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「もう頑張らなくていい」と言われた聖女は、初めて自分のために泣きました  作者: 歩人


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第32話: レオンの言葉

 ——夕暮れの薬草畑。



 夕暮れの薬草畑やくそうばたけは、光だけが先に静かになっていく。

 葉の縁が金ににじみ、風に揺れるたび、香りが薄くほどけた。


 土の湿り気。

 乾きかけた草の苦味。

 指先に残るミントの冷たさ。


 私はうねの間に膝をついて、根を傷つけないように指をくぐらせる。

 引き抜いた薬草の土を払って、かごへ。

 同じ動作を繰り返すと、心も落ち着くはずだった。


 なのに今日は、落ち着かない。

 胸の奥に、言葉にならないざわめきが居座っている。


 隣の影が、少しだけ動いた。


 よろいが草をこする音。

 それから、どすん、と重さ。

 レオンさんが畝の端に腰を下ろしたのだと分かった。


 彼は何も言わない。

 いつものことだ。

 でも今日は、いつもより……沈黙が近い。


 私は手を止めずに、背中だけで彼の気配を測る。

 剣を握る人の手が、薬草の束を運ぶのに慣れてしまったこと。

 その指先が擦れていること。

 それを見て、嬉しいのに、怖い。


 守られる、という形が苦手だ。

 誰かの善意に乗った瞬間、私は“返さなきゃ”と思ってしまう。

 笑って、頷いて、「大丈夫」と言って。


 でも、この人は違う。

 前に立つ盾みたいに見えて、どこかいつも、同じ高さへ来ようとする。

 肩に力が入っているのに、視線だけは私かららさない。


 籠の取っ手を握る指に、力が入った。

 関節が白くなる。


 今なら。

 夕暮れが、背中を押してくれる気がした。


 「……レオンさん」


 短く呼ぶと、隣の空気がわずかに変わる。

 返事はない。

 けれど、聞いている。

 その気配だけで、胸が熱くなった。


 この人は、いつも私の少し前に立つ。

 危ないとき、寒いとき、誰かの視線が刺さるとき。

 背中で風を受けて、私の前をふさぐ。


 ありがたい。

 本当に、ありがたいのに。


 その背中を見るたび、私は思ってしまう。

 私は“守られる側”に固定されるんじゃないか、と。

 いつかまた、役目や価値で測られる場所へ戻されるんじゃないか、と。


 だから私の口から出る言葉は、いつだって遠回りになる。

 本当は、簡単な一言が欲しいだけなのに。


 私は息を吸う。

 畑仕事の延長みたいな声を作る。

 ただの確認、ただの雑談……そう言い訳できるように。


 「どうして、ずっと……私の隣にいてくれるんですか?」


 言い終えた瞬間、風が一拍遅れて止まったように感じた。

 薬草の葉が、動かない。

 遠くの鳥の声が、薄くなる。


 レオンさんは、瞬きを一度だけして——黙った。


 沈黙が落ちる。

 落ちた沈黙は、ひどく重いのに、荒々しくない。

 拒絶じゃない。

 言葉を探している沈黙だ。


 レオンさんの沈黙は、いつも優しい。

 答えを急がない。

 私の言葉が整うまで、待つ。


 それが、また怖い。

 待ってくれる人に、私は弱い。


 彼の喉が、こくりと動く。

 鎧の内側で、胸が一度だけ深く膨らむ。


 それでも、何も出てこない。


 彼の手が腰の辺りへ下りる。

 剣の柄に触れる癖で、何もない空をつかみかけて——やめた。

 空振りが、妙に痛々しい。


 私は視線を落とした。

 踏み固められた畝の道。

 小さな石。

 夕日の影が、ゆっくり伸びていく。


 重かったのかもしれない。

 答えたくない問いだったのかもしれない。

 そう思って、口の中が苦くなる。


 「……ごめんなさ——」


 言いかけたところで、レオンさんの拳が小さく握られた。

 ただ拳を作っただけなのに、震えている。

 冷えじゃない。夕暮れはまだ、寒くない。


 私は籠をそっと地面に置いた。

 草の上に。

 音を立てないように。


 両手を膝の前で重ねる。

 逃げない、と身体で伝えるみたいに。


 長い沈黙のあと。

 彼は、ようやく口を開いた。


 「……俺は」


 かすれた声だった。

 いつもの低い声とは違う。

 胸の奥から引きずり出したみたいな声。


 その声だけで、私の目の奥が熱くなる。

 まだ何も言われていないのに。


 レオンさんは、夕日の方を見たまま続けた。

 視線を合わせたら、言葉が崩れてしまうみたいに。


 「俺はあんたを守りたかったんじゃない」


 言葉が、ゆっくり落ちる。

 土に染みる水みたいに、逃げ場なく広がる。


 私は、過去の光景を思い出してしまう。

 神殿しんでんの白い廊下で、騎士たちの視線から私を隠すように、彼が一歩前へ出た日。

 王宮おうきゅうで、私の手首に残ったあざを見て、唇を固く結んだ日。


 守るという言葉が、彼の中でどれだけ重かったのか。

 私は想像するしかない。

