが、掌の粉を払った。
今日の彼は記録官の服ではなく、簡素な作業着だ。
指の関節が赤い。石の冷たさに、正直な色。
慰霊碑は、祈りのための飾りじゃない。
逃げ場のない事実を、ここに固定するための石だ。
正面には、百年分の名前が並ぶ。
整った文字と、震えた文字と、途中で途切れた刻み。
時代ごとの癖があるのに、どれも同じ重さで沈んでいる。
第十七代聖女。
第十八代聖女。
知らない名ばかりなのに、胸が痛い。
そして——
第二十代聖女リアナ。
レオンが、私の少し後ろで息をした。
それだけで、彼がここに立つ理由が分かる。
守れなかった名が、ここにある。
私の名は、まだ刻まれていない。
けれど私は知っている。
この石に刻まれる未来が、いままで「当然」だったことを。
私は慰霊碑に手を伸ばした。
冷たい。硬い。
でも、逃げない。
逃げなくていい世界にするために、触れる。
「……ごめんなさい」
誰に向けた言葉か分からないまま、口から出た。
ごめんなさい、と言う癖は、私の中にまだ残っている。
でも、今日は違う。
これは謝罪じゃない。
遅れて来た弔いの言葉だ。
風が抜ける。
崩れた礼拝堂の窓枠が、笛みたいに鳴った。
私は息を吸い、石の前で背筋を伸ばす。
誰かに見せる姿勢じゃない。
自分が、自分の言葉を裏切らないための姿勢。
「もう誰も、こんな思いはしません」
声は小さいのに、石の前では不思議と揺れない。
この誓いは、祈りより硬い。
レオンが、何も言わずに頷いた。
その横顔に、救えなかった過去がまだ刺さっている。
でも刺さったままでも、前へ進めると——今は分かる。
私は籠から花を取り出した。
王都の花屋の薔薇じゃない。
道の脇に咲いていた、小さな白い花。
名前は分からない。
それでも、この花は「役目」を背負っていない。
一本ずつ、石の足元へ置く。
数を数えない。
足りないのは分かっているから。
「……これから、増やします」
私は石へ、というより自分へ言った。
救いの方法を。
奪われない仕組みを。
嘘ではない「大丈夫」を。
懐の中で、紙が擦れる。
持ってきた小さな手帳。
空白の頁が、まだたくさんある。
石に刻まれた名前が、私に問いかけている気がした。
「あなたは、何を書き残す?」
私は花を置いた手を引き、手帳に指をかけた。
次は、私が言葉を残す番だ。
——次話「前世の私へ」――隠してきた真実が、扉を開く。
拙い文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。
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