第31話: 王太子の凋落
——聖女を道具にした代償は、王太子の座そのものだった。
王太子セドリックは、玉座の間で“王太子”ではなくなった。
聖女を政治に使った——その事実が、王都の噂から評議の議事録へ落ちるまで、三日とかからない。
決定だけは、いつも速い。
半円に並ぶ貴族たちの視線は、刃より静かだった。
怒号も罵声もない。あるのは、責任の切り分けと、国の顔を守る算段だけ。
「聖女を道具にした王太子など、玉座に近づけてよいはずがない」
「神殿の信義を損ね、民の祈りを踏みつけた。——この件は“個人の逸脱”として処理すべきだ」
「王家が組織として関わったと知られれば、諸侯は必ず揺さぶる。次の反乱の火種になる」
セドリックは、言葉を飲み込んだ。
“国のため”という言い訳は、ここでは通用しない。
通用しないのではない。通用させれば、同じ過ちが仕組みとして温存される。
老公爵が紙を掲げる。
印璽の朱は乾き、すでに誰のための決裁でもない色をしていた。
「王太子セドリック・アルディス。聖女の政治利用を主導し、王宮と神殿の関係を損ね、国威を傷つけた」
「よって——王太子の座を剥奪。王位継承の列より外す」
宣告は淡々と落ちた。
処刑より残酷なのは、感情が一切混じらないことだ。
「今後は“聖女保護”の名目で行ってきた政策を改める。神殿との協定も見直す」
「責は殿下個人へ帰し、王家の権威は守る。——それが唯一の落とし所だ」
「民は分かりやすい悪を求める。分かりやすい“断罪”を与えれば、混乱は鎮まる」
議論はセドリックを見ないまま進む。
彼がそこにいるのは、もはや“説明すべき当事者”ではない。
“処理される案件”としての存在だ。
「異議はあるか」
問う声は形式で、否定の余地を用意していない。
セドリックは背筋を伸ばした。
ここで取り乱せば、最後の品位すら失う。
「……ありません」
僅かな間。
貴族たちの空気が、安堵の方向へわずかに緩む。
“片付いた”という顔だ。
「王太子の証——肩章と佩剣を」
セドリックは留め具を外し、金糸の肩章を掌に置いた。
剣帯をほどき、鞘ごと剣を机へ滑らせる。
腰の軽さが、骨まで冷やした。
「今後は王都を離れ、領外で静養とする。——国に混乱を残さぬためだ」
「……承知しました」
立ち去る背へ、誰も言葉を投げない。
追うべき部下も、肩に手を置く友もいない。
あったのは肩章と剣と、役割だけだったのだと——今さら理解する。
扉が閉まる音がした。
その音は、王都の噂が確信へ変わる音と同じだった。
回廊へ出ると、待機していた廷臣たちが一斉に目を伏せた。
礼はする。だがそれは王太子への敬意ではなく、王宮の作法への敬意だ。
すれ違いざま、囁きが薄く追いかけてくる。
「——継承順位の繰り上げは」
「次の評議で決まる。今は火消しが先だ」
「聖女の件は、これで終わりにできる。……できなければ困る」
終わりにする。
あの人の人生を燃やして得た便利さを、“一件”として閉じる。
セドリックは歩幅を変えず、ただ奥歯を噛み締めた。
振り返らないのは、逃げではない。
振り返ったところで、もう誰も彼の背に道を作らないからだ。
夜。
セドリックは、与えられた小さな部屋で便箋を前に手を止めていた。
王太子の執務机はない。報告もない。命令も届かない。
残ったのは、言葉だけだった。
だが言葉は、遅れた者の慰めにしかならないと知っている。
凛。
彼女の名を思うと、胸の奥に空洞が広がる。
自分が見ていたのは“聖女”で、彼女の人間としての重さではなかった。
王都で彼女がどんな目を向けられていたか、思い返すたび胃が冷える。
微笑めと言われ、祈れと言われ、救えと言われ——拒めば「聖女ではない」と囁かれる。
その“優しい圧力”を、セドリックは守護だと思い込んだ。
実際は、檻だったのに。
ペン先を紙に置く。
書きながら、言い訳を削り落とす。