 けれど今、彼がその言葉を否定したことが、なぜだか嬉しくて、怖かった。


 守る、という言葉は前へ出る。

 盾になる。

 相手を“後ろ”に置く。


 それが優しさだって知っているのに。

 私の心は、あの形が怖い。

 守られる場所は、いつだって窮屈で、孤独だから。


 レオンさんは一度、言葉をんだ。

 喉が鳴る。

 次の一言までの間が、痛いほど長い。


 夕日がもう少し沈んだ。

 畑のくいが影になり、私たちの足元へ斜めの線を引く。

 時間が、終わりへ向かっているのが分かる。


 だからこそ、今ここで落ちた言葉は、戻らない。


 「あんたの隣にいたかった」


 呼吸が止まる。


 「それだけだ」


 たった一行。

 不器用で、無駄がなくて、逃げ道もない。

 なのに、胸の奥をまっすぐ撃ち抜く。


 隣にいる、という言葉は前に出ない。

 引っ張らない。

 支配しない。

 同じ景色を、同じ速さで見ようとする。


 私が欲しかったのは、きっとそれだ。

 そう思った瞬間、身体の力が抜けそうになった。


 目の奥がじわりと熱い。

 泣くつもりなんてなかったのに、涙は勝手にまる。

 こぼれる前に笑って誤魔化そうとして——失敗した。


 「……っ」


 息が震えて、声にならない。

 頬に落ちたしずくが、土の匂いを少しだけ濃くした。


 私は袖でぬぐう。

 拭っても、また溢れる。

 止まらない。


 レオンさんが、初めて私の方を見た。

 夕日の中で、その目だけが妙に近い。

 困ったように、でも、逃げない目。


 「……変か」


 ぶっきらぼうな問い。

 いつもなら、私が笑って否定して終わらせる言い方。

 でも今は、終わらせたくない。


 私は首を振った。

 何度も、小さく。


 「……嬉しいです」


 嬉しい。

 それは嘘じゃない。

 でも、嬉しいだけじゃない。


 この言葉を受け取ってしまったら、私は次の言葉を返さなきゃいけない気がする。

 釣り合う答えを。

 綺麗な形にして。

 急いで。


 それが怖い。

 今の私には、まだ——準備ができていない。


 「でも……ごめんなさい」

 声が揺れて、みっともない。

 それでも言う。

 「今すぐ、ちゃんと……答えを返せる自信が、ないです」


 拒んだと思われたらどうしよう。

 傷つけたらどうしよう。

 怖くて、息が浅くなる。


 それなのに、レオンさんの表情は変わらなかった。

 怒りでも、戸惑いでもない。

 ただ、噛み砕くみたいな、静かな理解。


 「……分かってる」


 短い返事。

 それだけで、肩から力が抜けた。

 この人は急がない。

 急がせない。


 私の返事が“はい”でも“いいえ”でもないことを、この人は受け止めてしまう。

 受け止めて、抱えて、どこにも投げない。

 そんな人に、私はどうやって正しい答えを返せばいいんだろう。


 その優しさが——ずるい。

 私の心が追いつくのを待ってくれる優しさに、甘えてしまいそうになる。


 涙が、もう一度落ちた。

 私は笑えないまま、言ってしまった。


 「……ずるいです」


 レオンさんは一瞬だけ目を見開き、すぐに視線を落とした。

 耳の先が夕日のせいじゃなく、赤い気がした。


 「……悪い」

 低い声で、短く。

 謝罪の形なのに、どこか大事に抱えるみたいな響きだった。


 薬草畑が、静かに呼吸する。

 干し草の匂いが甘くなる。

 沈む光が、私たちの影を長く伸ばしていく。


 私の中で、何かがほどけていく。

 それは“守られる怖さ”じゃない。

 隣にいたい、と言われたときにだけ生まれる、温かい不安。

 その不安は、私の足を縛らない。

 ただ、次の一歩を慎重にさせる。


 私は籠を抱え直した。

 作業を終えて屋敷やしきへ戻らなきゃいけない。

 いつもの道を歩く。

 いつもの時間に戻る。


 でも、もう“いつも”のままではいられない。

 たった一行が、私の世界の中心をずらしたから。


 立ち上がろうとしたとき、袖の端が引かれた。


 さっきと同じ。

 握りしめない。

 引き寄せない。

 ただ、離さないための力。


 私は息を止めて、振り向く。


 夕暮れの中で、レオンさんは一度だけ、喉を鳴らした。

 言葉を飲み込む癖みたいに、唇を結んで——ほどく。


 私も、言葉を探す。

 「ありがとう」では足りない。

 「嬉しい」だけでは逃げになる。

 でも、恋の言葉を返すには、私はまだ幼すぎる。

 この世界で“好き”は、簡単に誓いと責任に変わってしまうから。


 それでも。

 袖を掴む指先の熱に、私はほんの少しだけ身を預けた。

 今の私にできる精一杯で、隣へ寄る。


 そして。

 静かに、私の名前を呼んだ。


 「凛」



 ——次話「素直になれない夜」――次の一手が、運命を動かす。

拙い文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。

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