第33話: 素直になれない夜
——レオンの言葉が嬉しいほど、凛は「私なんかでいいのか」という恐怖に沈む。
夜の家は、音が少ない。
でも静かではない。
薪がはぜる小さな音。湯気が鍋の縁を撫でる音。古い木の壁が、ゆっくり息をする音。
私はその全部に、耳を尖らせてしまう。
眠ればいいのに。
目を閉じたら、あの夕暮れがまた目の裏に浮かぶから。
「……隣にいたかった。それだけだ」
声はもう、ここにはない。
それなのに胸の奥だけが、遅れて熱くなる。
嬉しい。確かに、嬉しい。
嬉しいはずなのに——その熱は、痛みに変わる。
私は膝の上で、指を組んだ。
指先が冷たい。爪の根元が白くなる。
呼吸を整えようとして、逆に浅くなる。
返事を、しなきゃ。
そう思うほど、喉が固まった。
あの人の目は、逃げなかった。
怖いほど真っ直ぐで、優しさを言い訳にしない。
だから私も、言い訳で逃げたくなかった。
でも——答えが出ない。
出ない自分が、嫌だ。
嫌なのに、どうしても止まれない。
台所の扉の向こうで、足音がした。
薄いスリッパが板を擦る、ゆっくりした音。
「凛ちゃん。起きてる?」
エルザさんの声は、火のそばみたいにあたたかい。
私は慌てて背筋を伸ばした。
もう遅いのに、叱られるわけじゃないのに。
「……はい。すみません、起こしましたか」
言いながら、自分の声が硬いのが分かる。
笑おうとして、口角だけが引きつった。
扉が少しだけ開いて、灯りが細い線になった。
エルザさんが顔を覗かせる。
白い髪をゆるく結い、肩に毛織りのショールを掛けていた。
「起こされるほど眠れてないよ。ほら、手が冷たい顔してる」
私は何も言えずに、毛布の端を握った。
握る力だけが増えて、指が痛い。
エルザさんは部屋に入って、私の隣に座った。
椅子が軋む。
その音に、胸が小さく跳ねる。
「お茶、淹れてきたの。香り、好きでしょう」
カップから立つ湯気に、乾いた薬草の匂いが混じっている。
いつも畑で嗅ぐ匂いより、丸くて甘い。
喉の奥の固まりが、少しだけほどけた。
「……ありがとうございます」
両手でカップを包むと、掌がじわりとほどける。
あたたかい。
あたたかいのに、私はまだ息が苦しい。
エルザさんは、私の顔をじっと見た。
値踏みじゃない。
作業の出来不出来を測る目でもない。
ただ、私の「今」を見ている目。
「嬉しい顔と、苦しい顔が同居してる。今日は、何があったの」
私は言葉を探した。
探して、すぐに諦めた。
見透かされている。
隠すほど、不器用に見えるだけだ。
「……嬉しいことが、ありました」
喉が鳴って、次の言葉が引っかかる。
私はカップの縁を見つめた。
液面に灯りが揺れて、目が痛くなる。
「でも……返事ができないんです」
言った瞬間、胸の奥がざわついた。
嬉しい、の後に続ける言葉として、あまりに汚い気がした。
嬉しさを汚しているのは、私だ。
エルザさんは眉を寄せない。
「うん」とだけ頷いた。
「なんで?」
責める「なんで」じゃない。
湯気みたいに柔らかいのに、逃げ道を塞ぐ「なんで」。
私は息を吸った。
吸うほど、肺の内側が痛い。
言えば、楽になる。
でも言ったら、きっと戻れない。
「……私なんかで、いいのかって」
声が小さすぎて、自分でも聞き取れないほどだった。
それでもエルザさんは、ちゃんと聞こえたみたいに頷いた。
「そう思っちゃうんだね」
優しく肯定されると、逆に怖い。
否定される準備をしていたから。
私はその準備を外されて、剥き出しのままになった。
「だって……」
言葉が続かない。
指が震えて、カップの縁が微かに鳴った。
私は、役に立つことしかしてこなかった。
役に立たない自分は、邪魔になる。
邪魔になったら、捨てられる。
捨てられる前に、もっと頑張らなきゃ。
その順番が、身体の奥に焼き付いている。
前の世界でも、そうだった。
白い光の天井。止まらない時計の針。
指先のささくれに染みる消毒液。
「お疲れ様」の声が、刃みたいに背中へ刺さる。
まだ頑張れるだろ。
まだ動けるだろ。
寝たら終わりだろ。
私は笑って頷いた。
頷ける自分が、価値だと思った。
倒れたとき、手は空だった。
守りたかったものも、好きだったものも。
最初から抱えていなかったみたいに、軽かった。
——だから。
私はこの世界で、やっと息をしたいと思った。
畑の匂いを「好き」だと思った。
火のあたたかさに、身を寄せたいと思った。
なのに、その瞬間に怖くなる。
幸せの形に触れたら、いつか必ず奪われる気がして。
奪われる前に、自分から手を離してしまう。
「私は……」
声が、喉の奥で擦れる。
「私が隣にいるって、きっとその人の迷惑で……」
言い終わる前に、エルザさんの手が私の手の上に重なった。