許しを乞えば、また相手から何かを奪うことになる。
——もう二度と、それはしない。
『凛へ。
君の価値を知るのが遅すぎた。
君を“国の宝”と呼びながら、君の痛みと尊厳を計算に変えた。私がしたのは保護ではなく、利用だ。
私は君を救ったつもりでいた。だが本当は、君が救うたびに減っていくものを見ないふりをした。
勝つために必要だと考え、必要だから正しいと考えた。——その思考が、人を道具に変えるのだと、今は分かる。
許してほしいとは言わない。返事も不要だ。
ただ、私の過ちが私の名で裁かれたことだけは、伝えておきたい。
王太子の座は剥がされ、継承の列から外された。私は、私のしたことの重さをようやく自分の身体で知った。
それが君の失ったものに釣り合うとは、思っていない。釣り合うはずがない。
君が、もう誰の道具にもならずに生きていることを願う。
そしてもし、私の名が君の生活のどこかに刺さっているなら——それがただの音に戻るまで、遠くにいる。
セドリック』
封を閉じると、胸が軽くなるどころか、静かな重さが残った。
贖罪ではない。ただの自覚だ。
それでも彼は、その紙片を出さずにはいられなかった。
部屋の窓から見える王都の灯りは、いつも通りだ。
灯りの下では、明日の取引があり、明日の陰口があり、明日の祈りがある。
そのどれにも、自分の席はない。
——そうして、ようやく理解した。
王太子とは、玉座へ向かう人間ではなく、皆が作る道に乗っているだけの人間だったのだと。
道が消えれば、ただの男だ。
リンデン村。
乾いた風が畑を撫で、遠くで桶の水がはねる音がした。
凛は診療所の机で、薬草の束を整えていた。
封のある手紙が届いても、作業の手は止まらない。
火にかけた鍋の湯気が落ち着き、乾燥棚の布を確かめ、最後に手を洗う。
それから封を切った。
紙の擦れる音がして、王都の匂いが一瞬だけよぎる。
けれど心は、もうそこへ戻らない。
王都にいた頃、手紙は命令だった。
封を開けるたび、私の時間が誰かの都合に変わっていく。
だから、今は手順を守る。
洗って、拭いて、整えて——それから開く。
私の生活は、私の順番で流れる。
凛は淡々と目を走らせた。
そこにあるのは謝罪と、遅い反省と、失った者の礼儀正しさ。
悪意はない。だからこそ、受け取る痛みもない。
読み終え、凛は小さく息を吐いた。
感情ではなく、確認として言葉が落ちる。
「……遅すぎましたね」
凛は手紙を折り、引き出しを開けた。
中には診療の記録、薬の配分、村の家々の覚え書き。
そこへ紙片を収め、他の書類と同じ厚みに揃える。
引き出しを閉める。
鍵は掛けない。鍵が必要なものではないから。
少し前なら、胸がざわめいたはずだ。
怒りか、悲しみか、諦めか。
でも今の私は、そのどれにも時間を割かない。
手紙を閉じた瞬間、心の中で何かが“終わった”というより、既に終わっていたことを確認しただけだった。
窓の外では子どもが笑い、誰かが薪を割る音がする。
生活は、奇跡より強い。
奇跡を“道具”にしなくても、明日は作れる。
凛は白衣の袖を整え、外の光を受けた。
冷たい風が頬に触れたが、不思議と心地よかった。
畑の向こうに、小さな煙が上がっている。
昼の支度だ。薬湯の匂いと、パンの焦げる匂いが混ざる。
私はその匂いの中へ歩いていく。
誰かの期待に縛られるためではない。
誰かの痛みを軽くするためだ。
そして——自分の明日を、自分で選ぶためだ。
過去は過去。
あの手紙は、閉じた引き出しの中で紙に戻った。
だから私は、今日の患者の名を呼ぶ。
明日も同じように、前だけを見る。
それでいい。
——次話「レオンの言葉」――二人の距離が、もう一段近づく。
拙い文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。
☆やブックマークで応援いただけると、とても励みになります!