指の節が少しだけごつごつしている。
畑を触ってきた手だ。
それが、私の震えを包む。
「凛ちゃん」
呼ばれただけで、胸がきゅっと縮んだ。
“聖女様”じゃない。
役目じゃない。
名前の呼び方ひとつで、私はこんなに弱くなる。
エルザさんは、私の目を見た。
逃がさない。
でも、痛くない。
「迷惑かどうかは、相手が決めることだよ」
私は唇を噛んだ。
それでもまだ、奥の方が抵抗する。
相手が決めてくれても、私が受け取れない。
受け取った瞬間、自分が許せなくなる。
「……私、何も返せないです」
声が震えて、息が吸いきれない。
「何かしてあげられないのに……もらうのが、怖い」
エルザさんは、私の手をそっと引いて、両手で包み直した。
指先を温めるみたいに、ゆっくり。
「返さなくていいよ」
それは、簡単に言える言葉じゃない。
私は知っている。
“返さなくていい”と言う人ほど、見返りを求めない人ほど、私は信じられなくなる。
だって私はずっと、見返りの形でしか愛を知らなかった。
「凛ちゃん」
もう一度、名前。
「幸せになっていいんだよ」
その言葉が、胸の底へ落ちた。
落ちて、ずっとそこに沈んでいた硬い塊へ触れた。
ぱき、と。
音のない音で、何かが割れた気がした。
私は息を吸い込んだ。
吸い込んだ分だけ、目の奥が熱くなる。
こらえようとしたのに、まぶたの端から溢れた。
「……っ」
声が出ない。
喉が痛い。
胸が痛い。
痛いのに、少しだけ軽い。
涙が頬を伝って、顎へ落ちた。
毛布の上に小さな染みが増える。
自分の涙の温度が、こんなにあたたかいなんて知らなかった。
「……いいんですか」
やっと言えた言葉は、子どものみたいに頼りなかった。
私は怖かった。
許されたら、もう頑張れなくなるんじゃないかって。
頑張れなくなった私が、誰にも必要とされなくなるんじゃないかって。
エルザさんは、私の頬を指の背で拭った。
指先じゃなくて、背。
傷つけないように。
「いいの」
断言だった。
「凛ちゃんはね、もう十分やった。ここにいるだけで、ちゃんと偉い」
偉い、なんて。
そんな評価は欲しくないはずなのに。
“点数”みたいな言葉のはずなのに。
今の私は、それに縋りつきそうになる。
でも、エルザさんの目は点数をつけていない。
勝ち負けを決めていない。
ただ、そこにいていいと、置いてくれている。
私は肩を震わせて泣いた。
泣くのを止めようとして、止められなかった。
止めないでいい、と身体が初めて知ってしまった。
「ごめんなさい……」
謝罪が先に出る癖が、まだ抜けない。
エルザさんは首を横に振った。
「謝らないで。泣くのは、悪いことじゃない」
その言葉に、さらに涙が出た。
胸の内側に溜まっていたものが、湯気みたいに抜けていく。
息が、ようやく深くなる。
しばらく、私は泣いていた。
エルザさんは何も言わず、ただ手を握っていてくれた。
薪がはぜる音が、規則正しく聞こえる。
夜の匂いが、少しだけ甘くなった。
涙が落ち着いてきたころ、私は袖で頬を拭いた。
袖が湿って、冷たい。
でも、前みたいにそれが怖くなかった。
「……まだ、すぐには変われないと思います」
私は正直に言った。
「また『私なんか』って言うと思う」
エルザさんは笑った。
小さく、皺が増える笑み。
「それでいいよ。言ってもいい。ただ、戻っておいで」
戻っておいで。
その言葉は、道しるべみたいだった。
迷ってもいい。転んでもいい。
でも、帰っていい場所がある。
私はカップを置き、両手を膝の上に戻した。
指が、さっきより少しだけ素直だ。
胸の奥で、まだ怖さは残っている。
幸せを受け取ることへの、古い恐怖。
でもその怖さの隣に、別の小さなものが芽を出している。
——明日。
私は目を閉じて、息を吸った。
火の匂い。お茶の香り。木の家のぬくもり。
ここにいる私を、誰も追い出さない夜。
明日、言おう。
怖いままでもいい。
声が震えてもいい。
それでも——答える。
「……エルザさん」
呼ぶと、彼女が「なあに」と返した。
私は小さく頷いた。
自分に向けて、頷いた。
「明日、返事をします」
言葉にした瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。
幸福はまだ遠い。
でも、手を伸ばすことくらいは、許していい気がした。
明日。
レオンさんに。
——次話「大神官の追放」――ざまぁの歯車が、さらに加速する。
拙い文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。
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